ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

米国『あなたはだぁれ?』事情

2014年08月07日 | 米国○○事情
今日の主人公さん。


後ろから見たら、


さらに真後ろから見たら、


あなたはいったい…、


このモヤモヤを、蜘蛛の巣かなにかの埃だと勘違いして、お箸で取ろうとしたら…毛の一部だった…。


いい加減にせんかっ!とばかりに、頭を上げて、フリフリしながら怒ってた。



今日もたいへんに良いお天気で、乾いた風が心地良い、なんとも過ごしやすい一日だった。
これがもし今年の夏の特徴ならば、これはもう、冬の超~厳しく、超~長かった寒さに耐えたご褒美か?などと、都合よく考えてしまう。
日中は25℃ぐらい、朝晩は17℃ぐらい。
エアコンはもちろんのこと、扇風機すら要らない。

トマトは今日も順調に育ち、


ちょっとこのトマトは順調過ぎていて、わたしのコブシの二つ分ぐらいある。


そろそろブラックベリーは終焉を迎え、


そのすぐ横では、オクラの花がボチボチ咲き始めた。


リスたちが、両手で抱えて食い荒らす松ぼっくり。この季節、ドライブウェイに食べカスが一面に散らばる。


ショーティの墓守りをしてくれてるカエルの夫婦も、炎天下ではなく心地良さげ。


前庭トマトと裏庭アルゴラのサラダ、そして裏庭コマツナのニンニクショウガさっと炒め。


ごちそうさま。

あなたはこの、『焼き場に立つ少年』の写真を見てもまだ、戦争はしょうがないと思いますか?(再掲)

2014年08月07日 | 日本とわたし
この記事は、2013年の5月2日に書いたものです。
またあの、ふたつの原子爆弾が、広島と長崎に落とされた8月がやってきて、それと同時に、この記事を読んでくださる人が、ちらほらと現れ始めました。
つい最近まで、ビデオの静止写真をうまく載せることができずにいたので、この記事も他と同じく、言葉のみの文字起こし記事だったのですが、
写真掲載が、以前より何倍も、きちんとできるようになりましたので、今回は写真付きのものにして、ここにもう一度載せておこうと思います。


↓以下、再掲載はじめ

今朝一番に、このビデオと出会った。
50分の、長いものだけども、どうしても記録として残しておきたくて、家事や仕事の合間を縫って、ほぼ一日かかって文字起こしした。
わたしは、この『焼き場に立つ少年』の写真を、先日、迷彩色の軍服を着て、うれしそうに戦車に乗ってた男に突きつけたい。

その男は権力者で、我々を権力(者)から守るために生まれ、権力者の上に立ち、権力者に歯止めをかける憲法を、いじりたくて必死になっている。
まず、96条をいじり、その後、自分らの都合のいいように変えていくつもりでいる。
特に、平和憲法と呼ばれてる9条は、暴力の連鎖を断ち切り、人類の進むべき道を指し示す、世界にも誇れるもの。
それが、戦争という状況を作り、指揮官をやってみたくてたまらずにいるあの男らのような輩にはだから、9条は邪魔で邪魔でしようがない。

わたしたち主権者にとって、今ほどしっかりしなくてはならない時があるだろうか。
この今を、これまでのようにうっかり過ごしてしまったら、過ちをまたくり返すことになる。
歴史の中には、往々にして、そういう繰り返しが存在しているけれども、
くり返していいことと、絶対にくり返してはいけないことがある。

戦争に向かわされること。
知らないうちに、あるいは知らないふりしているうちに、すっかり巻き込まれてしまうこと。
もうそんな、世にも愚かな、悲しいことにならないよう、『焼き場に立つ少年』の写真を、心に血がにじむまで、刻み込んでほしい。



報道写真家 ジョー・オダネル撮影 「焼き場に立つ少年」 (1945年長崎の爆心地にて) 

佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると、白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は、60センチ程の深さにえぐった穴のそばで、作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を、石灰の燃える穴の中に、次々と入れていたのです。

