ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

家畜的な盲従に自己の一切を委ねてしまった国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任が悪の本体

2013年08月01日 | 日本とわたし
戦争責任者の問題

伊丹万作(故伊丹十三氏の父)

最近、自由映画人連盟の人たちが、映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、
主唱者の中には、私の名前もまじつている、ということを聞いた。
それがいつ、どのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、
それを見た人たちが、私のところに来て、あれはほんとうに君の意見か、ときくようになつた。
 
そこで、この機会に、この問題に対する、私のほんとうの意見を述べて、立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、
実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。
考えれば考えるほどわからなくなる。
そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて、意見のかわりにしたいと思う。
 
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていた、という。
みながみな、口を揃えて、だまされていたという。
私の知つている範囲では、おれがだましたのだといつた人間は、まだ一人もいない。

ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。

多くの人は、だましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしている、
と思つているようであるが、それが実は、錯覚らしいのである。

たとえば、民間のものは、軍や官にだまされた、と思つているが、
軍や官の中へはいれば、みな上のほうをさして、上からだまされた、というだろう。
上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされた、というにきまつている。
すると、最後には、たつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、
いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で、一億の人間がだませるわけのものではない。
 
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりも、はるかに多かつたにちがいないのである。

しかもそれは、「だまし」の専門家と、「だまされ」の専門家とに、劃然と分れていたわけではなく、
いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が、別のだれかをつかまえてだます、
というようなことを、際限なくくりかえしていたので、
つまり、日本人全体が夢中になつて、互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
 
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、
さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織が、
いかに熱心に、かつ自発的に、だます側に協力していたかを思い出してみれば、直ぐにわかることである。
 
たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ、門から一歩も出られないような、
こつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ、国民自身だつたのである。

私のような病人は、ついに一度も、あの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、
たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、
たちまち、国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、
親愛なる同胞諸君であつたことを、私は忘れない。

もともと、服装は、実用的要求に、幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。
しかるに、我が同胞諸君は、服装をもつて、唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、
そうでなかつたら、思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑として、それを愛用したのであろう。
そして、たまたま、服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、
彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、
自分の立場の保鞏(ほきよう)に、つとめていたのであろう。
 
少なくとも、戦争の期間をつうじて、
だれが一番直接に、そして連続的に、我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、
だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、
直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、
あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や、雇員や労働者であり、
あるいは学校の先生であり、といつたように、
我々が、日常的な生活を営むうえにおいて、いやでも接触しなければならない、
あらゆる身近な人々であつたということは、いつたい何を意味するのであろうか。
 
いうまでもなく、これは、無計画な癲狂戦争の必然の結果として、
国民同士が、相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に、追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。
そして、もしも諸君が、この見解の正しさを承認するならば、
同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が、相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、
等しく承認されるにちがいないと思う。
 
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として、
自分だけは人をだまさなかつた、と信じているのではないかと思う。
 
そこで私は、試みに、諸君にきいてみたい。

「諸君は戦争中、ただの一度も、自分の子にうそをつかなかつたか」と。

たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度も、まちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親が、はたしているだろうか。
 
いたいけな子供たちは、何もいいはしないが、もしも彼らが、批判の眼を持つていたとしたら、
彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず、戦争責任者に見えるにちがいないのである。
 
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
 
しかし、このような考え方は、戦争中にだました人間の範囲を、思考の中で、実際の必要以上に拡張しすぎているのではないか、という疑いが起る。
 
ここで私は、その疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最少限にみつもつたら、どういう結果になるかを考えてみたい。
 
もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、
はたして、それによつて、だまされたものの責任が解消するであろうか。
 
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、
しかし、だまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも、決して書いてはないのである。
だまされた、とさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、
もう一度、よく顔を洗い直さなければならぬ。
 
しかも、だまされたもの、必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、
私はさらに進んで、「だまされるということ自体が、すでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
 
