杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

龍王丸の黒印状

2017-05-16 13:03:30 | 歴史

 この春から社会人向けの教養講座にいくつか通い始めています。古文書解読は以前から真剣に学びたいと思っていて、昨年度は京都の花園大学へ月1で通っていたのですが、時間や交通費がネックで途中挫折。今年度は5月から始まった島田市博物館の今川古文書講座に通い始めました。講師は島田市博物館学芸員の岡村龍男先生。静岡新聞社刊『Tabi-tabi』で「港が生まれた日」を書いたときにご指南いただいた気鋭の歴史家です。会場は机が置けないほど満員盛況ぶりでした。

 5月14日第1回の教材は、今川氏親(1471~1526/幼名・龍王丸)が島田の東光寺に充てた黒印状。内容は〈寺の(所領に関する)願望を認め、もし違反者がいたら処分するからちゃんと報告せよ〉というもので、特段、重要な機密文書というわけではないようですが、歴史ファンの中では『龍王丸の黒印状』として知られているそう。戦国大名が印を使用した文書としては日本第1号なんだそうです。差出人本人を特定する花押(サイン)入りの文書は戦国ドラマなんかにも出てきますが、サインではなくて印を使った最初の印判状(=現時点で最古の印判状)ということ。それが島田のお寺に残っているなんてヘエエー!でした。

鈴木正一著「今川氏と東光寺」より

 

 もちろん、重要な文書なら印ではなく本人の花押入りの文書(判物)で、印判状というのはあくまで事務書類的なものゆえ調査の手が進んでいないだけのことかもしれませんが、岡村先生は「この黒印状から、今川氏親が足利幕府から駿河国の差配を任されていたことがわかる。氏親は当時、今川の実権を握っていた一族の小鹿範満と家督争いをしていて、幕府のお墨付きを得たことで小鹿を討つ大義名分を得た」と読み解きます。その後、氏親は小鹿氏征伐に成功したようですから、一般的な事務書類でも歴史を紐解く深読みができるんだなあとワクワクしました。

 今川氏親は6歳の時に父義忠を亡くし、急きょ家督を継いだものの成人するまで小鹿範満が後見につき、氏親が成人した後も実権を返そうとしなかったためお家騒動に発展。母の北川殿の実兄北条早雲が加勢して小鹿を討ち、今川家第7代に就きます。東日本では最も古い分国法(自治法)といわれる「今川仮名目録」を制定し、検地を実施するなど今川家を戦国大名へと押し上げた功労者で、妻はおんな戦国大名で知られる寿桂尼。今川仮名目録も寿桂尼も、現在放送中の大河ドラマにも出てきますよね(ホントは井伊直虎より寿桂尼のほうが大河の主人公にふさわしいんでは?と岡村先生。確かに!)。

 戦国時代、大名は地域の寺社や国衆たちに権利と義務を通達する文書を多数発給しました。敵味方グチャグチャな時代ですから、とりあえず契約書を乱発して勢力保持していたんですね。江戸の泰平になると、武力に替わって文書が世の中を支配します。岡村先生によると、現存する江戸時代の古文書の数は戦国時代の1万倍だそう。年貢の計算なんかで必要書類が膨大に増え、識字率も飛躍的に向上しました。

 公文書には漢字、一般の文書には仮名やくずし文字というように、いろんな文字を使い分けていた国柄ゆえ、必要に迫られた人や向上心のある人など、さまざまなモチベーションで書に触れる機会があったでしょう。お寺の檀家制度が地域で機能し、寺子屋などで学習の機会が確保されていたこと等も大きいと思います。

 以前、このブログの『駿河の仏教宗派』という記事(こちら)にも書きましたが、家康が確立した本山松寺制度=今の檀家制度の原型は、寺が同一宗派で組織的に機能し、各末寺が地域の区役所・学校・生涯学習センター・かかりつけ医のような役割を果たしました。

 

 識字率が8割ともいわれた江戸時代の日本人は、当然のことながら書に対する意識がものすごく高かったと思います。渇望といってもいいくらいでしょうか。映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』のシナリオ制作時に調査した史料によると、朝鮮通信使は日本国内で書籍の売買や出版が盛んなことに驚きます。とくに中国や朝鮮の翻訳本が人気で、中には壬辰丁酉の乱にかかわる両国間の裏事情を暴露した本も多く出回っていました。柳成龍(ユソンヨン)の『懲毖録』を翻訳した貝原益軒は、序文に「秀吉の出兵は大義名分のない、おごりたかぶったものだ」とはっきり書いています。

 こういう状況を通信使からの報告で知った朝鮮王朝は「朝鮮の史書および文集類はいっさい輸出禁止」の措置を取りましたが、禁止されたことで朝鮮本人気はいっそう高まります。そこへ通信使がやってくるのですから、日本人の期待感はふくらむ一方。通信使は日記に「大坂は文を求める者が諸地方に倍して劇しく、あるときは鶏鳴のときにいたっても寝られず、まさに食事を中断するありさまである」と吐露するほどです

 以前、静岡県朝鮮通信使研究会で北村欣哉先生が発表された調査によると、現在、大河ドラマの舞台で人気沸騰の引佐町井伊谷の龍潭寺の山号額「萬松山」と寺号額「龍潭寺」は、第6回朝鮮通信使(1655)の写字官・金義信の書です。扁額の裏に『明暦元乙未仲冬の日朝鮮国の官士雪峯老人、江府において寺・山の両号を書く』とあり、1655年11月に雪峯(金義信のペンネーム)が近江国彦根で書いたということが判明しています。

 龍潭寺は通信使行列が通った東海道筋からはかなり離れていますが、新しい山門を作った時、当時、文化知識人の憧れの的だった朝鮮通信使にぜひ山号寺号を書いてもらいたいと熱望。でも通信使の書や絵は大変な人気で、おいそれと頼めない。そこで、彦根の井伊の殿様に口利きをしてもらおうと、宗元という寺男が彦根まで出向いて、憧れの通信使の書を無事ゲット。ご住職や井伊谷の人々は「歴却不壊、高着眼看、至祝不尽珍重」と大いに感激したそうです。

 

 今川氏親の時代から約500年、朝鮮通信使の時代から約300年。日本で使われる言語は日本語だけではなくなったにもかかわらず、古文書講座がこんなに盛況だなんて、日本人はやっぱり書が好きな国民なんですね。ちょっと前まで日本語ブログの投稿数は英語と並んで世界一だったとか。私自身、SNS全盛時代になっても飽きもせず長文ブログを10年近くダラダラ書いていて、我ながら可笑しくなります。

 古文書の学習は一定の決まり事を頭に入れたうえで、とにかく数を読みこなすことだそうですが、漢字の楷書で書かれた公文書や高僧の墨書に比べ、私文通信はくずし文字が多くて読みにくい。でも、くずした文字に書き手の人となりや心持ちを読み解く面白さって、文字を手で書かなくなった現代人ーとりわけ作家やライターは失ってはならない皮膚感覚のような気がします。

 そのうち、AIが古文書をいとも簡単に翻訳するようになるでしょうけど、書に対する感覚って五感と同じくらい大切にしたいですね。

 

 

 

 

 

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