meimay

日々のこと記してます。

プラーナ〜〜。

2017年10月03日 | 倍音声明瞑想


仕事場のPCの上でカメムシが仰向けになって他界していた。

成瀬氏の呼吸法の本を読んでいたらすごいことが書いてありました。

昔のヨーガ行者の接していた大気にまでたどり着くことができるそうです。
大気の流れを遡っていけば昔のヨーガ行者の呼吸の動きにたどり着ける、その行者の呼吸の音に注意を向けるとどういう呼吸をしているかがわかる、その呼吸の音すら聞こえない場合には呼吸をコントロールしている意識を捉える、が、その意識さえ捉えられない呼吸法があるのだそうです。

息を止めることで意識の動きも止めることができる。
自然に息が止まった、けども、
肉体内の細胞との間では流通している(皮膚呼吸とはちがう)、「プラーナが自由に流通している」


昨日は、身体を整えることを記していたけれども、
肉体の存在に対する執着から解放されることで 地上1メートルを超える空中浮揚 に成功されたのだそうです。

プラーナをコントロールするという呼吸法から解放されて、「プラーナが自由に流通している」とこまでたどり着くと、身体は無いといえるのかもしれない。

悟り、解脱、目覚めるの違いはよくわからないけれども、
身体は無い。というイメージはなかなかよく実感できないというのか、実感してる場合じゃないのかもしれないけれども、
プラーナの交流があるということだから、人を構成している要素は分子、原子、素粒子なのだという、プラーナとの交流に馴染んできたらあまり食べなくてもよくなりそうですね。

身体は無いというは、肉体の執着から解放された〜というのなら理解できそうです。


ところで、
無いのだけども、肉体を伴う嗜好は充分あるよね。なのに身体は無いなんて・・・そういうのはどうなるのだろうかやはりイメージだけを構築すればいいのだろうか。
エーテル体に邪気は溜まりやすいみたいだ。
それが肉体面におおいに表現されている場合がある。
それはしかたないよね、生きてるんだもの、いくら昨日までの己は死んだとしても邪気は蓄積されている。

ゆえに、瞑想とか呼吸法での浄化は大切なのだと思う。