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私の授業「東山文化」2

2017-03-20 19:03:08 | 私の授業
前回は東山山荘を中心に、書院造や庭園などについてお話ししました。今回はそれ以外の東山文化についてお話ししましょう。

 まず最初に連歌についてお話しします。連歌とは、和歌から発展した文芸の一つで、一人が和歌の上の句を詠むと、別の人がその内容を承けて下の句を詠みます。一つの短歌を二人で即興的に詠み、上句と下句で完結する短い連歌もありますが、延々と続けてゆく場合は「鎖連歌」とも呼ばれました。一応東山文化の中で触れられていますが、鎌倉時代には始まっていたことは、建武の新政を風刺した「二条河原の落書」にも「京鎌倉ヲコキマセテ 一座ソロハヌエセ連歌 在々所々ノ歌連歌 点者ニナラヌ人ソナキ」と書かれていたことでもわかりますね。「在々所々」というのですから、至るところで流行っていたようです。

 鎖連歌の場合は、最初の一句を「発句」、次の句を「脇句」と言い、最後の句を「挙句」と言います。「挙句の果てに」なんて言うその「挙句」ですね。最初の人が発句を詠むと、その内容を承けて次の人が脇句を付けます。すると三番目の人が脇句の内容をさらに発展させて第三句を詠みますが、内容は次第に発句から離れて変化してゆきます。ですから全体に共通する主題があるわけではありません。それどころか同じような内容や言い回しが重なることを意図して避ける規則もあるくらいですから、その変化の妙が見せどころでもあるのです。この規則を式目と言うのですが、なかなか面倒なものです。ただ基本的な考え方ははっきりしていて、同じような言い回しは認められません。何句か隔てないと使ってはいけないとか、全体で何回しか使ってはいけないという言葉もあります。要するに同じネタは使ってはいけないのです。

 前の人の句を「前句」と言うのですが、前句を承けて次の句をその場で詠むのですから、即興性が要求されます。また古典和歌に対する教養を踏まえて詠まれることが多く、相当の古典的教養が要求されました。前の人の言葉を承けるという点では、尻取り遊びと同じ発想ですね。普通は数人で行われ、一座を仕切る亭主と、招かれた主賓と、書記係の執筆(しゅひつ)がいるのが普通です。部屋の正面には天神の像を掲げ、茶を飲みながら、ゲーム感覚で楽しく詠みあうのです。

 連歌の規則は初めは自然発生的に作られたようですが、室町時代の初期の応安五年、西暦1372年に、当代きっての文化人であった関白二条良基が、それまでに作られていた連歌の規則を基にして『応安新式』を著して整えました。「応安年間に整えられた連歌の新しい式目」という意味です。以後はこれが連歌の式目の基準となり、それに精通した歌人が連歌師として各地を巡回しながら連歌の普及に努めたわけです。

 そのような連歌師の一人である宗祇が、弟子の肖柏と宗長の三人で、後鳥羽上皇を祀る水無瀬宮に奉納するために詠んだのが、史料集に載っている『水無瀬三吟百韻』です。後鳥羽上皇と言えば、歌人としても優れ、勅撰和歌集を編纂させていましたね。何でしたっけ。覚えていますか。「新古今和歌集です」。そうですね。後鳥羽上皇は承久の乱で隠岐に流され、無念のうちに崩御されました。恨みをのんで亡くなった人は怨霊となって祟ると理解されていましたから、応仁の乱による都の荒廃は、後鳥羽上皇の祟りであるという理解もあったわけです。そこで崩御された1239年の250年後の長享2(1488)年、250回忌の法要に際して慰霊のために奉納されたものなのです。またどうして水無瀬宮に奉納されたのでしょうか。実は水無瀬には後鳥羽上皇の離宮があり、後鳥羽上皇とは縁の深い場所だったのです。

