大事な人をある日突然失った人、にしかわからないリアリティがあると思う。
私も突然、何の前触れもなく大事な人を失うとは思ってもいなかった。かつては。
まして、自分の子供が、いきなり死んでしまうとは思っていなかった。
もしもそんなことが起きたら、わたしは自分も死んでしまうと思っていた。
でも、今、わたしは生きている。人間の魂は意外と強いのだ。
しかし、大事な人がなんの予兆もなく、突然にいなくなってしまうのは、現実に起こりうること。そしてそれは、本当にいつでも自分に起きる可能性があるのだ、ということをその体験から思い知った。
「突然の喪失」は誰にでも起こりうることだ。
わたしが、脳天気だったからバカだったから気づかなかっただけで、多くの賢い人は誰でもそう認識しているのだと、そう思った。
だが、わたしのように常に大事な人がいなくなることに「恐怖」を抱いている人は、実は少数派なのだと気づく。
多くの人は、自分にいきなりそういう喪失が起こるとは思っていないようなのだ。
今、自分だって、明日のことはわからないと思っている。
大切な人のことだってありえないことではないと、そう思っている。
親は仕方ない。自分より先に死ぬのはもともと覚悟しているから。
でも、子供、恋人、そうした大事な人のことをそんなふうに考えない人のほうが、どうも多数派のようだ。
わたしは、少数派なんだろう。
そして多数派は少数派のことを理解できない。
もっともリスクの大きいことを、普通、人は考えないのだ、と思い知った。
わたしが悲しいのは、わたしのような感覚は、メジャーな存在である彼らからすれば「尋常ならざる考え方」なのだ、ということ。
人はそれぞれ。体験も考え方もちがう。そういう人を責めることはできない。
ニュースであっけなく事故や天災で大事な人を失った方々。事故や犯罪により大事な人を失った方々。それに自死により大事な人を失った方々。状況により違うけれど、わたしは、突然大事な人を失ったときの、「これは何かの悪い夢でしょう」「一体なぜ、わたしにこんなことが起きたの?」という気持ちは、ほかの人より少しはわかると思う。
そんな私の気持ちを、理解できない人がいても、でもそれは仕方ないことだと思う。わたしがそうであったように、体験しない限りリアリティをもつことは難しいのだから。
ただ、リアリティをもてないからといって、彼らにとっては尋常ならぬ心配をした人に「ありえない」と笑い飛ばすこと。それは、心配してしまった人にとっては、とても悲しいこと。
今の私にはなんだか沁みます。
いいでしょう、海と子供・・・・