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私の授業 「東山文化 1」

2017-02-13 16:49:32 | 私の授業
以下のお話しは、かつて「もう一度学ぶ高校日本史」と題して、一般市民の方を対象とした学校公開講座での授業の一場面です。対象者は主に熟年の高齢者であり、自主的に学ぶ意欲をもっています。ですから高校の授業のレベルより少々踏み込んだ話をしても、理解する力を十分に持っています。録音をもとに再生していますが、一部省略したり加筆した部分もあります。しかし授業の全体的な雰囲気は、実際の授業そのままです。


今日は東山文化について勉強しましょう。長くなるので、今日はまず前半です。私が高校生の頃は、室町時代の文化は北山文化と東山文化の二つに分けて学習していたものです。皆さんもほぼ同年代ですから、同じようなものだったでしょうね。ところが近年は南北朝期の文化を独立させて学習するようになっています。北山文化は将軍足利義満の頃、東山文化は将軍足利義政の頃の文化と理解すると、両者に挟まれた時期の文化が脱落してしまうというので、最近は「室町文化」で一括りにしてしまうなんていう考えもあるようです。私自身としては、そんなに神経質にならないで、室町初期の文化を南北朝期の文化、それに続く義満の頃を中心とする文化を北山文化、義政の頃を中心とする文化を東山文化、あとは戦国期の文化という大雑把な把握で十分だと思っています。今日勉強する東山文化ですが、義政は1436年に生まれ1490年に没していますから、15世紀の文化でもよいでしょう。

 足利義政を中心とした頃というのですから、義政がどんな人物であったかということから始めましょうか。もし武家政治の棟梁としての征夷大将軍という視点から見るならば、義政はとうていそれに相応しからぬ将軍だったと言えます。武家らしい治績がないどころか、長年にわたる応仁の乱にもなすすべもありませんでした。「万人恐怖」と恐れられた義政の父義教がよいとは思いませんが、少なくとも義教は「征夷大将軍」として果断に振る舞おうとしていたと思います。

 応仁の乱が始まる数年前、大飢饉や疫病の流行があり、都では死者が累々と横たわっていた頃、義政は悠々と風流な生活にうつつを抜かしていました。『長禄寛正記』という書物に載っているのですが、時の後花園上皇は余りのことに義政に詩を遣わし、それをたしなめます。難しいのですが、皇位にあった人の心構えがよく出ていますので、一寸読んでみましょう。
 
 「残民争ひて首陽の薇(び)を採る。処々序を閉じ竹扉に鎖す。詩興の吟は酸たり春二月。満城の紅緑誰が為にか肥ゆ」。生き残った民は洛中のぜんまいを採って飢えをしのいでいる。あちらでもこちらでも門を閉じて竹の扉に鎖をかけている。詩を吟じて興ずるには、この春の二月はあまりに痛々しい。 都に満ちる花や緑は、いったい誰のためなのだ、という意味です。実は後花園上皇も相当の風流人であり、碩学の人でした。その上皇をしても、余りに度が過ぎると思われたのですから、相当に入れ込んでいたのでしょう。

 家族関係では、応仁の乱の最中、妻の日野富子や息子の義尚とは不和になり、弟の義視ともぎくしゃくしています。愛情を感じられるような家族関係を作れなかったようです。また負債を棒引きにする徳政令を13回も発令し、もちろんそれで一時的に救われた人もいるでしょうが、経済の混乱ももたらしました。将軍としての評価は視点によって異なるとは思いますが、概して高い評価をされることはなさそうです。

 ところが文化的な面では、相当に重大な功績を残しているのです。もちろん本人にはそのような自覚も抱負もなく、あくまでも結果として残しているのですが。彼の持っていた美意識が敷衍されて、つまり押し広げられて日本の伝統的美意識を育み、現代の和風文化へとつながってくるのですが、まあそれについてはこれから細かく勉強しましょう。

 それでは「東山文化」という呼称のもとになった、東山山荘から詳しく見てみましょう。既に北山文化の「北山」は学習しましたね。京都は盆地になっていて、南の出口以外は、三方を山に囲まれています。京都タワーに上って見回すと、それがよくわかりますね。この東山の麓に義政が隠居の住まいとして東山山荘を造営し始めたのは、応仁の乱が一応収まって数年後の1482年のこと。相当の費用がかかったことでしょう。守護大名は臨時の課税にはなかなか応じず、山城国の人夫を徴発して工事を進めています。そしてまだ未完成ながら、翌年には転居しているのですから、待ちきれなくてさぞかし気がはやっていたのでしょう。そして河原者の庭師や禅僧の指導の下に、自らこまごまと造園の指図をしています。諸寺から銘木や奇石を召し上げることもしばしばありました。