 話は逸れますが、文化史の勉強ではこのような背景とともに理解することが大切なんですね。ただ作者と作品名を表のようにして暗記させようとするから面白くなくなるのです。

 後鳥羽上皇の詠まれた歌に、水無瀬で詠んだものがあります。「見渡せば山本かすむ水無瀬川夕は秋となに思ひけむ」というのですが、意味がわかりますか。ちょっと黒板に書きましょう。この歌の季節はいつでしょう。「秋ですか」。まあ「秋」という言葉がありますから、そう思うのも無理はないのですが、実は春なのです。当時は、春になったしるしは霞が立つこととであり、また春は東からやって来ると理解されていました。そして秋は西に去ってゆくとも理解されていました。そのような共通理解を前提として、『枕草子』の冒頭には、「春はあけぼの」と「秋は夕暮れ」となっているわけです。ですから本来ならば東の空の朝霞こそ春らしいと言うはずなのですが、後鳥羽上皇は春の夕暮の霞も、朝の霞に劣らぬほどに美しいものと感動し、「夕暮が美しいのは秋だと思い込んでいたが、春の夕暮もそれに劣らぬほどに美しいではないか」と、新しい美を発見したことを詠んでいるのです。

 宗祇はこのことを踏まえて、発句を詠んでいます。史料集で発句を読んでみましょう。「雪ながら山本かすむ夕べかな」。峰には雪が残り、山の麓には霞がたなびいている、という意味です。第二句は「行く水とほく梅にほふさと」となっていますが、「行く水」は後鳥羽上皇の歌の「水無瀬川」を意識しているのでしょうね。(水無瀬の)川の流れは梅の花の香る里を流れて続いている、という意味でしょう。そして第三句は「川風に一むら柳春見えて」と続きます。岸の青柳の糸が川風に靡き、春が見える、というのです。春は色に喩えれば青色でしたから、ほら、「青春」という言葉がありますよね。青柳の糸の色に春の色が感じ取れるというのです。こうやって延々と百句が続いてゆきます。

 宗祇は応仁の乱の後、宗祇は全国各地を漂泊しながら連歌の指導をします。宗祇が歴訪した国が図説資料集の○○ページに載っていますから開けてみて下さい。東北と四国を除いて、ほぼ全国隈無く歩いていますね。そのように歌を詠みながら漂泊の旅に過ごし、旅の途中で亡くなることに憧れたのが、松尾芭蕉でした。彼は『奥の細道』で「古人も多く旅に死せるあり」と記しています。芭蕉はそのような宗祇の生き方に憧れ、たのでした。宗祇の他には同じような理由で西行にも憧れていますね。「漂泊の思ひやまず・・・・とるもの手につかず」、芭蕉は旅に出たのでした。和歌における西行、連歌における宗祇、俳諧における芭蕉の三人には、そのような共通点があるのです。

 さてその宗祇が編纂した連歌集に『新撰菟玖波集』があります。「新撰」は意味がわかりますが、「菟玖波」(つくば)とはどんな意味でしょう。図説資料集の室町文化の表には、他に二条良基の『菟玖波集』や山崎宗鑑の『犬筑波集』がありますね。共通しているのは「つくば」です。「つくば」と聞けば、皆さんは何を連想しますか。「筑波山でしょうかね」。そう、正解です。「つくば」とは「筑波山」のことで、実は連歌を象徴しているのです。それは連歌の起源が日本武尊が筑波山で詠んだ歌であったという理解に拠っているのです。

 『古事記』には日本武尊が東征の途中、筑波山麓で「新治(にいはり)筑波を過ぎて幾夜か寝(い)ねつる」と詠むと、それに御火焼翁(みひたきのおきな)が「かがなべて 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を」と歌で返したのですが、これが連歌の起源と理解され、連歌は「筑波の道」と呼ばれていたのです。

 話は少し逸れますが、連歌を「筑波の道」と言うのに対して、和歌を「敷島の道」とも呼びます。「敷島の」は「大和」にかかる枕詞ですから、本来は「敷島の大和の歌の道」という意味なのでしょう。これは『千載集』の序文には見えていますから、平安時代の末期から鎌倉初期にかけて現れた表現のようです。ほかに「葦原の道」と言うこともあります。「葦原」は「豊葦原の瑞穂の国」という我が国の古い国号を省略したものですから、中国の詩に対して、これも「やまとの歌」という意味なのでしょう。

