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イースター島(続編)

2008-03-03 18:55:36 | 社会論
さて、続編である。

森林伐採してついに島の木をすべて切り倒してしまい、自らの文明を滅ぼしてしまったという仮説について、「切り倒す過程で、切りすぎだな〜、そろそろやめないと自分の身が危ないな〜、となぜ気付かなかったのか」という問題である。

私もこう思い、この仮説に対して「端略的過ぎないか」という感想を持ったのだが、その後読んだ文献で、このような反論を想定して解説してあった。それによると、私たちが今、紙上でまとまった文章として読めば、物事客観的に見ることも可能だが、当時の渦中にいる人々のあいだでそのように事態を客観的に判断することは果たして容易だっただろうか?ということである。

森林伐採のプロセスは、じつに数十年、数世代にわたって行われたのであり、様々な生活上の、あるいは社会的な現象のある中、このように長い時間かけてじわじわと進行するものに対し、どの現象がどの現象に起因しているという因果関係を見極める、ということはきわめて困難なことなのである。
例えば家庭の生活が苦しくなってきている(それもここ数年、ということではなく、おじいさんの時代、あるいは曾おじいさんの時代と比較して)という場合、各家庭の個別的事情でそうなってしまったのか、それとも島において長期化している(これも数世代にわたる期間)政治闘争において、自分の氏族の長に力がないからなのか、あるいはその政治闘争そのものによって社会が混乱しているからなのか。毎日毎日の生活の中では、どうしても目の前で私たちの目に映るものに思考を巡らせてしまわないだろうか?また、こうも長期的プロセスであるばあい、例えば今20−30代の青年達、あるいはその親達の世代は、生まれた頃からこのような状況だったわけで、「昔はそうではなかったものが大きく変わってきている。これは致命的な変化となるのではないか。」と分かるのは、非常に年を取った曾おじいさん世代だけ、となるわけである。彼らが社会に変革をもたらすような社会活動の場面で活躍できると期待することは現実的には困難である。

そして21世紀に生きる私たちと最も異なるのは、環境に対する認識の度合いだろう。私たちだって、産業革命後、社会が大きく変化し、環境破壊が私たち自身の首を絞めると社会全体で共通の意識をもてたのはつい最近、1960年代ごろ以降のことだ。
また、私たちが環境問題に対してこのように社会全体で意識を共有するに至るには、情報や知識を伝達する手段と、それを理解できるだけの教養が人々に必要だった。当時のイースター島の人々にはこの点も欠落している。

「滅亡する前に、途中で気付くことができたのではないか」という仮説は、このようにイースター島においては無理なことだったかもしれない、と考えることは十分可能なのである。


が、もしかしたら、一部には環境破壊にその遠因を見出した人々もいたかもしれない。彼らの努力空しく、軌道修正することは出来なかった、ということかもしれない。
このことは、私たちだってそうではないだろうか?先にあげた共通理解をもっていながら、環境破壊を終焉させることはなかなか実現できていない。いまから数世紀のち、後世の人々に、「なぜ人類はこうなる前に未然に防げなかったのか、途中で自分達にとって致命的なことになると気付かなかったのか?」と言われるのかも知れない。。。

ジャンル:
社会
キーワード
イースター島
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コメント

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読ませていただきました! (woo20)
2008-03-03 22:27:52
人間は、昔も今も同じですね
知らず知らず 自然を破壊しては
滅びて行くのですね
モアイを作るくらいの美的センスがあるの
だから 自然とも共存できる種族だと
思ってました 
モアイて何なんでしょうかね?
権力者が独裁者ないと自然を破壊してまでも
モアイは、作らないと思いますがね  

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