10歳ぐらいの少年が、歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は、当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子は、はっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
少年は、焼き場のふちまで来ると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊は、ぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分か10分、立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に、初めて気付いたのです。
男達は、幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。

まず幼い肉体が火に溶ける、ジューという音がしました。
それから、まばゆい程の炎が、さっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を、赤く照らしました。
その時です。
炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年が、あまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に、赤くにじんでいました。

夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま、焼き場を去っていきました。

(インタビュー・上田勢子)[朝日新聞創刊120周年記念写真展より抜粋]


ビデオは、残念なことに、この記事の画面に載せることができないので、以下の紫の文字をクリックしてください。
ぜひ、ビデオの中の現実を、みなさんの目で見てください。
お手間をかけてすみませんが、よろしくお願いします。


解かされた封印 ~米軍カメラマンが見たNAGASAKI Dailymotion

NHKスペシャル
解かされた封印~米軍カメラマンが見たNAGASAKI
語り 柴田祐規子


一枚の原爆の写真が今、注目を集めています。
皇后陛下が、去年亡くなったひとりのカメラマンと、その写真について述べられたのです。

宮内庁ホームページより
『焼き場に立つ少年』と題し、死んだ弟を背負い、しっかりと直立姿勢をとって立つ、幼い少年。
その姿が、今も目に残っています。



今から63年前、長崎の火葬場で撮影された、ひとりの少年。


背負っているのは、原爆で死んだ弟です。


弟を焼く順番を待ちながら、悲しみに耐える少年。


歯を食いしばるその唇には、血がにじんでいたといいます。

撮影したのは、アメリカ海兵隊第5師団に属していた、ジョー・オダネル軍曹。


去年の夏、85才でこの世を去りました。

1945年、8月9日、一発の原子爆弾が、長崎を焼き尽くし、7万4千人が死亡しました。


占領軍として長崎に入ったオダネルの任務は、原爆の破壊力を記録することでした。
この時オダネルは、軍の命令に背き、密かに、30枚の写真を撮影していました。


しかし、写真はその後、長い間公表されることなく、封印されてきました。

写真が隠されていたトランク。


オダネルは晩年、ここから突然写真を取り出し、公表を始めます。
なぜ封印していた写真を公表したのか?
その思いを告白したテープが、今年、遺品の中から見つかりました。
オダネルの30枚の写真が、今、わたしたちに、戦争の意味を問いかけています。



オダネルのテープより
『アメリカはきのこ雲を見て、戦争は終ったと思っていた。
でもそれは、この50年に渡る、生き残った日本人にとっての苦しみの始まりだったのだ』

アメリカ・ネバダ州での収録

長崎の写真を残したジョー・オダネル。
その息子の、タイグ・オダネル(38)さんです。


ホテルで働き、写真とは無縁の生活を送っていたタイグさん。
去年父が亡くなり、遺品として、写真を引き継ぐことになりました。

父は、軍隊で使っていたトランクを屋根裏部屋に置き、家族には、絶対に開けるな、と告げていました。
しかし、アメリカに帰国してから43年後、父は67才の時、突然トランクを開けたのです。


そこには、軍の規則に違反して撮影された、長崎の写真が隠されていました。
当時アメリカ軍は、決められたカメラでしか撮影を許していませんでした。
しかし、父オダネルは、密かに持ち込んだ自分のカメラで、撮影を続けていたのです。


残された30枚のネガには、破壊された長崎の町と、瓦礫の中で生きる日本人の姿がとらえられていました。

なぜ父は、命令に背いて写真を撮影したのか。


タイグさんは、父の死をきっかけに、その思いに迫ろうとしています。


タイグ氏:
「どうして撮影したのか、なぜ43年間も隠したのか、父は何も話さなかった。僕はその真相を知りたいんです」

今年タイグさんは、遺品の中に、父の肉声を録音したテープを見つけました。


それは5年前、地元の図書館の学芸員が、戦争体験を集めるために聞き取っていたものでした。
長崎で何があったのか。
父オダネルは、軍隊に志願した理由から語り始めていました。

