ときにはこんな話でも。  ~眼鏡操縦士のブログ~


写真、カメラ、レンズ、革カバンなど

心のまにまに
書き記し、書き連ね、書き散らし

そして、考える。

表現すること

2016年06月15日 21時19分03秒 | 写真
 いつも行く写真屋で、店主の人とよく長話をする(笑)
 長いときは、2~3時間立ち話とか・・・お客さんが来ないとはいえ、営業妨害みたいで悪いのだが、写真の話で盛り上がれる、貴重で楽しい時間なんです。

 この前、地元新聞の写真コンテストでは最近風景写真が入選しにくくなった、という話が出た。

 なんでも、応募者の年齢は上がる一方だが、選考員の年齢は予算のこともあってか若年化が進んでいるらしい。

 そこで、綺麗な風景写真が、選考員の目に留まらなくなり、別な表現の写真に注目が集まっているように、審査の視点が変わってきているらしい、とのことだった。

 なかなか面白い、興味深い話だ。

 風景写真のことを悪く言うつもりは全くない。
 僕も撮るし、ジャンルとして非常に歴史の古いものだし。

 ただ、風景写真の永遠の課題というべきか。
 ただ綺麗な風景の写真に、どこまでの価値を与えられるのであろうか?

 その風景は、本当に価値を与えられるようなものなのだろうか?

 誰もが年に何千回とシャッターを切り、巷にあふれんばかりの同一類似写真があるような写真ではないのだろうか?

 これが、たとえばそこの観光写真のコンテストであれば、綺麗であることはひとつの誘因条件になるから、非常に重要視されるが、ジャンルを問わない写真コンテストである場合、さてそんな写真が多数集まってきたら、選考員の印象はいかなるものになるのだろうか?

 表現する、ってことに改めて考えてみたいと思う。


 結局のところ。
 撮るにせよ描くにせよ
 書くにせよ奏でるにせよ。

 表現するということは、新しさを求めることにかなり近い。

 と思っている。

 数多の風景写真が並び、そしてどれも「綺麗」であり、差がないとしたら。
 では、どれを選べばいいのだろうか?

 同じようなものが多数、どんぐりの背比べで並んだら、それは同じものとして認識されてしまい、そこから選ぶことはできなくなるだろう。

 風景写真のコンテスト、という限定になれば、なにがしか理由を付けて選考すればいい。
 でも、ジャンルを問わないような場合は、理由を付けてまで選考する理由は、ないと言っていいと思う。

 であれば、選考するに値する他から選ぶだけなのだから。

 だから、若い世代の審査員は風景「ではない」写真に対して賞を与えた、ということなのだろう。

 これに対して、従来であれば入選していたようなジャンルの方々からやや不満非難が出てきた、という話もあるが、まぁ理由なき戯れ言、とまでは言わないが、もう少し周りを見て写真を撮ってはいかがだろうか、とは言いたいかな。

 アナタは、前の人が撮ったのと同じ場所で撮りませんでしたか?
 後ろの人は、アナタが撮った場所で撮っていませんか?


 あなただけの〇〇、なとどいう写真のハウツー的な記事を見て撮る写真は、決してあなただけではない、という皮肉・・・

 記事に紹介される、ってことはつまりみんな知ることになって、みんなやっちゃうんだよ、って。

 だから、違うことにするには、記事を読むこと(で手法を学ぶことは悪くないが)ではなく、人と立ち位置の違う場所へ行くにはどうしたらよいか、と思案することなのだと思う。

 みんなが望遠レンズで撮っていたら、広角レンズで。
 みんなよりも、一歩前にでたり後ろに下がったり。

 そういう「試行錯誤」があった上で、突き詰める場所は一つ。

『あなたは、何を見せたいのか?』

 そこでしかない。
 見せたいものなくして、表現は成り立たない。

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