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日々のこと記してます。

空間によると思う。

2023年07月27日 | 倍音声明瞑想

周囲の知人に抜歯後の処置のことを聞くとブリッジであった。

インプラントは高額すぎるしで、わたくしもブリッジの方向で行くことにしようと思うが、奥歯を削られるのがつらい。

 

昨日の治療のおかげか歯茎を押しても痛くはなくなっている。

あそこの歯科は皆、意識が高いのではないのかと思う。

聞き取りも説明も対応も丁寧できちんとしていて、大阪府内43件の歯科の名医に選ばれている。

今中(いまなか)に集中していると自然に意識は高くなるのであると思う。

 

それに、人間は皆、霊的存在である。

意識が高くなることで、集中力も増して、知識や技術も磨かれ、それに伴って霊的能力も源泉が深くなって開花するのは当然ではないのだろうか。それと人間性とがイコールするかどうかはわからないけれど、いつもいつもボーッとしていては直感力も底の浅いものになるのではないのだろうか。鋭い直感が冴えていると、思考して懸命に思考した後のボーッとしたとき(風呂に入ったり散歩したりとか・・・)にいいアイディアが降りて来るということはよく聞く。

だけど、わたくしなどはそこまで思考したことないので、ボーッとしているときの直感も外れているように思う。

 

自分の感覚が大事なのよ。

というスピ系はアホのようにいるが、いつもいつもボーッとしている人の感覚は、言葉力というものがないので、何を言っているのかさっぱりわからないし、大切なことは言葉ではいいあらわせないのよというほどに、そのあらわせないものはその人の世界だけなので、他者に響くこともないので、影響力もなく、意味不明で、始末の悪いことは、それが高次元と繋がっていると本人は思っているのが、とても気持ち悪いと思ってしまうのである。

あ、話がそれすぎたが、自己満足で遊びたいだけの人は、内輪でそれをやるといいのだと思うだけである。

自己満足だけで本当に他者や自分の本質と出会うことなどあるのだろうか。そこに悟ったような説法っぽいものが入るとまじ気持ち悪すぎてこの世の終わりを感じてしまう。

美しいハーモニーを奏でるということはどういうことなのだろうか。

共感や共鳴は心の響き合いだけのような気もする。

 

何度か成瀬先生の倍音瞑想に参加させていただいたことがある。

倍音瞑想とは、「音の集合体」の中に身を置くダイナミックな瞑想法である。

 

見知らぬ人たちと大広間に座ったり洞窟のような場所で(合宿)30人くらいの人たちと倍音瞑想をやるのである。

声を出して響き合うだけなのだが、終わった後の爽快感は半端ない。

 

ときにそうでもないときもあるのだが、響きのいい空間だと、見知らぬ人たちとの関わり合いの感覚が、この人とは合う、この人とは合わないという垣根を超えて、あの感覚はつながっているという感覚なのだろうか・・・まあ、心身ともにとても浄化されて軽くなったライト感覚が芽生えているので、見知らぬ人たちとも違和感なく接することができるようになるのが不思議だ。

その感覚は、皆で楽しい時間を過ごしたなぁ〜というような感覚ではない。

なぜなら、身体にも響き感が充満していると思うので、心身ともに浄化されると、ああいう感覚が芽生えて来るのだと思われる。

 

響き合って、音と音がハーモニーのように・・・どうなっているのだろうか。身体にもだいぶ響いているのでそうなるのだと思われる。だって、大ホールのライブ感覚ともまったく違うのだからね。

だけどもそれも倍音瞑想を皆で行う空間にもよるので、そういう感覚に大してならないときもあった。

大阪でも成瀬先生の倍音瞑想は行われているのだけれど、洞窟でやったような感覚にはならないのは、空間の響き感なのだろうと思う。


観察されるものと等しくなる。

2023年02月13日 | 倍音声明瞑想

 

今日、二回目のUP!

続きであります。

 

上の写真の色彩カードをパソコンの裏に貼っている。

制作者によると電磁波対策に可能な色合いなのだとか、色彩理論はわからないけれども、アーユルヴェーダでは人間の体質をヴァータ、ピッタ、カパの三つに分けてドーシャという。色の性質がそのドーシャへ影響を及ぼすと考えられていて、色がわたしたちの体や心に及ぼす影響は大きいという。

 

ところで、「なる」を実感するためには、観察者はその光景の中に融合して観察されるものと等しくなるということなのだろうか。なら、思考をとめなければ「なる」には程遠いと思う。

成瀬先生の倍音瞑想のとてもいいところは、瞑想しながらも動ける身体をつくることなのかもしれない。実際、声を出しながら自分の番が来たら動かなくてはならない。この世とあの世を往来するような瞑想だとも思う。この世は硬い。あの世は柔らかい。優しく柔らかい連結のあの世、且つ、この世ではしっかりと身体で動けるという明晰さも養うこと、それが倍音瞑想なのだと思う。

 

 

観察者はその光景の中に融合して観察されるものと等しくなる。

ということは簡単なことじゃない。誰もがすぐに到達できるものでもない。

 

この世の固い物質世界で生きていてそれが当たりまえになっていること自体を崩さないといけない。

そうなると必然的にすぐれたものを生み出せるようになるのでは・・・と思う。


プラーナ〜〜。

2017年10月03日 | 倍音声明瞑想


仕事場のPCの上でカメムシが仰向けになって他界していた。

成瀬氏の呼吸法の本を読んでいたらすごいことが書いてありました。

昔のヨーガ行者の接していた大気にまでたどり着くことができるそうです。
大気の流れを遡っていけば昔のヨーガ行者の呼吸の動きにたどり着ける、その行者の呼吸の音に注意を向けるとどういう呼吸をしているかがわかる、その呼吸の音すら聞こえない場合には呼吸をコントロールしている意識を捉える、が、その意識さえ捉えられない呼吸法があるのだそうです。