 後に銀閣と呼ばれる観音殿の造営が始まったのは、1489年のことでした。しかし翌年正月、義政は56歳で没してしまいます。つまり義政は完成した銀閣を見てはいません。金閣に倣って銀箔をおすつもりであったと言われることがありますが、史料的裏付けはありません。もっとも実際に銀箔をおしても、銀はすぐに錆びますから、銀色に輝くということはなかったでしょう。第一層は書院造風の住宅様式で、金閣の蔀戸にかわって障子であることを確認しましょう。第二層は花頭窓が特徴的な禅宗洋式の仏殿で、黒漆が塗られています。高欄という手摺は和様になっています。屋根も杮葺きの和様で、和洋折衷ならぬ和華折衷になっていることに注目してください。宋から渡来した異国風の禅宗が、次第に日本化してゆく過程を表していると理解することができます。

 話が戻ってしまいますが、「銀閣」の「閣」って何のことでしょう。訓読では「たかどの」と読むように、平屋しかなかった頃の二階建て以上の立派な住宅建築を意味しています。大臣や将官級の高位者に対して「閣下」というのは、直接名前を呼ぶのは失礼だからとして、その住居で呼んだことの名残ですね。あのね、これまで勉強してきた建築物で、二階建住居がありましたか。「五重塔がありました」。ああれはね確かに二階建て以上ですが、住宅ではないんですよ。そもそも五重塔は二階へは上らない構造になっているのが普通です。二階建て以上の住宅建築では、授業で勉強する物としては金閣が最初だったでしょう。おそらくほとんど注目されないのでしょうが、私は二階建ての建物であることに驚いているのです。

 話をもとに戻しましょう。東求堂は義政の持仏堂で1486年に建てられていますから、義政は生前に住んでいます。その中の同仁斎という四畳半の部屋は、初期書院造の典型とされています。「東求」の典拠は、『六祖壇経』という禅宗の経典の中に、「東方の人罪を造り、仏を念じて西方に生まれん事を求め、西方の人罪を造り、仏を念じて何れの国に生まれん事を求むるや」とあることに拠っています。浄土は東西の場所の問題ではないという禅問答なのです。

 書院造の特徴はたくさんありますが、建物の内部を襖障子や壁で仕切ることがまず挙げられるでしょう。寝殿造りが一種のオープンスぺイスだったこととの違いをまず確認しておきましょう。そして天井が張られ、畳が敷き詰められ、丸太の柱が四角い柱になります。このことはとても大切なんですよ。柱が丸かったら、襖や障子で仕切れないでしょう。柱が四角いから可能になったのです。そして四角い柱は、今日に見られるような台鉋が中国から伝えられたために、細工が可能になったのです。ただし当時は引いて削るのではなく、押して削っていました。見学に行っても、柱の形なんて誰も注目しないんですよね。でもね、こういうところを見逃さないようにしましょう。柱が四角いことと襖や障子とは、密接な関係があるんですよ。

 それから書院造の名前の如く、書院があることが大きな特徴ですね。書院とは作り付けの机のことで、「付書院」と呼ばれていました。鎌倉時代には既に「出文机」(だしふづくえ)という名前で現れています。書院の前には外の光を採り入れるための明り障子があります。書院の左には床がしつらえられています。後に床の間となるのですが、この段階ではまだそこまでは発展していませんね。違い棚は本来は書棚だったのでしょう。書院と言い、違い棚と言い、同仁斎は義政の書斎だったわけです。義政は付書院の前に坐り、明障子から漏れてくる光で書物を読んだのでしょうね。そんな想像をしながら眺めてみて下さい。

 皆さんのお宅に床の間のある家はどのくらいありますか。ああ、結構少ないですね。和室がないお宅がありますか。さすがにそれはいませんね。授業で生徒にアンケート調査すると、床の間のある家はもっと少ないですよ。皆さんはほとんどが高齢者ですから、現代っ子よりは多いようですね。えっ、私の家ですか。もちろん床の間があるような立派な家に住みたいのですが、とてもとてもそんな余裕はありません。

