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重陽の節句

2017-07-17 20:57:01 | 年中行事・節気・暦
重陽の節句

 若い人に9月9日は何の日かと尋ねると、救急の日という答えが返って来るかもしれません。もちろん間違いではないのですが、歴史的には「菊の節句」とか「重陽の節句」と呼ばれました。必要とされる日には間に合わず、遅れて調達されることを「六日のあやめ、十日の菊」と言うのですが、この諺も説明しないとわかってもらえなくなってしまいました。重陽の節句は、江戸幕府が式日として定めた五節句の中でも、特に盛大に祝われていたのですが、現在ではすっかり影が薄くなってしまいましたね。新暦の9月9日には菊の花が咲いていないこともあるからでしょうか。生花店には一年中菊の花は並んでいるのに、葬儀用の花という印象が強くなってしまったからでしょうか。そもそも「重陽」という言葉がわかりにくいということもあるでしょう。

 陰陽思想では、あらゆるものに陰と陽があり、互いに補完しつつ万物が成り立っていると説明されます。陰の力と陽の力は決して対立する関係ではないのですが、言葉の印象だけが先行して、一般には陽は吉であり、陰は凶であると理解される傾向があります。数字では奇数は陽、偶数は陰とされ、陽の数が重なる日、つまり1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日には、古来節会が行われてきました。ただし江戸幕府が1月7日を「人日の節句」として五節句に指定したため、一般にはこれも節句として数えられています。これらの節句の中では、9月9日は最大の奇数である9が重なることから「重陽の節句」と呼ばれてきました。そして中国語では九九は久久に、また重九が長久に音が通じることから、陽の重なる節句の中でも特に重視されていました。しかし陽が重なることはある面で大いに「吉」なのですが、陰陽道では陽の力が極まると一転して陰となり、またその逆にもなると考えます。そこで陽が重なる日は「吉」であると同時に、十分に行動に気を付けなければならない日でもあったのです。節句がいずれも陽の重なる日であるということは、一転して生じる邪気を避けようという意味もあるわけです。

 重陽の節句の起原については、『荊楚歳時記』には次のように記されています。難しい漢文なので、現代訳にしてみました。「『続斉諧記』(5~6世紀に中国南朝の梁で活躍した呉均が著した怪異小説集)には、次のように記されている。(後漢の時代)、汝南(じょなん)という所にいた桓景という者が、費長房という道教の師に随って長年学んでいた。ある日、師の長房は「九月九日、おまえの家にはきっと災難があるだろうから、急いで戻れ。家族もみな各々絳(あか)い嚢(ふくろ)を作り、茱萸(しゅゆ)の種を入れ、それを臂(ひじ)に繋(か)け、高い山に登って菊酒を飲めば、この禍(わざわい)は消え失せるだろう」と言った。家に戻ってみると、家畜の鶏・犬・牛・羊がみな死んでいた。長房はこれを聞いて、身代わりになったのだと言った。今世の人が九日に至るごとに、山に登り菊酒を飲み、茱萸嚢を身に帯びるのは、この故事に拠っている。」と。

 茱萸は「ぐみ」とも読み、一般に赤く小さな実の成る果樹と誤解されがちですが、ここで言う茱萸はそれとは異なり、蜜柑の仲間の呉茱萸(ごしゅゆ)と呼ばれるもので、和名はカワハジミといいます。その実には芳香があり、解熱、鎮痛、消毒、頭痛、 強心など、幅広く薬効があるとされていました。まあ不老長寿の仙薬といったところでしょうか。平安時代には、端午の節句の時に柱に懸けた薬玉を、重陽の節句で茱萸嚢と取り替える風習がありました。いかにも見てきたかのように書いていますが、私はまだ実物を見たことがなく、実感を持ってお伝えできなくて申し訳ありません。

 9月9日に邪気を払って特別な行事を行う風習は、いつから日本でも行われるようになったか、はっきりしたことはわかりません。『日本書紀』の天武天皇十四年(684年)九月九日に、「天皇旧宮安殿ノ庭ニ宴ス」と記されていて、重陽の節会が行われた可能性があります。しかし天武天皇がその翌年の9月9日に崩御したことから、以後は記録が断絶してしまいます。奈良時代の歴史書である『続日本紀』にも記録はなく、少なくとも宮廷行事としては定着していません。また当時日本には菊が伝えられていませんから、菊酒を飲むということはなかったはずです。ですから実質的な菊の節句としての重陽の節会の起原は、菊が伝えられた8世紀末以降と見てよいでしょう。

 平安時代以後の重陽の節会の確実な記録は、『日本後紀』弘仁三年(812年)九月九日に見られます。嵯峨天皇が神泉苑に行幸して、文人に命じて詩を詠ませたことが記されていますが、嵯峨天皇は空海と並んで唐風書道や漢詩に優れていましたから、唐伝来の菊の花を愛でながら、観菊の宴を催したことでしょう。
その後しばらく重陽の節会が行われるのですが、延長八年(930年)の9月29日に醍醐天皇が崩御し、しかも菅原道真の祟りによると理解されたため、重陽の節会はまた中止されてしまいます。その後、村上天皇の時には10月に残菊の宴が行われたことがありますが、重陽の節会が復活するのは冷泉天皇の安和元年(968年)のことになってしまいます。