だまされるということは、もちろん知識の不足からもくるが、
半分は、信念、すなわち意志の薄弱からくるのである。

我々は昔から、「不明を謝す」という、一つの表現を持つている。
これは明らかに、知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。
つまり、だまされるということもまた、一つの罪であり、昔から、決していばつていいこととは、されていないのである。
 
もちろん、純理念としては、知の問題は知の問題として終始すべきであつて、
そこに、善悪の観念の交叉する余地はないはずである。
しかし、有機的生活体としての人間の行動を、純理的に分析することは、まず不可能といつてよい。
すなわち、知の問題も、人間の行動と結びついた瞬間に、意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。
これが、「不明」という知的現象に、善悪の批判が介在し得るゆえんである。
 
また、もう一つ別の見方から考えると、
いくらだますものがいても、だれ一人だまされるものがなかつたとしたら、
今度のような戦争は、成り立たなかつたにちがいないのである。
 
つまり、だますものだけでは戦争は起らない。
だますものとだまされるものとがそろわなければ、戦争は起らないということになると、
戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)、当然、両方にあるものと考えるほかはないのである。
 
そして、だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、
あんなにも造作なくだまされるほど、批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、
家畜的な盲従に、自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた、
国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが、悪の本体なのである。
 
このことは、過去の日本が、外国の力なしには、封建制度も、鎖国制度も、独力で打破することができなかつた事実、
個人の基本的人権さえも、自力でつかみ得なかつた事実と、まつたくその本質を等しくするものである。
 
そしてこのことはまた、同時に、あのような専横と圧制を、支配者にゆるした国民の、奴隷根性とも密接につながるものである。
 
それは、少なくとも、個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち、自我の放棄であり、人間性への裏切りである。
また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
 
我々は、はからずも、いま、政治的には一応解放された。
しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を、軍や警察や官僚にのみ負担させて、
彼らの跳梁を許した自分たちの罪を、真剣に反省しなかつたならば、
日本の国民というものは、永久に救われるときはないであろう。

「だまされていた」という一語の持つ、便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の、安易きわまる態度を見るとき、
私は、日本国民の将来に対して、暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も、何度でもだまされるだろう。
いや、現在でもすでに、別のうそによつて、だまされ始めているにちがいないのである。
 
一度だまされたら、二度とだまされまいとする、真剣な自己反省と努力がなければ、人間が進歩するわけはない。
この意味から、戦犯者の追求ということも、むろん重要ではあるが、
それ以上に、現在の日本に必要なことは、まず国民全体が、だまされたということの意味を本当に理解し、
だまされるような脆弱(せいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。


以下、省略。

(四月二十八日)
(『映画春秋』創刊号・昭和二十一年八月)

底本:「新装版 伊丹万作全集1」筑摩書房
   1961(昭和36)年7月10日初版発行
   1982(昭和57)年5月25日3版発行
初出:「映画春秋 創刊号」
   1946(昭和21)年8月
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サワディ~カ~ (takoome)
2013-08-02 03:56:07
ありがとう!
正しく。言葉が無い。
とべないポスト (えちごや智)
2013-08-02 08:33:51
真に民主的な国家を築いていく過程においては戦前の政治体制について十分な検証が必要です。

これまでに私たちは自らの手によって過去を検証してきたでしょうか。
一部の人間をスケープゴートとして巣鴨におくり、戦争犯罪のすべての罪を被せ、
自分たちは何も関係がなかったと戦後社会を生きてきたのではありませんか。

靖国神社を容認するつもりは毛頭ありませんが、
よくいわれる「A級戦犯分離」はまさにこの延長線上にある論理です。

戦前の国家体制について批判することもせず、
「加害者であるA級戦犯」を切り離して新しい国家を築こうとしても、
足元のしっかりしていない国家観など砂上の楼閣でしかありません。