テープより
「突然の日本軍による真珠湾攻撃。私は復讐心に燃え、海兵隊に志願した。
日本人に怒り、日本人を殺すために、軍隊に入ったのだ。

日本への憎しみから兵士に志願したオダネル。
19才の冬、海兵隊に入隊し、写真記録班に配属されました。
1945年8月、初めて原爆投下のニュースを聞いた時の心境を、手記に残していました。
『新型兵器が日本に落とされた。10万人くらい死んだらしい。
はじめは、あのクソったれ日本人との対決を鼓舞するプロパガンダかと思ったが、本当らしい。
とにかくこれで、戦争は終わりだ』


終戦から一ヵ月が過ぎた、9月22日。
オダネルの所属する海兵隊第5師団は、占領軍として、長崎県佐世保市に上陸しました。


被害の様子を撮影しながら、オダネルは、原爆が落とされた長崎の爆心地へと向かって行きました。



テープより
「昨日のことのように思い出される。
1945年、私は、原爆の破壊状況を記録する任務で、長崎に入った」


長崎に足を踏み入れたオダネルは、その光景に衝撃を受けます。
爆心地からおよそ1キロの、三菱製鋼所。


千人を超す従業員が、亡くなっていました。

爆心地から500メートル、130人の生徒が死亡した、鎮西学院です。


オダネルは一歩ずつ、爆心地に近づきながら、任務に従い、その破壊力を記録していきました。

辿り着いた爆心地です。


アメリカ兵たちは、その場所を、グラウンド・ゼロ(爆心地)と呼んでいました。
新型兵器としか聞いていなかったオダネルにとって、目の前の現実は、想像をはるかに超えたものでした。

テープより
「私は、灰と瓦礫につまづきながら、爆心地を見渡した。
衝撃的だった。
そこには、人が暮らした文明の跡形も無かった。
自分が地球に立っているとは思えないほどの破壊だった」



爆心地のそばにアメリカ軍が立てた看板です。


アトミック・フィールド(ATOMICFIELD)
それは、軍が瓦礫の中に作った、飛行場のことでした。


父の写真を調べていた息子タイグさん、写真の変化に気づきました。


タイグ氏:
「人が写ってるみたいだ」

アトミック・フィールドの瓦礫の奥に、人影が写っていたのです。
それは、遺骨を抱えた家族の姿でした。


タイグ氏:
「また一人、人が写っている」

許可無く日本人を撮ってはいけないという、軍の命令に背き、オダネルは、そこに生きる人々を密かに撮影し始めたのです。
爆心地の近くで撮影された写真です。
この少年は、チョコレートを持っていたオダネルの後を、ついてきました。
周りに親の姿は見当たらず、背中に、傷ついた赤ん坊を背負っていました。



テープより
「多くの子どもが、戦場か原爆で、親を亡くしていた。
生き延びた子どもは、幼い弟や妹を、親代わりとなって支えていた」


オダネルが出会った、幼い兄弟です。
瓦礫の中にたたずむ3人に、オダネルは、持っていたリンゴを差し出しました。


テープより
「年上の子どもが、私の手からりんごをもぎ取った。
彼らは飢えていた。
3人で分け、皮どころか、芯まで食べ尽くした」


オダネルは廃墟の町で、祝いの衣装に身を包んだ少女に出会いました。


写真を撮った後、近づいてきた母親が、オダネルに言いました。
「この子は、爆音で耳が聞こえなくなったのです」


日本人の撮影を続けていたオダネルは、被爆者が治療を受ける救護所へ向かいました。


そして、原爆が人間にもたらす現実を、目の当たりにします。

日本の映画会社が撮影した、臨時救護所の映像です。


オダネルは、ここを訪れていました。
そこで出会ったひとりの被爆者について、語っています。

テープより
「私が見たその人は、これまで出会ったけが人と、全く違っていた。


彼には髪の毛が無かった。眉も鼻も耳も無かった。
顔といえる原型はなく、肉の塊だった。


彼は私にこう言った。
『あなたは敵でしょう。殺してください』
私は逃げるように彼から離れ、別の患者に向き直った。
部屋を去るとき、再び彼を見た。
まだ『殺してくれ』と言っていた。
自分にできることなど何も無かった。
その時、肉の塊にしか見えなかった彼の両目から、涙が流れていた」


