福島県郡山市にある、某内科クリニックのサイト上に、わたしからすると、とんでもないことがつらつらと載せられてた。
普段、できるだけ、こういうことはせんとこうと思いながら記事を書いてるのやけど、
これはもう、どうしても見逃せへんと思た。
そやから、載せます。
読んでみてください。
原子力発電所事故に伴う、放射線被曝の問題=
普段、できるだけ、こういうことはせんとこうと思いながら記事を書いてるのやけど、
これはもう、どうしても見逃せへんと思た。
そやから、載せます。
読んでみてください。
原子力発電所事故に伴う、放射線被曝の問題=
福島県人が、福島県内で生活しながら、福島県人に対してこの記事を書く。
この福島の状況をどう理解すべきなのか、大変難しい問題だ。
被曝し発症すれば、お客となる患者が増え、クリニックが繁盛するという、非常に狭い穿った意図から、この記事を書いたものではないだろう。
放射線被曝についての知識を持ちながら、自身も福島で生活し被曝しながら、被曝している患者を医療する、この何重もの切ない矛盾の中で、自分自身を肯定できるものを求めて、藁をも掴むような気持ちで、この記事を載せたのではないかというような気がする。
こう思わなければやっていけない、生活していけない、福島の現状が浮かび上がる。
この福島の構図は、そのまま日本全体でも当てはまる、脱原発に舵をきれないまま、再稼働と原発輸出に突き進もうとしている日本の現状そのものだ。
すでに二年半の年月が経ち、二度の国政選挙が行われたが、崩壊原発は処理できず、核汚染にも対処できず、晩発性健康被害が顕在化しつつある情勢下、幻想と無関心の中で、今日の糧を得ることに懸命なのが日本国民なのだろう。
自分自身を肯定できるものを求めて、藁をも掴むような気持ちで……。
わたしは、はなたか爺さんのように、思いを馳せることをせずに、まず怒り、という感情が沸いてしまったようです。
そのことについて、自身を諌めている自分がいたような気がします。
だからこその躊躇感だったのかもしれません。
こう思わなければやっていけない。生活していけない。
それは、エートス福島にも共通している心情だと思います。
マスコミや政治家のせいにして、なぜこんなままでなにひとつ変わらないのだと嘆いていても、なにも始まらないし変わらない。
ましてや、嘆くことすら面倒くさいからと、無かったことにしてしまっては、もうおしまいです。
なんとかならないものかと、今日もあれこれ思案しています。