杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

阿部正弘と朝鮮通信使

2017-07-17 20:14:50 | 朝鮮通信使

 先日、ふじのくに地球環境史ミュージアムで開催中の企画展『雲の伯爵―富士山と向き合う阿部正直』に行ってきました。阿部正直伯爵は明治時代、富士山に発生する山雲の観測に生涯をささげた理学博士。会場では約100点の写真や撮影機器が並び、戦前に撮影された富士山の見事な写真芸術が堪能できました。

 展示会に足を運んだきっかけは、6月28日の静岡県朝鮮通信使研究会で北村欣哉先生から、阿部正直が幕末の老中阿部正弘の子孫だと聞いたからです。

 福山藩主阿部正弘(1819~1857)は26歳で老中首座(今の総理大臣)に抜擢され、開明派といわれる外様大名(松平春嶽島津斉彬、伊達宗城、山内容堂徳川斉昭等)を重用。黒船来航という日本始まって以来の安保・通商危機や安政大地震に見舞われつつも、約200年続いた鎖国政策を大転換させました。長崎に海軍伝習所を設け西洋砲術の推進し、「大船建造の禁」を緩和して軍備の西洋化や洋学所を作らせ、慣習や身分に関わらず人材を登用するなど幕政改革を断行。勝海舟や江川英龍らが活躍の場を得ました。

 徳川13代・14代の軟弱な将軍に仕え、老中職のまま38歳で病死しますが、間違いなく近代日本の礎を築いた人物。幕末史の中ではあまり取り上げられませんが、彼がこのとき老中首座にいなかったら日本はどうなっていたんだろう、もし長生きしてたら確実に幕末史は変わっていただろうと思います。

 

 そんな阿部正弘が、実は「朝鮮通信使」という表現を初めてした人物だと北村先生からうかがって、ビックリしました。それまで徳川幕府は「朝鮮信使」「韓使」と呼んでいたそうで、安政期にアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと通商条約を結ぶ際、朝鮮国との長い友好関係について通商(ビジネス)ではなく通信(よしみをかわす)であると明確にしたため。最後の朝鮮通信使がやってきたのが、阿部正弘が生まれる前の文化8年(1811)ですから、彼には通信使を接待した経験はないわけですが、徳川政権にとって特別な存在だったことは政権中枢に在る者ならばよく理解していたことでしょう。

 彼の出身地である福山藩には、朝鮮通信使が「日東第一景勝」と呼んで最も愛した鞆の浦があり、鞆の浦の名産である保命酒(薬草酒)を接待に使って喜ばれた。そのことをよく知っている阿部は、ペリーが下田にやってきた時、故郷から保命酒を取り寄せて接待に使いました。下田の土屋酒店ではその故事にちなんで、ペリーラベルの保命酒を販売しています。私はこれを今のような暑い時期には炭酸水で割って風呂上りによく飲みます。

 

 6月28日の静岡県朝鮮通信使研究会では新規受講者が増えたため、北村先生が朝鮮通信使が何人で、どんなスケジュールで漢城(ソウル)から江戸まで往復したかをおさらいしてくれました。


第1回 慶長12年(1607) 1月12日~7月19日 (6か月と7日) 467人

第2回 元和3年(1617) *京都まで 478人

第3回 寛永元年(1624) 8月20日~3月23日 (7か月と3日)*日光まで。300人

第4回 寛永13年(1636) 8月11日~3月9日  (6か月と28日)*日光まで。475人

第5回 寛永20年(1643) 2月20日~11月21日 (9か月と1日)*日光まで。462人

第6回 明暦元年(1655) 4月20日~2月20日 (10か月) 488人

第7回 天和2年(1682) 5月8日~11月16日 (6か月と8日) 475人

第8回 正徳元年(1711) 5月15日~3月9日 (9か月と24日) 500人

第9回 享保4年(1719) 4月11日~1月24日 (9か月と13日) 479人

第10回 寛延元年(1748) 11月28日~7月30日 (9か月と2日) 475人

第11回 宝暦13年(1763) 8月3日~7月8日 (11か月と5日) 462人

第12回 文化8年(1811) *対馬まで 336人


 こうして数字だけ見ると、日本の随行員を合わせると500人をゆうに超える外交使節団が半年以上、ヘタをすると丸1年近く対馬から江戸までを往復していたわけです。最初の1~2回は回答兼刷還使(秀吉の朝鮮侵攻に対する謝罪の回答と被虜の返還を目的にした使者)で、3回以降は友好使節団として主に徳川将軍の交替時にやってきました。

 3回~5回はわりと短期間に、しかも日光まで行っていますが、いずれも3代将軍徳川家光の治世です。家光が通信使招聘を実現させた祖父家康をいかに尊敬し、通信使に自慢したかったかが分かるし、3度も招聘するだけの力がこの時代の徳川政権にあったということですね。

 

 ちなみに最もロングステイとなった第11回(宝暦13年)、静岡県内の日程を見ると、行きは2月6日に新居→浜松(泊)、2月7日に見附→掛川(泊)、2月8日は大井川増水のため掛川にもう一泊、2月9日は金谷→藤枝(泊)、2月10日は府中(宝泰寺でお昼休憩)→江尻(泊)、2月11日は吉原(悪天候のため泊り)2月12日は吉原→三島(泊)という7泊の行程。帰りは富士川増水のため3月14日~16日まで三島泊、17~19日まで吉原泊、3月22日~24日は大井川増水のため藤枝泊と計13泊したもよう。500人もの外交使節団が静岡県内に20泊もしたのですから、さぞ大騒ぎだっただろうと想像します。


 庶民にとっても、限られた港とその周辺でしか接点のない西洋人とは違い、朝鮮通信使と出合う機会や噂話を聞く機会は膨大な数だったでしょう。各地域を舞台に、本当に豊かな国際交流が花開いていたと思います。

 幕末、文化の異なる西洋列強から通商条約を強いられたとき、朝鮮とは「通信」で結ばれてきたのだと明言した阿部正弘。彼は福山藩主として代々接待役を務めていた家に生まれ、老中在職時には詳細な接待記録を目にしていたでしょう。実際、幕府は嘉永5年(1865)に第13回目を実現すべく対馬藩に交渉させていたのですが、時代がその実現を許してくれませんでした。

 阿部正弘本人も、自らの手で接待してみたかっただろうなあ・・・保命酒を味わうたびに、彼の早逝がどうにも悔やまれてなりません。

 

 なお『雲の伯爵―富士山と向き合う阿部正直』は8月13日(日)まで開催中。8月12日(土)夜には19時・20時に「ジャズと楽しむ雲の科学」というナイトミュージアムイベントがあるそうです。詳しくはふじのくに地球環境史ミュージアム(こちら)まで。

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