あの被爆者はどうなったのか。
その夜、オダネルは眠ることができませんでした。
翌日救護所を訪ねると、ベッドにその被爆者の姿はもうありませんでした。
ここでオダネルは、1枚だけ写真を撮影しています。
熱線でやけどを負い、死線を彷徨っていた、別の少年の背中でした。


テープより
「この世のものとは思えないものを見た。
それは本当に酷かった。
死んだ人、子どもたち、その母親、間もなく死ぬ人、飢えている人、そして原爆症……。


あまりにも多くの傷ついた人々を撮影しているうちに、日本人に持っていた憎しみが消えていった。
憎しみから哀れみに変わった。
なぜ人間が、同じ人間に、こんな恐ろしいことをしてしまったのか。


私には理解できない」


父はどのような気持ちで撮影を続けたのか。
息子のタイグさんは、同じ任務についていた、元アメリカ軍のカメラマンを訪ねました。
ノーマン・ハッチさん(アメリカ海兵隊・元少佐)、87才です。
1945年の9月以降、GHQは、原爆報道の規制を強化していました。
記録班は、個人の感情を捨て、記録に徹しなければならなかったといいます。

ハッチ氏:
「私は、撮影対象との接触を避けた。
たとえその人が傷ついていても、死んでいたとしてもだ。
記録班が感傷的になる必要はないのだ。


私用のカメラなど許されない」

タイグ氏:
「あなたは、記録班は感傷的になってはいけないと言ったが、僕は、父は日本人の姿に心が動いたのだと思う。
確かに父は、軍人として失格かもしれない。


でも父は、感情を捨てきれなかった」


爆心地周辺。
オダネルが、最も多く撮影した場所があります。


廃墟の町を見下ろす丘に、辛うじて建つ建物でした。
浦上天主堂です。


原爆投下によって、8500人の信者が、長崎で亡くなりました。

熱線に焼かれた彫像。


オダネルは、その目線の先を追いました。
そこに広がっていたのは、見渡す限りの焦土と化した、長崎の町でした。


長崎を南北に貫く浦上川。


そのほとりに降りて行ったオダネルは、生涯忘れられない光景と出会います。
そこは、火葬場でした。
焼け野原を、ひとりの少年が歩いて来ました。
少年は、背中に小さな弟の亡骸を背負っていました。

テープより
「ひとりの少年が現れた。
背中に、幼い弟を背負っているようだった。
火葬場にいた2人の男が、弟を背中から外し、そっと炎の中に置いた。


彼は黙って立ち続けていた。
まるで、敬礼をしているかのように。


裸足だった。
炎が、彼の頬を赤く染めていた。
彼は泣かず、ただ唇を噛みしめていた。


そして何も言わず、立ち去っていった」


オダネルは、長崎や佐世保などの地域を、7ヵ月に渡って撮影しました。
任務として撮影したネガは、軍に提出。
密かに撮影した個人のネガは、開封禁止と書かれた箱に入れ、未使用のフィルムに見せかけ、アメリカに持ち帰っていったのです。


帰国後オダネルは、長崎での記憶に、精神を苛まれます。

テープより
「被爆者たちの体をうごめくウジ、助けを求める声、鼻をつく異臭。


私は、長崎で見た悪夢のような光景を、思い出すまいとした。
しかしその光景は頭から離れず、私を苛み続けた。
あの時のアメリカの決断は、正しかったと言えるだろうか。


眠ろうとしても眠れない。
悪夢が終らないのだ。
写真を見たくなかった。
見ると、あの1945年の時に引き戻されて、長崎の悪夢がよみがえってしまう。


見ないという他に、私にはなにもできなかった」


苦しみから逃れるため、オダネルは、すべての写真をトランクに封印しました。
屋根裏部屋に隠し、以後43年間、開けることはありませんでした。


アメリカに帰国後、オダネルは、長崎での記憶を語ることなく、新たな生活を始めました。
軍を退役してから結婚、妻エレンさんとの間には、ジェニファーさん、タイグさんという二人の子どもに恵まれ、幸せな家庭を築きました。