 宗祇の高尚な連歌は「正風連歌」と呼ばれ、相当な古典的教養が基礎にありました。またあまりにも規則が煩雑になると、それに対する反発もあり、もっと庶民的で、滑稽と機知を効かせた堅苦しくない連歌も流行りました。そのような連歌を俳諧連歌と言います。「俳諧」とは現代の俳句のことではなく、滑稽を意味する言葉でした。室町文化の特色の一つは、その庶民的なところにあるのですが、高尚な宗祇流の連歌よりも、俳諧連歌の方が庶民には受け入れやすかったはずです。ただ卑俗と評価されたために、作品が記録としては残りにくいものでした。俳諧連歌はそのような点で、室町文化の特色をよく表しているのです。

 そのような俳諧連歌を確立したのが、山崎宗鑑という連歌師でした。彼自身は将軍足利義尚に仕えた教養ある人でしたが、生まれ持った性格が正風連歌には向かなかったのでしょう。どれだけユーモアのある人物かは、その辞世によく現れています。「宗鑑は いづくへと 人の問ふならば ちと用がありて あの世へといへ」というのですから、その滑稽さは徹底しています。

 彼はおそらくそれまで捨てて顧みられなかった俳諧連歌を集め、『犬筑波集』を編纂しました。「犬」とは劣っていることや役に立たないこと意味する俗語で、植物の名前にはよく見られますね。蓼に対して犬蓼、柘植に対して犬柘植などはよく知られています。ここでは卑俗な連歌という意味で使われているわけです。

 どれだけ滑稽であるか、史料集で実際に読んでみましょう。まず「きりたくもあり、切りたくもなし」という下句が提示され、それに対してみな面白い上句を付けよと問題が出されるわけです。そしてその場にいる人たちが即興で詠むのですが、「盗人をとらへてみれば我が子なり」と付けたわけですね。泥棒は処刑したくても、我が子ではそれもできない、というわけです。先に上句が出され、後で下句を付けることもあります。

 もう一つもっと卑猥な例を挙げてみましょう。皆さんはもうお年ですから、笑い飛ばしてください。黒板に書いてみます。「霞の衣すそは濡れけり」に対して、「佐保姫の春立ちながら尿(しと)をして」。平安時代以来、春の立つ徴は春霞と理解され、それは春の女神である佐保姫の衣に象徴されていました。それを、春が立ち、その女神の佐保姫が立ったまま小便をしたものだから、霞の衣が濡れてしまった、というのです。当時は野外では女性が立ったまま用をたすことが珍しくなかったのでしょう。さすがにこんな連歌は、高校では教えられませんね。まあとにかく、連歌の庶民性を感じ取っていただければそれでよいのです。

 さて連歌の次は絵画にしましょうか。室町時代の絵画と言えば、水墨画が思い浮かびますね。南北朝期には可翁という絵師が活躍し、北山文化の頃には明兆・如拙・周文らが活躍していますから、水墨画は東山文化だけのものではないのですが、日本の水墨画を大成した雪舟は東山文化の頃の人ですから、ここで取り上げておきましょう。

