大佗坊の在目在口

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八幡神社から岩原城址へ

2017-01-25 12:55:56 | 小田原

小田原大雄山線相模沼田駅隣が岩原駅。駅の西側、徒歩5,6分で村の鎮守八幡宮に着く。
 
 
この神社、明暦三年(1657)の棟札に源頼朝建立とあり、のち大森安芸守が再建し、北條早雲が修理を加えたと風土記稿にある。村の鎮守にしては長い参道が残っている。
 
参道の途中右手に薬師堂がある。
 
この薬師堂は古図では城蹟の南西の方に描かれており、側に古墳が描かれていて、これは大森信濃守頼春と信濃守氏頼の墓だという。八幡宮裏手に黄金塚古墳群があったが、主墳は社殿によって墳丘を半分削り取られ、殆どが農道建設で消滅した。神社北西の道路沿いの民家の塀のそばに「黄金塚之碑 昭和二十八年五月発掘」の記念碑が建っていた。
 
途中の庭先にあった五輪塔

薬師堂から岩原城址痕までは徒歩、6.7分で着く。南足柄消防署岡本分署先の左手に見逃しそうな小さな案内板があり、他人の敷地を横切る様な小道の奥に石碑がみえる。
 
 
市指定文化財岩原城址の標柱を囲むように墓や無縫塔、供養のためか五輪塔もあった。「大森寄栖庵之□」、最後の一字が判読できず、墓なのか供養碑なのか区別できないひときわ大きな石碑があった。
 
 
岩原城跡の南足柄市説明板には「室町時代、箱根外輪山明神岳から東方に延び、足柄平野を望む標高60mの丘陵の南斜面に大森氏によって築城されました。東西250m、南北150mの範囲に、本城郭・ニノ郭・三ノ郭・西郭などの複数の郭(平場)を区画するように空堀が掘られ、上流約2kmの矢佐芝川からの取水堰(沢水)を城内に引き込んだ平山城であったと想定されます」とあった。
 
風土記稿に「里正が蔵する古城略図に「往昔、大森氏の持城なり、信濃守藤頼の時、明応年中北條氏茂が為に落城す、と云」とある。風土記稿に記載の城蹟図

姓氏家系大辞典に大森氏は「藤原北家中関白流(又平姓)、駿河国駿河郡大森より起り、後相模に栄え、戦国時代小田原城主として有名なり」とある。寛政重修諸家譜に「大森與一親家、頼朝将軍につかえ、駿河国駿河郡鮎澤の庄大森に住す。これより子孫相続で大森を称す、頼顕のとき、関東御所家中より撰ばれて鎌倉侍所となり、小田原城に住し、西の方の警護となる」。あと代々小田原城に住み、曾孫の証實は伊豆箱根山の別当となっている。小田原大森氏の一族から箱根三所権現の別当職を勤めたものが多く出ている。大森小田原城主四代の大森氏頼(号・寄栖庵)の嫡男實頼の死に依りその子の㤗頼は幼く、領地を譲られた實頼の弟藤頼は小田原城に住んだが、明応四年(1495)北條早雲のために城を落され、一族と共に同国真田城(平塚真田)に退き、早雲にしばしば挑み戦うも、志をとげられずに亡くなる。大森氏は泰頼、泰次、泰定、頼照と続き、頼照のとき、外戚の佐久間勝之(父・佐久間盛次、母・柴田勝家姉)に養われ、関ヶ原の戦いでは勝之に従い東軍で戦う。子孫は五千石の旗本となっている。寛政譜に「大森氏頼、久野の総世寺に葬る」とあった。さっそく久野の総世寺を訪ねた。

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