タイグ氏:
「優しい父親でした。良い家族を築こうとしていました。
よく、ディズニーランドに連れていってくれた。
いつも家族一緒でした。

その家族が、唯一禁じられていたことがありました。

タイグ氏:
「とにかく緑の軍のトランクだけには、何があっても絶対に触るなと、いつも言われていたんです」

中に何が入っているのか、家族に知らされることはありませんでした。


帰国して3年後の1949年、オダネルはアメリカ情報局に勤務しました。
大統領の専属カメラマンに抜擢され、ホワイトハウスで働き始めたのです。


最初に担当したのは、日本に原爆投下の決定を下した、トルーマン大統領でした。
アメリカは、原爆投下を正当化し、核戦略を強化していました。

トルーマン大統領:
「原爆投下は、戦争を早く終らせるためだ。


多くの若いアメリカ兵の、命を救うためだった」


核実験の成功を伝えるニュース映像
核実験が砂漠で始まってから、経済効果も上がり、ラスベガスは盛況。
アイドル”ミス原爆”も登場。



日本に原爆を落としたことをどう思っているのか。
オダネルは一度だけ、自分の思いを、トルーマン大統領にぶつけました。
それは、トルーマン大統領が、朝鮮戦争を指揮していたマッカーサー司令官と会談した、1950年のできごとでした。


テープより
「『大統領、私は長崎と広島で、写真を撮っていました。
あなたは、日本に原爆を落としたことを、後悔したことはありませんか?』


彼は動揺し、顔を真っ赤にしてこう言った。

『当然それはある。しかし、原爆投下は、私のアイディアではない。私は前の大統領から、単に引き継いだだけだ』」


母国アメリカが推し進める核戦略と、長崎で見た、原爆が人間にもたらす現実。
オダネルは、苦悩を深めていきました。


陸軍!海軍!沿岸警備隊!海兵隊!空軍!
これがアメリカ!
毎年5月、ワシントンでは、退役軍人による記念パレードが行われます。
アメリカは、第二次大戦で敵国日本と戦った、オダネルたち退役軍人を讃えてきました。
高齢となった退役軍人は、その多くが、今なお、原爆投下の正当性を信じています。


退役軍人:
「原爆は、日本の真珠湾攻撃と比べても悪くないだろう」


別の退役軍人:
「原爆は必要だった。ははは、何の罪悪感も無いよ」



オダネルの体を、異変が襲います。


背骨の痛みと変形、さらに皮膚ガン。
オダネルは、原爆による症状だと確信しました。

テープより
「体のあちこちに異変が起きた。25回も手術することになった。
爆心地に送り込んでおきながら、軍は何も情報をくれなかった。


かなりひどい放射能汚染があったというのに、何も知らないまま、とてもたくさんの時間、長崎の爆心地にいた」

オダネルは、原爆による被害だと、アメリカ政府に補償を求めましたが、その訴えは却下されました。


1989年、オダネルの運命が変わります。
オダネルは、偶然立ち寄った修道院で、そこに飾られていた、反核運動の彫像に出会います。


その全身には、被爆者の写真が貼られていました。
腰には、爆心地を彷徨うふたり。


右腕には、列を成す傷ついた人々の姿がありました。


テープより
「私は、彫像を見て衝撃を受けた。
罪のない被爆者たちの写真が、彫像の全身に貼られていたのだ。
その多くは、女性であり、子どもたちだった。
それを見た時の気持ちは、言い表せない。
長崎の記憶がよみがえり、とても苦しくなった。
しかし私は、何かしなければと痛烈に感じた。
まさに啓示だった。


自分も、撮影した真実を、世界に伝えなければならないと」

オダネルは屋根裏部屋に行き、43年ぶりに、トランクを開けました。
長崎と題されたネガは、朽ち果てることなく、当時のまま残っていました。


トランクを開け、原爆の写真を並べ始めたオダネルの姿に、家族は衝撃を受けます。

タイグ氏:
「ある日、母が家に帰ってきたら、トランクを開けた父が、台所に原爆の写真を並べていたんです。
被爆者や爆心地の写真から、母は目を背けました。
母にはショックが大き過ぎたんです」