歴史の検証、それは決して容易ではないでしょう。
先人たちを傷つけることもあるかもしれません。

しかし、あまたの尊い命が犠牲になり、私たちがその当事者であった事実から目を背けてはなりません。

戦争に参加した人、当時こどもだった人、そればかりではない、
現代の私たちも含め、すべての人が検証に立ち会わなければなりません。
そうでなければ本当に民主的な社会、平和な社会などつくれるはずなどないではありませんか。
スケープゴートとして死んでいった人たちは無駄死にになってしまいます。
takoomeさんへ (まうみ)
2013-08-02 11:16:53
こちらこそ。

わたしも、なんべんも読んで、言葉をなくしてます……。
えちごや智さんへ (まうみ)
2013-08-02 11:31:28
当事者であることを認識する。
このことの、なんともいえない抵抗感……。
それは多分、自分の弱さ、狡さ、身勝手さを、正面から見つめることになるからでしょうね。

事故後初めて、この作業を始めようと決心した時から、どうしてこれほど多くのことを、わたしは知らぬふりして生きてこられたのか、
まずそのことに驚くとともに、申し訳なく、また恥ずかしくなりました。

わたしたちが、その当事者であった事実から、目を背けてはならない。

そう気づいた者は、そのことを伝え続けなければなりませんね。
そして可能ならば、教育の場に、そういう事実検証を伴う歴史教育というものが確立できるような社会にしたいです。
もうすでに。。。 (じゅんこ)
2013-08-02 12:10:49
 まうみさん、こんにちは。
この敗戦後1年目の夏に出された「騙される側の責任」は東久邇宮稔彦王が言ったという「一億総ざんげ」に通じるなぁと思っていました。
軍隊を持つ国は、必ず国民は騙されますよね。今のアメリカだってそうではないですか?
だから大日本帝国憲法下の軍事国家では、臣民は抵抗できないし、抵抗すれば監獄行きで獄中死が待ってるんですよね。国家総動員法や治安維持法とかの法律で雁字搦めに縛られて、子どもたちも教育勅語で徹底的に軍国少年に育てられて、法律と教育の恐さがわかりますね。
孫崎亨さんや池田香代子さんもこの「戦争責任者の問題」を取りあげて注意喚起をしていましたね。でも現憲法下の主権者国民と戦前の帝国臣民とは立場が違うから、敗戦後1年で臣民(日本国憲法下でとりあえず国民にはなりましたが)に責任を負わせるのはちょっと違うんじゃないかと思っています。
当時の日本電報通信社(現電通)が仕掛けたのではと思わず疑ってしまいます。
もちろん、今のわたしたちにこの言葉は大切で、教訓になりますが、東電原発事故の反省はどこに行ったのでしょう?改憲するという政権を選んだのはなぜでしょう?子どもたちの教科書には放射能の危険は書かれてないと聞きます。だけどこれに反対する教師はいますか?歴史教科書でも、随分歪められた教科書を採択してるって話ですよね。悔しいけど国家はもうすでに戦争への準備を始めていますよね。
主権者国民の自覚を持ちたいものです。
こんにちは (よもぎ)
2013-08-02 12:14:46
確かにそうですよね。
騙されるものは何度でも騙されるし、直接的に
追い込んでくるものは 身近にいる者です。
自分自身もここ数年でやっと政治に少し興味を
持つようになりました。
身近に起こった色々なわずらわしい事に
いつも気を取られ、考えられなくなっていたのでしょう。

原発が国内にこんなにあることさえ数年前に
知ったと言う無知

無気力 無自覚と言われても仕方がない

意識を変えていかないといけない
そう思うこのごろです。
じゅんこさんへ (まうみ)
2013-08-03 02:18:28
じゅんこさんが言わんとしていることはわかっているつもりです。
ただ、アメリカという国の『戦争行為』の特殊性をここに少し書かせてください。
アメリカの(これはあくまでもわたしから見たアメリカですが)一般市民にとって、戦争という物事は、あくまでも他人事であり、軍人による戦争ゴッコであり、なにひとつ自分の身の上にふりかかってくることのない、コマーシャルになるとすぐに忘れてしまえるようなものなのです。
もちろん、一部の、心を痛めている人、真剣に情勢を追っている人、なんとかして反対運動を盛り上げようとしている人はいますが。