 水墨画は中国では宋代に盛んになり、禅宗とともに日本に伝えられました。今でこそ日本的絵画と理解されていますが、当時は禅宗は舶来の宗教であり、水墨画も舶来の絵画でした。水墨画の絵師はみな禅宗の僧侶でもあったのです。可翁や周文の作品は、図説資料集で確認しましょう。私は絵画についてはあまり詳しくなく、どのように評価してよいのかわかりません。それでも素人なりに感じるのは、彼らの絵は、線が生き生きしていますね。可翁の寒山図の人物を御覧下さい。線に迷いがありませんね。一気呵成に引いています。塗り重ねるということがありません。一筆で勝負しています。このあたりに禅宗に通ずるものを感じてしまうのです。これはまあ私の主観的な感想ですが。教義のうえで禅宗と関係があるわけではないでしょうが、禅宗を中核とする渡来宋文化の一つとして受け入れられたのでしょう。また色彩を限りなく少なくし、背景を大胆に省略して象徴的に表現することは、日本の美意識にかなうところがあったのでしょうね。限りなく色が少ないことに美しさを感じ取る感覚は、竜安寺の石庭にも通じるものでしょう。皇居で天皇陛下が外国の要人と会談される部屋を映像で見たことがありますが、究極の簡素な作りでした。一切の装飾はなく、模様らしきものは障子の桟くらいのもの。きらびやかなものも鮮やかな色も一切ありません。金銀で豪華に装飾された応接間を見慣れている王侯貴族にとっては、衝撃的なしつらいの部屋でしょうね。私達日本人は、理屈抜きに墨一色の美しさを理解する美意識を、室町時代以来受け継いでいるのです。

 次に如拙の瓢鮎図を見てみましょう。これは足利義持の命により如拙が描き、31人の禅僧が賛を書き連ねています。一般には瓢箪でどのようにして鮎(なまず)を捕らえるかという禅問答を表したものということになっていますが、そのような禅問答を記録した史料があるわけではないため、様々に解釈されています。つるつるの瓢箪でぬめぬめした鮎を捕らえられるはずはありません。要するに捕らえどころのない絵なのです。有名な評論家の小林秀雄も、見れば見るほど変てこな絵だと評しています。私たちにもわからなくて当然のことでしょう。

 ところで「鮎」は日本では現在は「あゆ」のことですが、中国では「なまず」のことです。「鯰」という字は、日本で作られた国字で、アユは日本では「年魚」と書かれていました。

 さてそろそろ日本の水墨画を大成した雪舟に登場してもらいましょう。彼は幼くして京都の相国寺で学びましたが、中国地方の有力守護大名である大内氏に招かれて山口に下ります。そして応仁の乱が始まる1467年に、遣明船に便乗して明に渡りました。当時は細川氏と大内氏が遣明船の主導権を争っている頃で、彼の渡航は大内氏の庇護によるものでした。そして1469年に帰国し、主に中国地方で創作活動を行っています。

 雪舟と言えば、涙で鼠の絵を描いて誉められた逸話が有名ですね。岡山県総社市の宝福寺という寺でのお話しです。小坊主の雪舟は寺の作務や修行はそっちのけで、絵ばかり描いていたため、住職がある朝、本堂の柱に縛りつけてしまうのですが、夕方になって様子を見ると、少年の足もとで一匹の鼠が動き回っているように見えました。それで追い払おうとしたのですが、鼠は動きません。よくよく見ると、こぼした涙で足の指で床に描いたものでした。住職は余程に驚いて、以後は絵を描くことを諫めなかった、という話です。

 この話は、江戸時代の初期に、狩野永納という画家が著わした『本朝画史』という書物に初めて記されているもので、どこまで本当かはわかりません。学者はこのような話は作り事だと言うでしょうが、それを証明できるわけでもありません。しかし江戸時代の初期には、そのような話が狩野派に伝えられていたことまでは認めなくてはなりません。まあ話としては面白いので、「・・・・と伝えられた」という程度にしておきましょう。

 雪舟の作品はで図説資料集によく載っているのは、「四季山水図巻」「秋冬山水図」「天橋立図」などでしょう。
もちろん皆国宝ですが、雪舟の作品は何と6点が国宝になっています。素晴らしいことですね。「四季山水図巻」は、現在の私と同じ67歳の時の作で、長さが約16mもあるため、「山水長巻」とも呼ばれています。現在の67歳はまだまだ元気な人も多いでしょうが、当時の67歳はもう後期高齢者のようなものです。水墨画二かけるなみなみならないエネルギー感じ取ってほしいものです。水墨画とはいいますが、淡く色づけされています。大内氏から毛利氏へ伝えられ、現在は山口市の毛利博物館に保管されていますが、大内氏の庇護の本で活動していますから、山口にあるということに意味がありますね。

