うたことば歳時記

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七夕の竹飾り

2017-07-05 20:43:49 | 年中行事・節気・暦
 七夕には竹の飾りが欠かせません。しかしそもそもなぜ竹を用いるのでしょうか。ネット上にはさまざまな解説がありました。曰く、竹は冬の寒さにも負けず、真っ直ぐ育つ生命力が備わっていることから、昔から神聖な力が宿っていると信じられていたから。また、竹には空洞あり、そこには神が宿ると信じられていたから。笹の葉には強力な殺菌力があるので、笹や竹には魔除けの力があると考えられていたから。笹竹は天の神様が依りつくところ(依り代)とされていたから。また、笹の葉は揺れると「さらさら」という音がするが、この音が神や祖先が宿る依代とされていたからなど、よくもまあ根拠もなしに書き散らすものだと呆れてしまいます。確かに竹は枯れることがなく冬も青々と茂っているためか、しばしば神事などに用いられてきました。しかしそれだけでは七夕に用いられる理由にはなりません。空洞に神が宿るというのは、竹取物語からの連想でしょう。殺菌力云々に至っては、もう呆れる以外の何物でもありません。

このような説を堂々と説いている人たちは、何を根拠に書いているのでしょうか。誰一人として史料的根拠を示している人はいません。どれもこれも「・・・・と伝えられています」「・・・・と言われています」というだけなのです。伝えられているというならば、どこにどのように伝えられているのか、その根拠さえも示していません。「伝えられている」と書く以上、何処かでそれが伝えられていることを確認した上でなければそのようには書けないはずですが、本当に確認しているのでしょうか。はなはだ怪しいものです。伝言ゲームではないのですから、「伝えられている」「言われている」ことを示す根拠を見せてほしいものです。それができないというならば、いい加減な情報を垂れ流しにしないでほしいものです。

 それなら竹を用いる本当の理由は何なのかと問われると、これが起原であると明確なものははっきりとはわかりません。しかし七夕の行事はほとんどそのまま中国の風習の輸入ですから、竹を用いることも中国の風習に起原がある可能性があります。思い当たるのは、寛仁二年(1018年)の頃,藤原公任が朗詠に適しているとして選んだ漢詩の句や和歌を編纂した『和漢朗詠集』の中にある、白居易(白楽天)の詩句です。同書には白居易の詩句が135句も選ばれていて、漢詩句では最多ですから、当時の文化人なら白楽天を知らない人はいなかったはずです。その中には次のような詩句が選ばれています。

 「憶(おも)ひ得たり、少年にして長く乞巧せしことを、竹竿の頭上に願糸多し」。意味は、「七夕の竹竿の上の方に五色の願いの糸をたくさんかけて、少年少女が学問や技芸ができるようにと祈るのを見ると、自分も少年時代に乞巧奠を営んだことを思い出す。」といったところでしょうか。とにかく七夕の本来の祭である乞巧奠と、糸を結んだ竹飾りが結び付いていることを明確に示しているのです。

 私は俗説を根拠がないと痛切に批判していますが、批判するからにはこのように根拠を明示しています。これが起原であるのか、それ以上遡れるのか迄はわかりませんが、唐代の7月7日の祭で竹飾りがあったことは紛れもない事実なのです。

 白居易は9世紀前半の人ですから、その頃の唐では、7月7日の乞巧奠において、若者が技芸の上達を願って竹竿の上の方にたくさんの糸を懸ける風習があったということがわかります。白居易の詩は当時の文化人なら誰もが諳んじていたものでしたから、七夕に願いの糸を懸けた竹を立てるということは、よく知られていたはずです。また少し時代が下りますが、室町時代の1544年(天文13)に成立した『年中恒例記』は、室町幕府の年中行事を記録した書物なのですが、これによれば、七夕には梶の葉に七夕の歌を書き、梶の木の皮で竹に括り付け、屋根の上にあげるということが記されています。これだけでは竹を用いたことの根拠としては十分ではありませんが、一応は根拠のある解説になったとは思います。