 銀沙灘と向月台については、月光を反射させて銀閣を浮かび上がられるものと、もっともらしく説明されていますが、もともとは江戸初期に埋まってしまっていた池をさらった時、池を埋めていた花崗岩の風化した砂を積み上げたもので、義政の創意ではありません。『都名所図会』という江戸中期の精密なスケッチをここに持ってきていますが、それを見ると、向月台は今よりはるかに低いものでした。これは幕末のスケッチである『花洛名勝図会』なのですが、そのスケッチではかなり高く盛り上げられています。江戸時代の中期から後期にかけて、向月台を高く盛り上げるようになったようです。義政の意図ではなかったでしょうが、結果的には緑の松や幽玄な趣の銀閣と調和して、美しい色彩効果を生んでいますね。月と銀閣が結びついたのは、「わがいほは月待山のふもとにて傾く月の影をしぞ思ふ」という義政の和歌によるものでしょう。そんなわけで、月夜の銀閣を見てみたいのですが、まだそのチャンスがありません。

 話が長くなってしまいますが、もう一つ大切なことをお話しします。この銀閣や東求堂とその庭園には、現在の和風建築の起源が現れているということなのです。畳が敷き詰められた部屋、襖と障子、床の間と棚、砂・石・池・植栽・周囲の景色である借景など、和風建築の特色がそろっているのです。義政は政治家としては感心できませんが、日本文化の原点の一つを生み出したという点では、大きな貢献をしていると言えましょう。

 東山文化は枯淡とか幽玄とか侘び・さびという美意識を特徴としていると言われます。もちろんそれでよいと思います。しかし金閣に代表される北山文化と比較して、その枯淡・幽玄の美意識が義政の頃に育まれてきたと理解することには、私は賛同できません。私の現在のライフワークは中世の和歌の勉強ですが、『新古今集』などを読んでいると、既にその様なことの萌芽を見出すことができます。よく知られている和歌に「秋の夕暮」を歌った「三夕の歌」というものがあります。「心なき身にもあはれは知られけり鴫たつ沢の秋の夕暮」や「見わたせば花ももみぢもなかりけり浦の苫家の秋の夕暮」といううたは御存知でしょう。このような美意識と言いましょうか、価値観は、禅宗や鎌倉武士の倫理的価値観を背景として、徐々に育まれてきたものと思っています。

 東山山荘は、義政没後その遺命により禅宗寺院に改められ、慈照寺と呼ばれました。その後戦火で荒廃し、銀閣と東求堂を残すのみとなり、庭園も荒れ果てていたのですが、江戸時代の寛永期に現在見るように復興されたのです。現在の「銀閣寺」は義政の頃の東山山荘そのままではありませんが、銀閣と東求堂はほぼそのまま伝えられています。それにしてもこの二つの建物はよくもまあ戦火の中で残ったものですね。

 さて次は何の話がいいかなあ。庭園について見てみましょう。庭園をつくることは、平安時代の寝殿造の庭にも見られましたね。池を掘り、浜には石を敷き詰めて浜を作り、築山のような中の島を築き、季節ごとの美しい樹木や花を植えたものでした。絵画に喩えるならば、大和絵のような色彩豊かな庭だったことでしょう。しかし鎌倉時代になると、有力武士の館の庭には、そのような庭はあまり見られません。室町時代にかけてもっぱら禅僧の指導により、禅宗寺院に奥深い深山の景色を縮めて採り入れたような庭が造られたようです。平安時代の庭が大和絵のようなと言うならば、水墨画のような庭とでも言いましょうか。

 このような庭の代表的なものとして、京都の嵐山に近い天竜寺の庭園があります。図説資料集に載っていますから一寸見てみましょう。天竜寺は後醍醐天皇や足利尊氏から篤く信頼されていた夢窓疎石が、尊氏の命により後醍醐天皇の冥福を祈るために創建した寺です。尊氏はさんざん後醍醐天皇に反逆したのに、どこか後ろめたかったのでしょうかね。その庭園も夢窓疎石の作で、かれは苔寺として有名な西芳寺の庭園も作っています。

 もう一つよく知られているのは、金閣寺の近くにある竜安寺の石庭ですね。幅 25m、奥行 10mの幾何学的空間に白砂を敷き詰め、大小15の石をが配置されています。作者は不明です。「虎の子渡しの庭」とか、どこから見ても必ずどこかの1つの石が見えないように配置されているとか、観光案内書には説明されていますが、こういうことは後の付会の説であって、当初からそのような意図があったことを示す史料があるわけではありません。私個人としては、全く信用していません。そういう説明でもあれば、観光客がじっくりと見てくれるということから、後にこじつけられたことなのでしょう。ただ石の配置や、据える石の向きには細心の注意が払われ、最も良いとされる位置と向きとが選ばれましたから、そのような理解が生まれたのでしょう。