1990年、オダネルは長崎の写真を引き延ばして、アメリカの各地で写真展を試みました。


しかし、原爆の写真を受け入れる施設は、ほとんどありませんでした。

本に掲載してもらおうと、全米の出版社を回りましたが、回った35社、すべてに断られました。



終戦から50年目の1995年、スミソニアン航空宇宙博物館でようやく決まった写真の展示も、地元の退役軍人の激しい反対で、中止に追い込まれました。


家には嫌がらせの手紙が来るようになり、地元の新聞には、オダネルを批判する投書も目立つようになりました。
幸せだった家族は、トランクを開けてから一気に崩壊、妻エレンさんは、夫の行動を理解できず離婚しました。
原爆投下が戦争を終らせ、犠牲者を減らした。
母国アメリカの正義を前に、オダネルは孤立を深めていきました。

テープより
「どうか誤解しないでほしい。
私はアメリカ人だ。
アメリカを愛しているし、国のために戦った。
しかし、母国の過ちを、無かったことにできなかった。


退役軍人は、私のことを理解してくれないだろう。
私は、あの場所で居て、死の灰の上を歩き、この目で惨状を見たのだ。
確かに日本軍は、中国や韓国に対してひどいことをした。
しかし、あの小さな子どもたちが、何かしただろうか。


戦争に勝つために、本当に、彼らの母親を殺す必要があっただろうか。


1945年、あの原爆は、やはり間違っていた。


それは、100年経っても、間違いであり続ける。


絶対に間違っている。絶対に。
歴史はくり返すと言うが、くり返してはいけない歴史もあるはずだ」


封印していた写真と、再び向き合ったオダネル。


70才を過ぎてから、日本でも写真を公開し、体験を語る活動を始めました。
息子のタイグさんは、当時父の通訳をしていた人が、アメリカに居ると聞いて訪ねました。
リチャード・ラマーズさん(84)です。
父は長崎を訪れ、撮影した被爆者との再会を果たしていました。


救護所で撮影した少年は、一命をとりとめていたのです。
オダネルは、その少年、谷口稜嘩さんと十年に渡って交流し、共に日本で、原爆の過ちを訴えて回りました。


オダネルが最も気にかけていたのは、焼き場に立つ少年でした。

谷口さんのように再会できないか。
日本でその行方を探していたと言います。

ラマーズ氏:
「オダネルは、この写真の少年に、とても思い入れがあった。


あの時、少年の肩を抱き、なにか励ましの言葉をかけたかったと、いつも話していた。
しかし、できなかったと」


日本で写真展を開きながら、オダネルは、少年の行方を探し続けました。


誰か知っている人はいないか、家族は生きていないかと、全国各地を訪ねて回りました。

テープより
「私は、少年を必死に捜した。
日本の新聞にも『この少年を知りませんか』と載せてもらった。


少年はあの後、ひとりで生きていったのだろうか。

ついに、彼に会うことができなかった」



行方を捜して十年。
しかし、少年の消息をつかむことは、ついにできませんでした。
日本とアメリカを行き来する生活する中で、オダネルの病状は悪化していきます。
背骨の痛みは深刻になり、皮膚ガンは全身に転移していました。
そして去年の夏、ジョー・オダネルは、85才で息を引き取りました。
その日は奇しくも、長崎に原爆が落ちたのと同じ、8月9日でした。


残されたテープを聞いていく中で、息子タイグさんは、その思いを知ることになります。


テープより
「アメリカ人が好むと好まざるとに関わらず、8月6日と9日は毎年やってくる。


嫌がらせの手紙や投稿が、どんどん集まってくる。
『お前は裏切り者だ』
『アメリカが嫌なら日本に行け』と。


ある時、娘が教えてくれた。
『お父さんの活動に、味方する投稿がひとつだけあるよ。
それはとってもポジティブな内容で、お父さんは正しいことをしたって言ってる』と。


その投稿は、私への批判の声に、反論してくれていたのだ。
『オダネルを批判する人たちに言いたい。
まず図書館に行け。私がしたように。
原爆とは何だったのか、何をしたのか、図書館に行って、歴史を勉強してから批判しろ。


