杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

千利休の故郷とゆかりの国宝探訪(その2)堺の歴史ウォーキング

2017-07-09 19:01:55 | 駿河茶禅の会

 前回の続きです。2日目(6月11日)は千利休の生まれ故郷堺市の史跡巡りを楽しみました。歴代大河ドラマで一番好きな『黄金の日々』の舞台にもなったまち。日本中世史上、重要な交易都市として、長年脳内トリップし続けてきましたが、実際に訪ねるのは今回初めてです。

 

 歴史教科書では、まずは仁徳天皇陵古墳のある町として登場し、遣明船が出港した1469年から、大坂夏の陣で焼失する1615年までの約150年の間、町人による自治都市、国際貿易都市として栄えた堺。1550年にはフランシスコ・ザビエル、1564年にはルイス・フロイス、1577年には織田信長がやってきて栄華を極め、堺の納屋衆(倉庫業者)出身の利休によって、“究極のおもてなし”である茶道が大成しました。

 利休が秀吉によって切腹させられ、さらに秀吉も亡くなると町衆の権力は失速し、大坂夏の陣で壊滅的な被害をこうむり、徳川幕府により商人の位置づけが「士農工商」と社会秩序の中で最低の格付けに据え置かれた・・・ということで、江戸時代は商人の町から職人の町へと変貌し、今の堺に残る史跡といえば鉄砲、包丁、織物等の職人屋敷が中心です。
 

 我々は、観光案内に載っていた約10㎞の散策モデルコースを参考に、9時に南海本線七道駅を出発。駅からすぐの清学院(江戸時代の寺子屋/国登録有形文化財)を訪ねたら10時開館で中に入れず。外観写真だけ撮っていたら清学院の観光ボランティアガイドさんがやってきて、建物の解説や周辺の見どころを即興案内してくれました。さすが究極のおもてなしを生んだ町のガイドさん!と一同感激でした。

 

 ガイドさんのレコメンドに従って、地図を片手に鉄砲鍛冶屋敷→江戸前期の町家・山口家住宅を外から眺め、寺院が軒を連ねる紀州街道界隈を30分ほど進むと、日蓮宗の名刹・妙國寺に到着。境内の大ソテツ(国天然記念物)で知られる名刹です。このソテツ、なんでも信長が気に入って安土城に移植したものの、ソテツが夜な夜な「堺へ帰りたい」と泣いたので激怒した信長が「切り倒してしまえ」と命じたところ、切り口から鮮血を流し、大蛇のごとく悶絶し、恐れをなした信長は、妙国寺に返したそうな。

 この寺には本能寺の変のときに徳川家康が滞在し、僧の機転で家康は難を逃れ、筒井一族の手引きで伊賀越えをして三河に戻りました。その後、家康に仕えていた小堀遠州が見事なソテツに心惹かれ、茶の師匠古田織部と妙國寺貫首の許しを得て枯山水の庭を創り上げました。石組みの中央に富士山、右側に富士川、左側に大井川が流れて遠州灘に注いでいる景観を取り入れて、ソテツの庭で駿府の国を再現し、大坂冬の陣でこの寺に滞在することになった家康を癒し、悦ばせたそうです。

 この寺はまた、幕末には堺を警護していた土佐藩士とフランス軍艦兵が衝突し、国際問題に。土佐藩はフランスに賠償金を払い、藩士20名に切腹が命じられました。切腹の光景があまりにも壮絶だったためフランス側が12人目で止めさせ、残り9名は流罪となったという『堺事件』の舞台にもなりました。

 そんなこんなで静岡人がビックリ感激するようなトリビアをご住職が丁寧に説明してくださって、土佐十一烈士の遺品、呂宋助左衛門がルソンから持ち帰って信長に献上した壺、本阿弥光悦が奉納した法華経等々のお宝が展示された宝物資料館もしっかり見せていただきました(寺院内部や庭は撮影不可)。


 堺の名産品がそろった堺伝統産業会館、望月先生ご所望の御干菓子『利休古印』を製造販売する丸市菓子舗で土産物をひとそろえした後、ランチで訪ねたのは創業元禄8年というトンデモ老舗の蕎麦店『ちく満』。メニューはせいろそば一斤、一斤半(1.5人前)のみ。生卵と熱い蕎麦つゆが添えられ、すき焼きのように生卵をつゆと混ぜ合わせます。せいろそばは、本当にセイロで蒸した、コシがまったくないうどんに近い柔らか~い蕎麦。コシのある麺をスルッとすすってのど越しを楽しむいつもの蕎麦とはあきらかに別モノですが、せいろそばって言うぐらいだから、もともとは茹でるんじゃなくて、蒸してこんなふうにモチモチしていたんだろうなあと想像します。

 望月先生が「やっぱりこしのある蕎麦で口直ししたい」と、帰りの新大阪駅構内でうどんすきの名店「美々卯」のそばを食べて帰るとおっしゃるのでおつきあいしました。うどん屋さんの蕎麦だけど、静岡人が食べ慣れたコシのある蕎麦でホッとしました(笑)。

