大佗坊の在目在口

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辻堂界隈

2017-05-18 10:20:28 | 東海道沿線

JR東海道辻堂駅南口から海岸の方にブラブラ歩いて10分程で八森稲荷神社に着く。
 
 
この境内に柵で囲まれた野晒しの鉄板が保存されていた。明治二十一年(1888)、海軍兵器製造所技手の下瀬雅充が開発した新火薬を、辻堂の南方海浜に江戸時代からあった炮術場で試した。その試射に使われた鉄板の一枚だと言われている。日露戦争で下瀬火薬は大きな効果をあげたという。
此処から100mほどの寳泉寺に向かう。
 
その途中に京・鎌倉往還道15(鎌倉街道)の辻堂郷土史研究会による表示板があった。北に約2kで旧東海道が通っている。脇街道として辻堂の海岸側に京都と鎌倉との往還古道があったのだろうか、何か史料でもあるのだろうか。
 
海龍山観音院寳泉寺は別名、南の寺、光明真言道場とも呼ばれ、古くは寺の近くに辻御堂があり、辻堂の地名の由来の一つとされている。境内の集められた石造物の中に「寛保二壬戌年(1742)夭 辻堂村海龍山堂場 常光明真言江之道」と彫られた石柱があった。元もとは、どこに置かれていたものだろうか。
 
 
寳泉寺の隣に村の鎮守、諏訪神社がある。諏訪神社由来記碑があった。
 
  
光明真言道場道と旧鎌倉街道が交差するとしている辻堂四ッ角から北方の寳珠寺に向かう。明治初期から中期 にかけて関東地方を対象に作成された「迅速測図」をみても、この四ッ角が特定できず、この四ッ角と云う地名は比較的新しい呼名だと思われる。歴史的な道標を動かしてしまうと、光明真言道場道にしてもどこを通っていたのか分からなくなってしまうのは残念。途中に日枝神社があった。寛政改己酉元年(1789) 辻堂村八月吉祥日北講中とある、直衣姿で袖の中で手を合唱している双体道祖神があり、地元では北町双体道祖神と呼ばれ親しまれているという。
 
 
相模でも小寒から節分までの寒さの厳しい時期に念仏を唱える寒念佛が盛んだった足柄に比べて湘南は庚申信仰が盛んだったらしく、庚申塚が多く残されているように思う。道なりにいったら寳珠寺の南門から境内に入ってしまった。
 
寳珠寺は新編相模国風土記稿に「八松山明王院と号す、古義真言宗(藤沢宿感応院末)本尊不動を置く、開山元朝(元暦三年三月八日寂す)中興を玉鉉(享和三年寂す、寺記の類、元禄七年八月雷火に烏有すと云う)と云う」とある。文化元年玉鉉僧都のとき現在地に移転復興したと由来碑にある。
  
境内に藤沢市の重要文化財に指定されている寛文六年(1666)庚申供養塔の説明に「庚申信仰は、十干・十二支の組み合わせによって、六十日に一度めぐってくる 「 庚申の日 」 に、その夜を眠らずに過ごして無病・息災・長寿を願う信仰である。この源流は、「 人の体内にいる三尸の虫が、庚申の夜、天にのぼってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる 」 とする中国の道教の教えに由来している。
 
 
江戸時代、万治・寛文頃(1658-1672)には、仏教を背景に広く庶民に伝わり、「庚申講」が結ばれて庚申の夜は、講中の人々が当番の家に集まり、徹夜で酒食歓談して過ごす庚申待の行事や、供養塔の造立が盛んになった」とあった。
 
境内に四国八十八カ所の御遍路をすますことが出来る四国八十八ヶ所御砂踏霊場巡りがあった。八十八ヶ所の土砂加持の上を廻ったような気分になるから不思議である。山門から出て駅に向かう。
 
 
 

参考
諏訪神社由来記碑文   祭神  建御名方命 八坂刀売命
諏訪神社は平治年間の創立と謂われるがその時代に此の地に社殿が造営されていたか不詳である。当地は永録年間小田原北条氏の知行所であったところ徳川氏の頃に至って天領となり二十六字二百六十石とされ旗本の采地となった。寛永八年火災のため社殿と共に種々の重宝古器物および諸記録を焼失し同七年地頭保々長兵衛尉源則貞が社殿を再建して当地の総鎮守社としたが文政七年別当海竜山宝泉寺の火災に類焼の難に遭い勧請年月の記録類を再び焼失した。古老の口碑によれば文政八年七月再建されたと。その後は氏子達の寄進によって維持され大正十二年九月の大震災による拝殿の倒潰は翌年九月復旧し大東亜戦争の際国防用に供出した鐘は戦後(昭和三十一年)新調しその他大小の補修は篤志家によって行われ今日に到っている。現在の本殿は高御座を二座に分け左側を上諏訪神社右側を下諏訪とし建御名方命(男神)八坂刀売命(女神)が鎮祭されている。明治六年「村社」に列せられた。例祭日は毎年七月二十七日とされこの時には神輿が出御し東西南北の四町内には「奉献両諏訪大明神」と大書された幟が立ち各町内に在る花車は人形を飾り太鼓笛鉦などはやして村内を練り廻るなど昔ながらの行事が今も残っている。現存の旗幟は一番古い物で寛永十五年三月十五日と誌され花車は二百年前頃の作てこれに八形を飾るようになったのは百年前頃と思われる。
昭和四十六年二月七日社殿復旧を記念して    諏訪神社 氏子一同

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