それに比べて日本での戦争は、市民がしっかりと巻き込まれ、戦場に臨まなくとも、周りの一般市民の監視や圧迫により、国民同士が、相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態になり、そのために心身ともに傷つけられたり、ひどい場合は命を奪われたりもしました。

すでにもう後戻りのできない、どうしようもない状態に行き着くまでの間に、いったいその当時の大人はなにを考え、どう行動していたのか。
そのことを伊丹氏のように嘆き、責めることはできます。
ただ、実際に、だからといって、今までに世界のあちらこちらで起こり続けている戦争や紛争を、事前に防げた国民というものは、存在しているのでしょうか?
あったとしても、本当にわずかであったと思います。
なぜかというと、このような動きというのは、本当に、津波のような恐ろしさで、あれよあれよという間に、すべてのものをのみ込んでいく破壊力を持っているからです。

けれども、今の時代には、インターネットという市民にとってはかなり有用な手段があります。
その時代に生きる日本人として、今の政府の不穏な思惑を、徹底的に阻止していかなければならない。
そのための、決意を新たにするための責任論だとわたしは思いながら、この記事を書かせてもらいました。
教科書が変わったのなら、それを教室で指摘できる子どもであってほしい。
それを家庭で話し合い、親御さんも輪に加わり、学ぶ責任、答える責任、教える責任、すべての行為に意味があり、それは選べるものであるということを、小さなことから学んでいくことが大切だと思っています。
よもぎさんへ (まうみ)
2013-08-03 02:25:14
こんなことを自慢しても仕方がありませんし、かっこ悪すぎなのですが、
わたしもあの事故が無かったら、原発があんなにたくさん存在していることを、全く知らずにいたんです。

その後もどんどん、なんとなく耳にしていたことの裏側に潜んでいた、なんともひどい事実を知り、
『わたしはしっかり生きてます』面してた自分を、心の底から恥じました。
なんという社会を作り上げてしまったのだろうと。
そして同時に、なんという醜い人間たちが、権力を持っているのだろうと。

けれども、気づけたことを喜びたいです。
少なくともわたしもよもぎさんも、社会の一員として、本当の意味で、地に足をつけることができたんですもんね。
その地は、なんとも歩き辛いものですが、一歩一歩、前に進んでいきたいと思っています。
掲載、ありがとうございます (sarah)
2013-08-03 23:54:07
伊丹万作さんが何者かも知らず、ツイートで紹介されていたので読んでみたら、
その言葉の重さに驚き、自らを省み・・・、たくさんのことを考えました。

ちょうどそのころ、テレビ番組で青森の六ヶ所村の住民という初老の男性が、
「これからのことは、これからの人が考えてくれるだろう」
というような意味のことを言っていて。

「騙す人」と「騙される人」がいなければ、核施設も造られることはなかった。
この素朴な村人は何者かに騙されてしまったのかもしれないけれども、
(これからの村人である)六ヶ所村のこどもたちを騙してもいるのだ。

そんなことを思いました。

「自分が奴隷であるという自覚がない奴隷」では、あまりにも悲しいです。
sarahちゃんへ (まうみ)
2013-08-05 09:13:01
sarahちゃん、その発言と全く同じことを、六箇所村の村会議員のひとりが言うてたのですよ。

なんという無責任で恥ずかしい発言かと、いい年をして、そういう大人がたくさんいるのかと思うと、頭がどーんと重くなります。
そういう考え方が、今の日本を作ってしまったのだし、これからもそうなら、日本に未来なんてなくなりますよ。

そういう類の大人を早急に減らしていかないと、本当に危ないとおおげさでなく思っています。
子供たちをだましてきた大人たち。
それはわたしの祖父母であり父母であり、そしてわたし自身でもあります。
もうこんな愚かな生き方は、わたしの代で終わらせないといけないと思っています。

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