 苔以外の一切の植物も、一滴の水も退けた究極の象徴的表現です。塀で仕切られた四角い空間は、いわば水墨画の紙面です。塀は一種の額縁のような役目を果たしています。白い砂は水墨画の余白でもあります。その中に黒々といくつかの石がバランス良く配置されています。まさに立体的水墨画と言ったところですね。究極の省略の中に無限の充満を感じ取れるか。庭を前にしながら静に坐り、何回も思い返しつつ思索したことでした。

 もう一つ有名なのは、大徳寺大仙院の庭園ですね。庭園は方丈の四方に展開するように作られていて、深山幽谷から流れ出た水が、次第に大河となり、海に至る様子が象徴的に表現されています。この庭は天竜寺の庭園のように、池を巡って観賞するというものではありません。禅宗では自然と自己が一体となった境地の中で、耳に聞こえない声を内なる耳で聞き、見えないものを内なる眼で見ようとするものです。そのような修行の場の背景として作られていると理解しましょう。象徴的な表現であるということは、禅宗の影響でしょうね。禅の悟りはほらこの通りと手にとって具体的に見せることはできないものです。かといってあやふやなものでもなし。象徴的に表現するしか方法はありません。悟りの境地は、詩偈と呼ばれる詩によって象徴的に表現されるものでした。

 竜安寺の石庭や大仙院の庭園には、水、つまり遣り水の流れや池がありません。そのように水を一切使わない庭を、一般には「枯山水」と呼ぶとされています。しかし枯山水と言う言葉自体は平安時代の庭造りの指南書にも見えていて、本当のところはどのような意味なのかよくわかりません。中国から伝えられたということから「唐山水」とが本来であったという説もあります。

 ここで一寸遊んでみましょうか。皆さんに庭師になってもらいましょう。ノートの一ページを、皆さんの家の庭を作る予定地と思って下さい。そしてそこに皆さんのあなたの理想とする庭の見取り図を書いてみましょう。えーと、Aさん、恐れ入りますが前に出て来て、黒板に書いてみて下さい。個人の家の庭ですから、それ程広いものではない方がいいでしょう。他の皆さんは各自ノートに書いてみましょう。さあ、始めて下さい。えっ、マンションだから庭がないって?。まああくまでも遊びですから、そんな現実的に考えないで・・・・。・・・・・・さあそろそろできましたね。Aさんに説明してもらいましょうか。「ここに石をいくつか置いて、その前に池を掘ります。これは松の木ね。紅葉も植えました。手前は芝生にして、普段は花を植え替えられる花壇も用意しました。」。はい、いいでしょう。石や池を置くなんて、室町時代の庭園と同じではありませんか。誰か定規やコンパスを使って設計するような、幾何学的な庭にした人はいませんか。あるいは池を置いた人で、真四角とか真丸の池にした人はいませんか。いたら手を上げて下さい。誰もいませんね。どーれ、池も自然のままの定規では書かないような形をしていたでしょう。そうなんですよ。日本人はヴェルサイユ来の王宮の庭のような、幾何学的設計の庭を作らないのです。もちろんそのような庭もなかなか素敵ですよ。でもね、眺めていてどちらが心が落ち着くかと言えば、枯山水はこの現代に無理としても、自然を縮小したような、自然の一部を切り取って採り入れたような庭の方が好きなんでする無意識の中に、私達の美意識は室町文化の影響を受けているのでしょう。この実験を外国人にもやってもらうと、きっと面白い結果になるのでしょう。海外旅行で西洋の庭を見ながら、つくづく日本人の美意識を再確認したものでした。実は私は40年前に、イスラエルで日本庭園を作るお手伝いをしたことがあります。未完成のまま帰国してしまったのでその後の様子は見ていませんが、人から聞いた話ですが、なかなか評判で、見に来る人が多いそうです。ただ乾燥気候なので、苔むした雰囲気にはほど遠いことでしょうね。水の少ないところなので、池には野生のうさぎや何かわからない小形の哺乳類が、いつも水を飲みに来ていました。いつか見に行ってみたいと思っています。

 今日は時間がなくなりましたのでこれくらいにしておきます。東山文化はなかなか中身が濃いので、もう一回勉強します。

 いずれそう遠くない時期に続きを「東山文化 2」として公表するつもりです。しばらく時間を下さい。


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