 

 午後はちく満からほど近い場所に、2015年3月にオープンした文化ミュージアム『さかい利晶の杜を訪ねました。利晶というのは千利休と与謝野晶子の頭文字。与謝野晶子も堺生まれなんですね。ここで立礼呈茶をいただき、茶の湯の歴史展示資料を拝見。待庵を模した『さかい待庵』もしっかり復元されていました。ミュージアムが建てられた場所は、もともと千利休の屋敷があった場所。利休が使っていたと伝わる井戸が残っています。


 さらに15分ほど歩いて、本日のクライマックス・南宗寺に到着。武野紹鴎、千利休が禅を学んだ臨済宗大徳寺派の名刹です。

 こちらも内部は写真撮影不可につき、文字説明だけで恐縮ですが、境内には利休一門の墓があり、古田織部が作ったと伝わる枯山水庭園(国名勝)も。とくにコアな歴史ファンの間では、境内に徳川家康の墓があることでも有名です。

 静岡人にしてみればエッ⁉と思いますが、寺史には「大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れた徳川家康は、駕籠で逃げる途中で後藤又兵衛の槍に突かれ、辛くも堺まで落ち延びるも、駕籠を開けると既に事切れていた。ひとまず遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した」とあり、2代将軍秀忠、3代家光がそろって参詣した事実も。墓標近くには山岡鉄舟筆「この無名塔を家康の墓と認める」の碑文もあります。延宝7年(1679)には山内に東照宮が建てられ、水戸徳川家家老裔の三木啓次郎によって昭和42年に東照宮跡碑が建立されました。碑石の銘は「東照宮 徳川家康墓」と記され、賛同者名の中には、松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助の名前もありました。

 家康の墓の謎には興味が尽きませんが、わが駿河茶禅の会としては、やはりこの寺が「茶禅一味」の精神を育んだ場所であることに思いが深まります。寺はもともと大徳寺90世の大林宗套(1480~1568)が開き、当時堺を治めていた三好長慶や堺の町衆に禅を教化。利休は南宗寺開山大林宗套と2世笑嶺宗訢に参禅し、極限まで無駄を省くわび茶を大成させたのでした。境内には利休の師武野紹鴎ゆかりの六地蔵石灯籠、利休が使ったといわれる袈裟型手水鉢、利休好みの茶室・実相庵等が残っています。

 山内の塔頭天慶院(非公開)の門前には、山上宗二(1544-1590)の供養塔が建っていました。

 現在、駿河茶禅の会では「茶禅一味」という概念を初めて記した山上宗二記を勉強しています。山上宗二も堺の町衆出身の茶人で、権力者にも物怖じしない性格で、秀吉の逆鱗に触れ、利休より1年早く処刑された人物。師である利休の“茶の湯革命”について、刑死直前に必死に書き留めたのが山上宗二記でした。わび茶の始祖といわれる村田珠光の一紙目録(秘伝書)を武野紹鴎が書き写し、そこに「紹鷗末期の言」として出てくるのが〈料知茶味同禅味 汲尽松風意未塵〉という言葉。大林宗套が紹鷗の肖像画の賛として送った言葉で、さらにこれを山上宗二が書き伝えました。

 「一味」はもともと仏教語で、仏の教えは説き方がさまざまあっても、その本旨はただひとつという意味。茶の道は禅の修行と本質が同じということです。その本質が何たるかを究めるのに50の手習いでは遅すぎる気もしますが、こうして心を同じくする仲間と紹鴎や利休が参禅したという寺を訪ね、山上宗二の供養塔に手を合わせる機会を得たことは大きな前進でした。

 


 旅の最後にお詣りしたのは、南海本線の途中駅にある住吉大社。大阪を代表する初詣スポットとして名前は知っていましたが、お詣りするのは初めてです。第一本宮から第三本宮までが直列、第四本宮と第三本宮は並列に配置されるという全国的にも珍しい本殿の配置で、20年に一度の式年遷宮が平成20~21年に行なわれ、平成23年には鎮座1800年祭が執り行われました。本殿(国宝)は住吉造りといわれる特殊なスタイルで、①柱・垂木・破風板は丹塗り、 羽目板壁は白胡粉塗り、②屋根は桧皮葺で切妻の力強い直線、③出入り口が直線型妻入式という特徴があるそうです。どうりで、荘厳で美しいけど、どこか見慣れぬ不思議な佇まいを感じました。

 

 住吉大社のご祭神は水都のお社らしく海の神様。お祓い・航海安全・和歌の道・産業育成の神として信仰されています。堺の町が最も輝いたのは戦国~安土桃山時代の150年間でしたが、その前もその後も、20年を節目に伝統を継承しながらこの地の歩みを見守り続けてこられたんですね。本質を変えないために更新するという二面的な強靭さ・・・禅の精神が憑依したわび茶にもそれを感じます。これぞ日本文化の特異性だなと改めて思い知ることのできた旅でした。





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