大佗坊の在目在口

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豊川三明寺から大聖寺・長谷寺へ

2017-05-11 09:33:28 | 

豊川稲荷のある賑やかな豊川駅西口に比べて東口は数棟の高層マンションがあるものの、駅前が区画整理組合の売れ残りの保留地みたいに広大な駐車場になっている。ここから歩いて10分程の所に三明寺がある。曹洞宗のお寺で龍雲山妙音閣三明禅寺という。通称、豊川弁財天と呼ばれている。
 
 
 
三河刪補松に「妙音天ハ大江定基カ愛妾力寿ノ模像ヲ表シタルト云、尊姿艶色ニシテ裸形タリ」とあった。ここの三重塔は享禄四年(1531)、建立されたもので、一・二層は和様で三層を唐様で建てられた珍しい構造だという。三層の軒の反りが異なるのは下から見上げてもよく分らなかった。訪れた時は境内の枝垂れ桜はまだ三分さきでしたが、三つの願望が成就するとされる三徳稲荷まえの桜は満開でした。
 
三つもお願いが出来ると知っていたら、ジャンボにミニにロト7、お願いするのだった。
豊川駅のお隣牛久保駅から歩いて10分も掛らずに大聖寺に着く。
 
案内板に「戦国時代の駿河・遠江・三河の領主今川義元は永禄三年(1560)五月十九日、尾張桶狭間の合戦で織田信長の奇襲にあって討死しました。その時、首をとられた義元の胴体を家臣が背負って当地まで逃れ、この寺に葬って、とりあえず手水鉢をのせ墓石の代りにしました。それが、「義元の胴塚」と言われる由来です。嫡子上総介氏真は永禄六年(1563)父義元の三回忌をこの寺で営み、父の位牌所として寺領を安堵しました。その後、墓は整備され、毎年義元の命日には、地元の人々により慰霊祭が行なわれています」とあった。
 
 
桶狭間から牛久保まで僅か50k弱、奇襲に合って本陣を破られ戦場から逃れた時は背負ったとしても、この豊川あたりは今川領、幾らでも馬を調達して駿府まで運べたと思うのだが。それとも追撃を恐れて、蜘蛛の子を散らすように在所や駿府まで逃げ帰ったのだろうか。
横に一色刑部の墓がある。
 
「室町時代足利の一族一色刑部少輔時家の墓である。永享十一年宝飯郡長山村に築城して一色城と称した、此処の窪地に大牛が横臥していた因縁により牛頭山大聖寺を城郭内に建て、牛頭天王を祀った、文明九年時家は豪臣波多野全慶に殺され、十六年後には全慶も亦牧野古伯に討たれ城主は牧野氏となる、永正二年古伯吉田城を築いて豊橋へ出て次男成勝を瀬木城より呼んで城主とした、之より牛窪城と改まる」と説明板にあった。この牧野家が家訓としたのが参州牛久保之壁書で二十七ヶ条の第一条が有名な常在戦場の四文字です。明治二十六年早川彦右衛門発刊の三河国宝飯郡誌に(全慶は其主一色刑部少輔を殺すと三河国聞書に見えたり)としているものの「当寺境内に一色刑部少輔五輪、波多野全慶墓あり」としている。全慶が一色刑部を殺害した話は本当なのだろうか。
大聖寺から歩いて10分位に山本勘助の墓がある長谷寺に向かう。一般住宅のようなお寺で探すのに苦労する。
 
 
三河国宝飯郡誌にも山本勘助晴幸の墓や故居の記載がある。勘助弟帯刀の末裔といわれるが、戊辰戦争会津飯寺で戦死した長岡藩家老山本帯刀義路(旧安田氏)や太平洋戦争の山本五十六(旧高野氏)元帥と牛窪山本氏との繋がりが気になる。近くに越後長岡藩主牧野忠成の祖父にあたる牛久保城二代城主牧野成定の菩提寺、光輝庵(今光輝院)や成定の墓があるのを全く気が付かなかった。残念な事をした。

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