息を止めることで意識の動きも止めることができる。
自然に息が止まった、けども、
肉体内の細胞との間では流通している(皮膚呼吸とはちがう)、「プラーナが自由に流通している」


昨日は、身体を整えることを記していたけれども、
肉体の存在に対する執着から解放されることで 地上1メートルを超える空中浮揚 に成功されたのだそうです。

プラーナをコントロールするという呼吸法から解放されて、「プラーナが自由に流通している」とこまでたどり着くと、身体は無いといえるのかもしれない。

悟り、解脱、目覚めるの違いはよくわからないけれども、
身体は無い。というイメージはなかなかよく実感できないというのか、実感してる場合じゃないのかもしれないけれども、
プラーナの交流があるということだから、人を構成している要素は分子、原子、素粒子なのだという、プラーナとの交流に馴染んできたらあまり食べなくてもよくなりそうですね。

身体は無いというは、肉体の執着から解放された〜というのなら理解できそうです。


ところで、
無いのだけども、肉体を伴う嗜好は充分あるよね。なのに身体は無いなんて・・・そういうのはどうなるのだろうかやはりイメージだけを構築すればいいのだろうか。
エーテル体に邪気は溜まりやすいみたいだ。
それが肉体面におおいに表現されている場合がある。
それはしかたないよね、生きてるんだもの、いくら昨日までの己は死んだとしても邪気は蓄積されている。

ゆえに、瞑想とか呼吸法での浄化は大切なのだと思う。

続けること

2017年10月01日 | 倍音声明瞑想


10月1日(日曜日)午後から倍音声明瞑想に参加!

森ノ宮から大阪城公園を抜けて会場へ。公園歩くのひさしぶり。


今日は30名以上はいたと思う。
大勢での倍音声明瞑想〜
ひとりでやってるときは周囲の人たちに意識を配ることはないけれど、沈黙の順番が回ってくると楕円の中央に移動するので全体把握もしなければならない。
この移動しながらの倍音声明瞑想いいと思う。部分と全体を身体をもってして意識に連動さすことができる気持ち良さとクリアー感の狭間を把握できるという快感があるような気がする。

倍音声明瞑想が終了すると、次は呼吸法、
できない呼吸法があった〜というよりも前回も習っていたのだけども、こっちのほうはまったくやってなかったので、明日からやることとする。

イメージだけではやはりダメなのですね。
本を読んだだけで納得したのでは潜在意識に入っていかないというのか、繰り返し繰り返し呼吸法でもって身体も使って認識していくことで潜在意識に働きかけるというのか、
知識イメージだけでは、どうももろいような気がする。

身体を使って、続けることが一番手っ取り早いと思う。
「身体と言葉と意識」、
身体(呼吸法)を使って潜在意識に揺さぶりをかけるというのか・・・難しいことはよくわからないけれども、とにかくやり続けることがいいみたい。

潜在意識は変化を避けようとするみたいだから、少しずつやり続けること。
まあ、潜在意識と身体を連動させるには「呼吸法」がいいのです。

でも、続けないと効果はでない。
なぜなら、潜在意識は変化が嫌だから、繰り返しやることで根付かせるしかないのだと思う。

身体を整えることって、とってもたいせつ。
なーんて、わたしも今日あらためてそう思ったのでした。

響いてカタチ

2017年08月25日 | 倍音声明瞑想
Amazing Resonance Experiment!



クラドニ図形です。

ウィキペディアより〜
金属・プラスチック・ガラス・ボウルなどにピンと張ったラップなどの平面にスピーカーなどで振動を与え音程を変えると、共鳴周波数において平面の強く振動する部分と、振動の節となり振動しない部分が生じる。
ここへ例えば塩や砂などの粒体を撒くと、振動によって弾き飛ばされた粒体が節へ集まることで、幾何学的な模様が観察される。




音に言葉が受肉するのだろうか。この世にあらわれいでるカタチ、幾何学模様。
ピラミッドのあのカタチ、ピラミッドパワーもってる人いてますか、そーいえば、また、月曜日にその方のお話しが聞けますね。楽しみ! 早引きさせてもらうつもりじゃ。

周波数が高くなる(波長が短くなる(音が高くなる))ほど、複雑な形状になっていくのだそうだ。
目にみえないもの(ある物体になる固有の振動)を可視化するとこうなっちゃいましたということなのだろうかな。

クラドニ図形って、縦、奥行き方向か、
見てるのは平面の二次元だけど、三次元になったら、どうなるのか、

倍音声明瞑想は日課になりましたが、なぜ毎日やってるのかというと、ルーティンワークのひとつなのですが(繰り返し、これ大事よ)、
続けていると、いつか、音が見えるようになってくるのではないのかと・・・実際、色、たぶん、見えてるし、でも、あれがそうなら、若い頃から見えてたとも思う。

でも、そのあげくの果ては、制御不可能なこの世になるのだったら、このままでいいかもね。


コノよは空(くう)なら身体も音と繋がってるよね。
あなたの宇宙はどのようなカタチと響き合っているか。

名の無きものから名のあるものはイコールなのだね、なら、成ってるよね。