 本来の七夕の祭は乞巧奠と称して、女性の技芸、つまり裁縫や音曲の上達を二星に祈願する祭でした。「乞巧奠」とは「巧みになることを乞う奠(まつり)」を意味しています。『荊楚歳時記』には、七夕の夜、女性たちは庭に用意した祭壇に酒や干し肉や瓜を供え、針の七つの孔に糸を通して掛け、裁縫の技の上達を祈ります。また瓜に蜘蛛(くも)が網を張るようなことがあれば、縁起がよいと信じた、というのです。このような習俗はそのまま日本にも伝えられました。古い和歌には、裁縫の技の上達を願って衣や五色の糸を供えたり、音曲の上達を祈って琴を供えたこと示す歌も伝えられ、江戸時代の絵図もそのように描かれています。

 少しそのような歌の例を上げておきましょう。
○七夕にかしつる糸のうち延(は)へて年の緒(お)ながく恋やわたらむ  (古今集 180)
○七夕の逢ふ夜の庭に置く琴のあたりにひくは蜘蛛(ささがに)の糸  (六百番歌合 324)
「かす」とは供えるという意味で、「うち延ふ」とは長く延ばすという意味です。「年の緒」とは年と同じこと。全体では、七夕に供えた糸のように、私の恋も長く恋い焦がれなければならないのだろうか、という意味です。次の歌は蜘蛛の糸で恋を占った歌で、庭にしつらえた台の上に、琴が置かれていたことがわかります。

 竹飾りの主役である短冊が登場するのは、江戸時代のことです。それ以前は、梶という木の大きな葉に歌を書いていました。梶という木は、梶原・梶谷など人の名前ではたまに見かける文字ですが、梶の木を見てそれとわかる人は少ないことでしょう。外見は桑や楮の葉を大きくした形で、こわい毛がびっしりと生えています。大きいものでは20㎝以上ありますから、筆で歌を書いてみましたが、十分に書くことができました。

 梶の葉に歌を書いていたことを示す歌を上げてみましょう。
○天の川門(と)渡る舟のかぢの葉に思ふことをも書き付くるかな (後拾遺集 242)
○七夕の門(と)渡る舟のかぢの葉にいく秋書きつ露の玉章(たまずさ) (新古今 320)
前の歌は、牽牛が水門(みなと)を渡る舟の楫(かじ)ではありませんが、梶の葉に思うことをいろいろ書きました、という意味です。後の歌も同じようなもので、もう何年も玉章(手紙のこと)を書いたことでしょうと、長い間もかなわぬ恋を嘆いている歌です。梶の葉に歌を書くことは、江戸時代までずっと受け継がれます。江戸時代には桐の葉に書かれることもありました。桐の葉は大きな物になると30㎝以上ありますから、十分すぎる大きさです。また桐や梶の葉の形に切り抜いた紙に歌を書くこともあったことは、江戸時代の記録にたくさん残っています。

 それならなぜ梶の葉に書いたのでしょうか。その理由は不明としか言えないのですが、ヒントとなるのは、牽牛が天の川を渡る舟の楫が、梶の葉の掛詞としてしばしば平安時代の和歌に詠まれていることです。
ですから同じカジという音からの連想で、梶の葉が注目された可能性があります。

 また現在では、七夕の短冊は里芋の葉の露を硯ですって書くものされています。実はこの風習もかなり古くから行われているのです。安徳天皇の母である建礼門院に使えた女房の歌集である『建礼門院右京大夫集』という歌集には、「おしなべて草村ごとに置く露の芋の葉しもの今日にあふらむ」(280)という歌があります。これだけだと七夕の歌とはわかりにくいのですが、その前後の歌の内容から、七夕の歌であることがわかるのです。ネット上では里芋の露で墨をする理由について、月からこぼれ落ちた神様の水だから、天の川のしずくと考えたから、などと説明されています。地域によってはそのように説明されることがあったのでしょう。しかしそのような史料があるわけではありません。平安時代の和歌には、七夕の夜の雨や露を、牽牛が天の川を渡る舟の楫の雫や、織女の涙に喩えたものがいくつもあります。ですから里芋の露を天の川の雫と理解することは、十分あり得ることだと思いますが、月の神の水という理解については、さしあたり思い当たる根拠はありません。おそらく思い付き程度のことなのでしょう。そう言われて反発するなら、史料的根拠を示してもらいたいものです。