 1950年、ポーランドのワルシャワで、ソ連を中心とした東側諸国が、世界平和会議という組織を立ち上げたことがあります。もちろん西側諸国は参加していません。1951年、そこで世界平和に貢献した文化人として、日本からは雪舟が選ばれたのです。雪舟以外では、アメリカのフランクリン、イギリスのバーナード・ショー、オランダのレンブラント、オーストリアのモーツアルト、ドイツのハイネ、ロシアのドストエフスキーらが選ばれました。それを記念して、ルーマニアやソ連では、彼等の肖像切手が発行されましたから、雪舟は外国切手に描かれた最初の日本人というわけです。クイズにされそうなことですが、なぜ雪舟と世界平和が結び付くのか、よく理解できませんね。

 次は狩野派についてお話ししましょう。狩野派は、狩野正信・元信父子を祖とする日本画の流派で、室町時代中期から江戸時代末期に至るまでの約400年にわたって、日本画の主流を占めていました。室町幕府の御用絵師となり、信長や秀吉にも仕え、また江戸幕府の御用絵師ともなり、常に権力者と結びついて、画壇の中心を占めていました。それがために祖法を忠実に継承することには優れていましたが、何人かの例外を除いて、革新的な画風はあまり現れませんでした。そのような点で批判されることもありますが、近世の日本美術に与えた影響は絶大なものがあります。

 初代の狩野正信については、不明な点が多いのですが、足利義政の東山山荘で描いたことがわかっています。代表作は図説にも載っている「周茂叔愛蓮図」です。余白のとり方や、木の幹の描き方に、水墨画を基礎としていることがよく表れていますね。

 狩野正信の子元信は、父正信がよくした漢画(唐絵)風の水墨画に、日本古来の大和絵の画風を採り入れ、狩野派の基礎を確立しました。大和絵というのは、中国風の絵画に対する和風絵画の総称で、色づかいが豊かな特徴があります。鎌倉時代に盛んになった絵巻物の画風を思い浮かべればよいでしょう。漢画風の水墨画には、色が少ない分、線描に特色があります。水墨画と大和絵の融合と言われてもピンと来ないでしょうが、こうやって見るとよくわかるのです。どうするかと言うと、図説資料集に必ず載る正信のの作品に、大徳寺大仙院の花鳥図があるのですが、これをモノクロコピーしてみるのです。要するに大和絵の特色である色づかいを除いてしまうのです。そうするとまさに骨格のしっかりした線描による水墨画に見えるでしょう。また水墨画ではえがききれなかったような細い線で、細部まできちんと描かれているのがわかります。松の葉や牡丹の花・葉の描写に、それを見ることができるでしょう。こうして見ると、両者が融合したということがよくわかりますね。もっともこんなことをしているのは、全国でも私だけかも知れません。

 また元信は足利義政に仕えた御用絵師でもあったことから、幕府や諸大名の注文を一手に引き受け、狩野派の一門を率いてそれに応えました。また扇に目出度い絵を描いて、大量に販売もしています。このような需要に応えるためには、個性的な芸術家であるよりも、師の画風を忠実に再現・模倣のできる弟子・一門の養成が不可欠でした。狩野派は、絵師の集団というよりは、職人集団という面も持っていたのです。もっともそのような没個性的な狩野派にあって、狩野永徳のような天才的絵師も出現することにはなります。ともかく、のちのち狩野派が江戸幕府の御用絵師となって、良くも悪くもその地位を継承してゆく基礎は、この元信に拠るところが大きいのです。