 皇室の御紋章になるほど、菊は日本を代表する花ですが、不思議なことに『古事記』『日本書紀』『万葉集』には全く見当たらず、奈良時代に編纂された日本最初の漢詩集『懐風藻』に初めて現れます。もっともそれすら実際に菊を見て詠んだ詩かどうか、疑問は残ります。唐の文人趣味を真似て詠んだ可能性も強いからです。しかし八世紀末までには唐から伝えられたことは間違いありません。そもそも「きく」という読み方は音読みなのです。水を掌(てのひら)ですくうことを意味する「掬水」という言葉は、「きくすい」と読むことでもわかりますね。「きく」が音読みであること自体が、菊が中国伝来の植物であることを示しているのです。また和歌集である『万葉集』には菊の歌が一首もないにもかかわらず、漢詩集である『懐風藻』には数首もあることも、そのことを傍証しています。

 七世紀の唐の百科全書とも言うべき『芸文類聚』(げいもんるいじゅう)という書物の薬香草部の菊の条には、『風俗通』という書物を引用して、「南陽の酈県に甘谷あり、谷水甘美なり。云ふ。其の山上大いに菊あり。水は山上より流れ、下は其の滋液を得。谷中、三十余家あり。また井を穿たず、悉く此の水を飲む。上寿は百二三十、中は百余、下は七八十なり。之を大夭と名づく。菊華は身を軽くし気を益すが故なり」と記されています。菊水を飲めば長生きができるが、七八十歳ではまだまだ若い、百二三十歳で 漸く長生きだと言うのです。四十歳で「初老」とみなされた頃の話ですから、とんでもない長寿ということになります。この『芸文類聚』は、唐文化に憧れた文人官僚や貴族が、百科全書のように座右に置いて重宝した書物でしたから、そのままそれが日本人の菊の理解につながっていったのです。

 菊が長寿のシンボルと理解されたことは、当時の和歌によく現れています。
○露ながら折りてかざさむ菊の花老いせぬ秋のひさしかるべく (古今和歌集 270)
「露ながら」は「露の置いたまま」という意味で、菊水を飲むと長生きできるという『芸文類聚』の記事を踏まえています。露の置いたままの濡れた菊の花を髪(あるいは冠)に挿そう。老いることのない年が続くように、という意味です。
○長月の九日ごとに摘む菊の花もかひなく老いにけるかな (拾遺和歌集 185)
この歌はわかりやすいですね。重陽の日には毎年長寿を祈念して菊の花を摘んでいたのに、その甲斐もなく年老いてしまった、という意味です。
○行く末の秋を重ねて九重に千代までめぐれ菊の盃 (続千載集 566)
この歌は宮中での菊の宴で、菊の花を浮かべた菊の盃を詠んだもの。「九重」とは宮中のことですが、ここでは同時に重陽をも意味していて、なかなか凝った歌になっています。清酒の名前には、菊の文字を含むものがたくさんあります。菊正宗・菊水・菊露・喜久水・白菊・菊の里など、探せばいくらでも見つかります。これらの命名の発想は、この菊酒によるものと見てよいでしょう。平安時代の文人・官僚が、重陽の日に菊を愛でて詩歌を詠んでいたようすがわかりますね。

 また観菊の宴では、「菊の着せ綿」(被せ綿)という面白い風習が行われました。前日の八日、菊の花に綿を被せ、翌朝、露で湿ったその綿をとって身体を拭うのです。木綿の綿が日本に伝えられるのは室町時代のことですから、この「着せ綿」の綿はもちろん真綿のこと。これも菊酒と同じく長寿を祈る呪いです。
この菊の被せ綿について、『枕草子』には次のように記されています。「正月一日、・・・・九月九日は暁がたより雨すこし降りて、菊の露もこちたうそぼち、おほひたる綿などもてはやされたる。つとめてはやみにたれど、曇りて、ややもすれば降り落ちぬべく見えたる、をかし。」。夜明けに雨が降り、濡れた被せ綿が花の香に一層よく香る。早朝には止んで曇っているが、綿がずり落ちてしまいそうに見えるのが面白い、という意味です。また『紫式部日記』にも次のような記されています。「九日、菊の綿を兵部のおもとの持て来て、『これ、殿の上の、とりわきて。いとよう老いのごひ捨てたまへと、のたまはせつる』とあれば、菊の露わかゆばかりに袖ふれて花のあるじに千代はゆづらむとて、かへしたてまつらむとするほどに、あなたに帰り渡らせたまひぬとあれば、ようなきにとどめつ。」。これは、紫式部が藤原道長の妻の倫子から「老いを拭いとって捨てなさい」と菊の被せ綿を贈られたのですが、「被せ綿の露で身を拭えば、千年も寿命が延びるということですが、私は若返る程度に少しだけ袖を触れさせていただき、千年の寿命は、花の持ち主のあなた様にお譲りいたしましょう」という意味の歌を添え、遠慮して花を返したという話です。『弁内侍日記』の寛元四年(1246年)九月八日の条にも、次のように記されています。「中宮の御かたより菊のきせわたまいりたるが、ことにうつくしきを、朝かれゐの御つぼの菊にきせて、夜のまの露もいかがとおぼえわたされて・・・・」。重陽の節句の前日、被せ綿を頂いたので、清涼殿の朝餉(あさがれい、天皇の日常の食事)の間の西側の小庭の菊に載せたが、夜露が置くだろうかと思われて・・・・、という意味です。

