周囲の知人に抜歯後の処置のことを聞くとブリッジであった。
インプラントは高額すぎるしで、わたくしもブリッジの方向で行くことにしようと思うが、奥歯を削られるのがつらい。
昨日の治療のおかげか歯茎を押しても痛くはなくなっている。
あそこの歯科は皆、意識が高いのではないのかと思う。
聞き取りも説明も対応も丁寧できちんとしていて、大阪府内43件の歯科の名医に選ばれている。
今中(いまなか)に集中していると自然に意識は高くなるのであると思う。
それに、人間は皆、霊的存在である。
意識が高くなることで、集中力も増して、知識や技術も磨かれ、それに伴って霊的能力も源泉が深くなって開花するのは当然ではないのだろうか。それと人間性とがイコールするかどうかはわからないけれど、いつもいつもボーッとしていては直感力も底の浅いものになるのではないのだろうか。鋭い直感が冴えていると、思考して懸命に思考した後のボーッとしたとき(風呂に入ったり散歩したりとか・・・)にいいアイディアが降りて来るということはよく聞く。
だけど、わたくしなどはそこまで思考したことないので、ボーッとしているときの直感も外れているように思う。
自分の感覚が大事なのよ。
というスピ系はアホのようにいるが、いつもいつもボーッとしている人の感覚は、言葉力というものがないので、何を言っているのかさっぱりわからないし、大切なことは言葉ではいいあらわせないのよというほどに、そのあらわせないものはその人の世界だけなので、他者に響くこともないので、影響力もなく、意味不明で、始末の悪いことは、それが高次元と繋がっていると本人は思っているのが、とても気持ち悪いと思ってしまうのである。
あ、話がそれすぎたが、自己満足で遊びたいだけの人は、内輪でそれをやるといいのだと思うだけである。
自己満足だけで本当に他者や自分の本質と出会うことなどあるのだろうか。そこに悟ったような説法っぽいものが入るとまじ気持ち悪すぎてこの世の終わりを感じてしまう。
美しいハーモニーを奏でるということはどういうことなのだろうか。
共感や共鳴は心の響き合いだけのような気もする。
何度か成瀬先生の倍音瞑想に参加させていただいたことがある。
倍音瞑想とは、「音の集合体」の中に身を置くダイナミックな瞑想法である。
見知らぬ人たちと大広間に座ったり洞窟のような場所で(合宿)30人くらいの人たちと倍音瞑想をやるのである。
声を出して響き合うだけなのだが、終わった後の爽快感は半端ない。
ときにそうでもないときもあるのだが、響きのいい空間だと、見知らぬ人たちとの関わり合いの感覚が、この人とは合う、この人とは合わないという垣根を超えて、あの感覚はつながっているという感覚なのだろうか・・・まあ、心身ともにとても浄化されて軽くなったライト感覚が芽生えているので、見知らぬ人たちとも違和感なく接することができるようになるのが不思議だ。
その感覚は、皆で楽しい時間を過ごしたなぁ〜というような感覚ではない。
なぜなら、身体にも響き感が充満していると思うので、心身ともに浄化されると、ああいう感覚が芽生えて来るのだと思われる。
響き合って、音と音がハーモニーのように・・・どうなっているのだろうか。身体にもだいぶ響いているのでそうなるのだと思われる。だって、大ホールのライブ感覚ともまったく違うのだからね。
だけどもそれも倍音瞑想を皆で行う空間にもよるので、そういう感覚に大してならないときもあった。
大阪でも成瀬先生の倍音瞑想は行われているのだけれど、洞窟でやったような感覚にはならないのは、空間の響き感なのだろうと思う。