 さてお次は何にしましょうか。室町文化の特徴の一つに、庶民性ということがあります。これは東山文化に限らず、室町文化全体に言えることなのですが、ここで一寸触れておきましょう。室町時代には庶民の社会的地位がそれまでよりも格段に向上しました。その背景となったのは、惣村の発展・商工業の発展・交通の発達などが考えられます。その結果、様々な文化に庶民的な要素が見られるようになります。例えば、鎌倉時代以来のことですが、新しい仏教が庶民に受け容れられたこと、喫茶の風習が広まり、「茶寄り合い」と称する庶民の交流の場が作られたこと、連歌や狂言・猿楽・華やかな風流踊りなどが庶民に愛好されたこと、庶民が主人公となる文学・芸能が流行ったことなどを上げることができるでしょう。

 そのような庶民的文化の一例として、ここでは御伽草子を取り上げてみましょう。皆さん、そもそも「御伽」とはどんな意味でしょうか。「御伽草子」という言葉ではなく、「御伽話」という言葉はわかりますよね。何か子供のためのお話しというような感じでしょうかね。「御」は丁寧語ですから省くとして、「伽」とは、話し相手になって相手を慰めたりすることですが、寝室での相手をするという色っぽい意味もあります。「草子」とは糸で閉じた冊子のことですから、読んで聞かせるためのお話しの本という意味になるでしょう。

 ただ室町時代から近世初期にかけての「御伽」は、必ずしも子供を対象とするものではありませんでした。主君の側近として仕え、政治や軍事の参謀的相談役となったり、世間話の相手をつとめたり、講釈をするなど、幅広い活動をする人々は、「御伽衆」と呼ばれていました。中には智恵のある機転の利く者もいて、秀吉に仕えた曾呂利新左衛門などはよく知られていますね。彼等の講釈話を冊子にまとめたものが御伽草子で、単なる子供相手のお話しだけとは限らないのです。要するに当時の「御伽」には、現在私達が知っている「御伽」より幅広いものであったことを確認しておきましょう。

 さて皆さん、御伽話ならわかりますね。どんなお話を知っていますか。「浦島太郎」「金太郎」「桃太郎」。太郎さんが並びましたね。もう一人何とか太郎がいるでしょう。「物ぐさ太郎ですかね」。よくご存知でしたね。他には?。「舌切り雀」「鼠の嫁入り」「かちかち山」「猿蟹合戦」。ずいぶん上がりましたね。これを今の生徒に聞けば、知らないというのもあるでしょうね。今は上がりませんでしたが、「鉢かづき」「酒呑童子」「羅生門」「俵藤太物語」「鼠の草子」「鶴の草子」「瓜姫物語」など、言われれれば思い起こすものもあるでしょう。「御伽」の概念は、子供を対象とするものとは限らないのですが、御伽話とは、大人が子供に読んで聞かせる童話のようなものが多かったことは確かですね。室町時代の御伽草子には、絵入りの写本や絵巻物が多く、そのような物は身分の高い経済力のある階層に流布したのでしょう。読んで聞かせる時にはねまるで紙芝居のように絵解きをしながら見せたのでしょうね。

 しかし当時の御伽草子と現代の御伽話は、微妙に異なっているのです。現代の「御伽話」は、明治期の児童文学の一つで、文学結社である硯友社のメンバーであった巖谷小波(いわやさざなみ)らによってリメイクされたお話しに端を発しています。彼は自身が編集する博文館発行の雑誌「少年世界」や「幼年世界」、「少女世界」、「幼年画報」などに作品を発表したり、さらに「日本昔噺」、「日本お伽噺」、「世界お伽噺」などを編集して、児童文学の分野を確立しました。それらのお話しの素材は、室町時代の御伽草子はもちろんのこと、民話や説話や海外の児童文学などまで幅広く及んでいます。しかも教育的な配慮から、子供の理解には向かない過激な内容を教育的に改めた部分がかなりあり、本来の御伽草子と比べてみると、きっと驚くことでしょう。