 菊の花の上に真綿を乗せるというのですから、花と綿の彩が気になりますね。菊の花の色は今日でこそ様々にありますが、古くは白一色と見てよいでしょう。「しろがねとこがねの色に咲き紛ふ」という歌(夫木和歌抄05906)があることから、極めてわずかに黄菊があったことは間違いないのですが、それ以外は見当たりませんでした。白菊の上に真っ白い真綿を乗せたのでしょぅか。白梅に積もる白雪のようで、それはそれで美しいとは思います。しかし『夫木和歌抄』に「いろいろに菊の綿きぬそめかけてまだきうつろふ花はなとこそ見れ」という歌がありますから、赤に近い色に染めた真綿があった可能性もあります。それはなぜかというと、白菊は霜に当たって赤紫に変色するのですが、そのことを「菊の花が移ろふ」として賞することがありました。そして被せ綿をのせた菊を、早くも花が色変わりしていると詠んでいるからなのです。

 江戸時代の文献ですが、17世紀の『後水尾院当時年中行事』には、被せ綿の色やその載せ方などについて細かく記されています。、宮内庁書陵部の写真版で確認しましたが、白菊には黄色の綿、黄色の菊には赤い綿、赤い菊には白い綿で覆うとされていました。さらに花を覆った真綿の中心に、小さく丸めた綿をちょこっと乗せて蘂(しべ)とすると定められています。菊の蘂は普通は見えないのですが、アクセントになって可愛らしく見える効果はあるようです。江戸時代までには様々な色の菊が品種改良され、被せ綿の色についても、それこそ色々な仕来りができたのでしょう。最近では全国各地の神社などで、菊の被せ綿の行事が復活されています。ただ新暦の9月9日なので、時期が早すぎますね。

 五節句のうち現在の菊の節句には、せいぜい菊の花を生けるくらいのもので、被せ綿の他には何か特別な行事や行事食はありません。しかし江戸時代には栗を食べる風習がありました。享和三年(1803)に出版された『俳諧歳時記』には、「本邦の俗、九月九日、親戚朋友、迭(たがい)に相贈るに栗を以し、菊花酒を飮むゆゑに、菊の節句とも、また栗の節句ともいひならはせり。」と記されています。延宝四年(1676年)に出版された『日次紀事』には、菊酒を飲み、蒸栗を食べ、また親戚や朋友が互に栗を贈ると記されています。貞享五年(1688年)に出版された『日本歳時記』には、「栗子飯を食ひ、菊花酒をのむ」と記され、また19世紀半ば、大坂町奉行に勤務していた久須美祐雋という人の随筆である『浪花の風』には、栗・柿・葡萄を食べ、松茸の煮物や鱧(はも)を食べると記されています。

 現在の菊の節句はあまり注目されていませんから、このような伝統的行事食を復活させたいものですね。少々脱線しますが、敬老の日と重陽の節句が同じ日であったらよかったのにと思います。菊を飾り、菊酒を飲み、栗御飯を食べ、菊の被せ綿で拭い、菊をかたどった和菓子を食べて長寿を祈る。『荊楚歳時記』にあるように、山に登るというのは、体力的に無理のようですね。まあそれはともかく、重陽の節句と敬老の日の趣旨がうまく合致するのですが、まあ今さらどうにもならないのでしょう。ただ一つ気になることがあります。敬老の日には菊を贈ってはいけないというネット情報がたくさん見られることです。それは、菊、特に白菊が葬儀によく用いられるために、高齢者に贈る花としては相応しくないという事なのでしょう。しかしそのようなことを書いている人は、歴史的には菊は長寿のシンボルであったことを知らないのでしょう。菊を忌避すべき理由は全くありません。ですから歴史的な菊の理解を十分に説明して、長寿を寿ぐ歌を添えて高齢者に贈るというのはどんなものでしょうか。歌を詠めないというならば、古い和歌集から拾えばよいのです。白菊が気になるならば、色々混ぜたらよいでしょう。菊の名誉挽回になれば嬉しいのですが。


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