大佗坊の在目在口

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新潟県護国神社

2016-04-02 | 掃苔

明治八年(1875)、新政府軍戦死者の墓碑を常磐ケ岡(旧新潟大学本部の跡地)に設置し戊辰戦争の戦没者四百十五柱を祀り新潟招魂社とした。昭和十六年新潟招魂社から護國神社と改称し、昭和二十年(1945)現在地の西船見町に移転した。ここに「戊辰役東軍慰霊碑」が建立されているのを知って訪ねた。
 
この東軍慰霊碑は明治戊辰から百二十年後の昭和六十年、元招魂社跡地から東軍戦死者のものと思われる九十二体分の遺骨が発見され、護國神社敷地内にある「戊辰役殉難者墓苑」に埋葬され、昭和六十三年に「戊辰役東軍慰霊碑」が建立されたもので、入口に新潟県護国神社戊辰霊苑の説明板があった。
 
戊辰新潟戦争
慶應四年(明治元年)正月鳥羽伏見で戦が始まり薩長を主力とする西軍は四月柏崎・小千谷を占領七月には長岡を攻略しました。一方七月二十五日海路より松ヶ崎に上陸し二十九日までの五日間新潟の町は戦場と化し、対する東軍(米沢・会津・庄内)との間で激戦が繰りひろげられ多くの兵が戦死いたしました。西軍戦死者の墓碑は明治八年常盤ヶ丘に建立されて招魂社となり、その後昭和ここに移管されました。昭和六十年に至り旧新潟大学本部跡地(元招魂社跡)から東軍のものと思われる九十二体の遺骨が発見されここに埋葬されております。この度二度目の戊辰にちなみ、多くの方々の協力により東軍の慰霊碑が建立されました。ここは東西両軍区別なく、いずれも国に殉じた尊い御霊として祭祀する霊苑であります。異郷の地で果てた戦士よ安らかにお眠り下さい。
                     昭和六十三年十一月五日 新潟県護国神社戊辰霊苑

 
東軍慰霊碑の碑文を読みはじめたら、朗々として心に響く詞で最後まで読んでしまった。撰文は作家の綱淵謙錠氏だったので納得する
 
戊辰役東軍慰霊碑文

戊辰役東軍慰霊
君  建男 題辞
いまここに明治元年戊辰七月の新潟戦争で戦死された奥羽越同盟東軍の精霊に申し上げます あれから星霜百二十年 われらの声は遠く微かにしかお耳に届かぬかもしれませんが どうぞ静かに目をお覚ましください
 当時 新潟港は諸外国との開港場に指定され 戦略上もまた重要な拠点と認識されていたために 新政府西軍は七月二十五日に松ヶ崎太夫浜に上陸 同二十九日 新潟港をめぐって展開された東西両軍の攻防戦において 皆様は帰らぬ人となり わが国近代化の礎石として 尊い命を捧げられたのでした
 その後皆様は賊軍といういわれなき汚名を蒙り 遺体は放置されて永く山鴉野犬のついばみに任せられ 濤声に雪冤の悲歌を奏で 松籟に怨念の鬼哭を託して来られました ここにわれらは新潟戦争後二度目の戊辰にちなみ 遅きに過ぎた憾みを遺しつつも この慰霊碑建立の運びに漕ぎつけました
 新潟戦争東軍殉難者の皆様 なにとぞきょうからは 昔の頑なな順逆論に煩わされることなく この碑を羽ばたきの基点とされ 新潟の四季に目を楽しませ ときには白鳥と化して故郷の山河に天翔り 心ゆくまで平和の喜びをお噛みしめください それがわれら建碑発起人のささやかな願いでございます
      昭和六十三年十一月五日            
                                                      東軍慰霊碑建立発起人会
                                                      綱淵謙錠 撰文

 
 
 
無残な墓碑が残っていた。

東京で戊辰東軍関係者の碑文が削られている墓碑を多く見かけるが、この戊辰霊苑に祀られている越前藩とおもわれる全ての墓碑の碑文が削られていた。戊辰役後の会津と越前藩士との確執は明治二年の束松事件にみられるように、かなり根深いものがあった。いったい誰が行ったのだろうか。

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