 一つ例を上げてみましょうか。例えば「一寸法師」の話は次のようになっています。摂津国に子供のいない老夫婦がいましたが、住吉明神に祈願して、小さな男の子を授かりました。ところが12~13歳になっても一寸以上に成長しないので、老夫婦はどこかに棄ててしまおうと相談をするのです。ねっ、かなり違うでしょ。一寸法師はそれを立ち聞きしてしまい、親にまでそのように思われるとは情けないと、都へ家出をするのです。針の刀やお椀の舟や箸の櫂は同じです。そして都に上り、三条の宰相に仕えるのですが、13歳の姫君を見初め、何としても自分の女房にするために、計略を巡らして姫君を米泥棒に仕立て上げ、怒った継母が姫を追放してしまうように仕向けるのです。こうしてまんまと姫を連れ出したのですが、舟は鬼ヶ島に漂着してしまいます。そしてお決まりの鬼との争いがあり、鬼の忘れた打ち出の小槌振ると、たちまちにして背丈が伸び、内裏に召し出されて堀河の少将と呼ばれ、姫と共に幸せに暮らした、ということになっています。御伽話では、姫のお供をして清水寺に参詣の帰途、鬼が現れることになっていますよね。粗筋は御伽話と同じなのですが、微妙に異なっています。現代の御伽話の一寸法師は、小さくても素直で明るい良い子なのですが、御伽草子の一寸法師は、姫を手に入れるためには、姫を窃盗犯にしてしまう悪知恵を働かせる。まあこの方がいかにも人間臭くて自然なのですが、少なくとも道徳的なお話にはなっていません。

 いかがですか。もし「御伽草子」を直接読んでみたいと思う人は、岩波文庫に『御伽草子』上下がありますから、お読み下さい。その他にも面白い話はたくさんあるのですが、ここでは時間がないので、それぞれでお願いします。

 ただ確認しておきたいことは、多くの御伽草子に共通しているのですが、庶民が主人公であることが多く、そこに室町文化の庶民性を感じ取ることができることです。『源氏物語』はあくまで貴族社会のお話しでしたから、その様な点でいかにも室町時代らしい文学なのです。

 さてさて今日は長話をしてしまいましたね。まだまだお話しすべきことはあるのですが、ここまでにしておきます。それでも前回と今日の話を振り返ってみると、室町文化、わけても東山文化は、日本人の伝統的美意識を形作るのに大きな役割を果たしていることがわかりますね。現在、私達が「和風」と感じているもののかなりの部分が、この頃に生まれているのです。

 畳敷き部屋には床の間があり、障子で仕切られています。床の間には花が生けられ、水墨画の掛け軸が掛けられています。縁から外を眺めれば、石や木を配した落ち着いた庭があり、落ち着いてお茶を飲んでいる。まあ床の間もない我が家では無理な話ですが、和風の旅館に宿泊すれば、当たり前の風景です。日本人は現代でもこのような和風の空間にいると、心が落ち着くのです。金閣は見るのにはよいでしょうが、毎日生活するとなると、落ち着かないでしょうね。地味でも銀閣の方がよいという現代人は多いことでしょう。今日、お家に帰ったら、和室に寝転がって、「おお、室町文化の名残よ!」と言ってみて下さい。普段は意識しませんが、私達は確実に祖先の積み重ねた歴史の上に生活しているのです。
 
 東山文化をどのようにまとめましょうか。そうですね、今もお話ししましたけれど、いわゆる「和風」の起原となったものが多いこと、そして貴族や武士の文化だけでなく、庶民の文化が発達したこと、商品流通の発達や応仁の乱によって文化人が地方に下ったことなどを背景として、都から地方へ文化が広まったこと等を上げておきましょう。
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連歌のについて詳しく教えて頂き感謝 (自閑)
2017-03-22 04:47:05
連歌について、詳しく教えて頂き感謝致します。
私は、新古今と俳句を学んでいますが、それだけで手一杯で、中間の連歌まで手が回らなかったです。
しかし、彼等が残した新古今の解説本はみな読んでおります。
宗祇、宗純、宗鑑、宗因と皆が宗の字が付くのは、師弟関係かな?とか思っております。
毎回楽しみに拝読しております。
拙句
人はみなひょうたん鯰春の川

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