図書館に行け。あなた方は教えを受けるだろう』

私はそれを読み、こりゃすばらしいと思い、名前を見ると、それは私の息子だった。
息子が、私が日本に居た時と同じ、23才の頃だった。
その後、息子はこう言ってくれた。
『50年経って、僕がお父さんくらいになったら、僕が日本に行って、お父さんのやろうとしたことを引き継ぐよ。
平和のために、命をかけて、写真を伝えていくよ』」

タイグ氏:
「僕は、父の苦しみを理解しきれていなかった。
父の写真は、アメリカに、複雑な感情を抱かせる。


けれど父は、目撃してしまった。
その記憶に突き動かされたのだ。
もしあの頃に戻れるなら、父の支えになってあげたかった」

母国アメリカに、原爆投下の意味を問い続けた父。
その遺志をくみ、タイグさんは去年、全米に向けて、父の写真を公開しました。




写真に、批判の声が集まり始めます。
『広島と長崎への原爆投下は、必要だった』
『謝る必要なんてない』
しかし、父の時代には見られなかった声も、寄せられています。
『長崎の少年を見ました。
悲しみに耐えている姿に、胸が締めつけられました。
原爆の写真で、こんなに心を動かされたことはありませんでした』


イラク帰還兵からの声です。
『この写真は、戦争の現実を伝えている。
もしこれがイラクで写された写真だったら、アメリカ人は、イラクへの駐留を考え直したかもしれない』


写真を公開して8ヵ月、タイグさんの元に、思いがけない人から意見が届きました。
母、エレンからのものでした。
離婚して13年、父との連絡を絶っていた母が、その胸の内を語っていました。
『お父さんの写真のことで、忙しくしていると聞きました。
私は、ジョーが亡くなってから、彼の行動の意味を考えています。
しかし私にはまだ、ジョーがなぜトランクを開け、母国を告発したのか、わからないままです。
ただ、これだけは確かです。
彼の写真が、多くの人に影響を与えていること。
そしてその写真を引き継いだあなたを、ジョーが誇りに思っていることです』


タイグ氏:
「母は、父が遺した写真が、多くの人に何かを感じさせていることは、理解してくれています。
時間が経ち、アメリカは、十年前と少し変わってきています。
写真のような過去を見つめ、違った受け入れ方をする人も、増えているんだと思うんです」


ジョー・オダネルの死から、まもなく1年。


この夏、長崎(長崎原爆資料館)で、初の写真展が開催されました。


タイグさんも、遺族として招かれました。
会場で、被爆者の谷口稜嘩さん(79)と、初めて会うことになりました。
父オダネルが、63年前に撮影した、谷口さんの背中です。
「今現在の背中です。
新しいあとは、去年手術したんです」


タイグ氏:
「まだずっと、手術されているんですね」


タイグさんは父の足跡を辿り、写真に記録された場所を回りました。


(浦上天主堂の)彫像の目線の先に、かつて父は、焼け野原の長崎を目撃しました。




あれから63年。
長崎で、タイグさんは、子どもたちが遊ぶ姿にレンズを向けました。
それは生前、父が願っていた思いを、実現するためでした。

タイグ氏:
「父は死ぬ前に言っていました。『あの日の長崎には笑顔が無かった』と。
『いつか長崎で、笑顔の子どもを撮りたい』と。
それに応えたいと思ったんです」



原爆を目撃してしまったアメリカ人のカメラマンが、苦しみの末に封印を解いた、長崎。
30枚の写真は、今もなお、核の脅威に揺れる現代に、戦争の現実と、それを伝え続ける尊さを、訴えています。

テープより
「たとえ小さな石であっても、池に投げ入れたら、波紋は広がっていく。


それは少しずつ広がり、いつか陸に届くはずだ。
アメリカという陸にも、届く日が来る。
誰かが続いてくれれば、波紋はさらに広がっていく。


そしていつか、誰もが平和を実感できる日が来ると、信じている」