 五色の短冊に歌を書くようになるのは、江戸時代になってからのことです。七夕は幕府の式日に指定され、武家の間で盛んに行われていましたが、それが江戸市民にも広がり、寺子屋の普及とも相俟って、子供の手習いや裁縫の上達を祈る祭へと変化していったのです。寺子屋では手習いは必須科目で、選択科目として女児に裁縫を教えることもありました。ですから梶の葉に書いていたものが短冊にかわるのは、ごく自然なことでした。ネット情報には、神事に用いる紙垂(しで)が短冊に変化して文字を書くようになり、榊が竹に変わったと説明しているものがありますが、とんでもない誤りです。ネット情報は玉石混淆ですから、十分に注意をしなければなりません。

 江戸時代の文献には、竹に短冊や糸などを飾って屋根の上に高く掲げることが、たくさん記録されています。中でも詳しく記録されている『守貞漫稿』の記事を、現代語訳にして読んでみましょう。「大坂では(寺子屋で)手習いをしている子供が、五色の短冊や色紙に詩歌を書いて、青笹にたくさんこれれを結び付け、寺子屋の師匠の家に集まる。そして七夕の二星(織女星し牽牛星)の掛け軸を掛けて、太鼓を叩いたりして一日楽しく遊ぶ。江戸では子供のいる家もいない家も、貧富大小の区別なく、必ず青竹に短冊や色紙を結び付けて、屋上高く立てる。他に各種の飾り物を結ぶこともある。短冊や色紙は、半紙を染めたものである。江戸では雛祭りと同様にこれ程盛んなのは、市中の多くの女性が大名(や旗本などの武家)に奉公していて、大名の家庭の真似をするためである。そのため女性向きの風習ばかりが盛んに行われ、男性向きの風習はあまり行われない。竹に飾る作り物は、昔はみな自分で作ったものであるが、近年は鬼灯(ほおずき)の形、帳面の形、西瓜を切った形、筆の形、『枕ノ引出シヨリ文ノ出タル形』、などを売っている。しかし稀に自作の物を付ける者もいる。作り物の多くは竹の骨を用いて紙を貼る。梶の葉やくくり猿や瓢箪は紙を切って作るだけである。」

 切った西瓜などは、現代の飾りにもよく見かけるもので、これが江戸時代以来のものであるとは嬉しくなりますね。なぜ西瓜であるのかということについては、思い当たるふしがあります。乞巧奠では必ず瓜を供える風習がありました。それは織女が瓜を掌るということが中国の文献史料にあるということです。西瓜がその瓜の延長上にあるのかどうかは確証がありませんが、ひょっとしたらその可能性があるかもしれません。

 『江戸名所図会』という書物には、七夕の日の町の風景が描かれているのですが、家という家の屋上に、現代の二階の屋根より高いのではないかと見える程、高々と竹が掲げられている様子が描かれています。童謡『七夕様』の歌詞には「軒端の短冊」とありますが、軒端どころの高さではありません。見上げる程の高さに掲げられているのです。

 その竹竿の頂部には、まるで吹き流しのように糸の束が風に長々と靡いています。現代の七夕飾りには、網の目のように切った独特の飾りがあり、大漁を祈願する網であると説明されることがありますが、七夕の祭には豊漁祈願の要素はなく、本来は古来からの糸が変化したものだと理解するのが自然でしょう。これも見た目が似ているから思い付いたのでしょうが、何の根拠もありません。とにかくネット情報のいい加減なことには、本当に呆れてしまいます。

 ついでのことに、主題の竹飾りとはずれてしまいますが、七夕の夜にはたらいに水を張って、二星が映るのを見るという風習がありました。その起原ははっきりとはしませんが、『千載和歌集』に次のような歌があります。
○袖ひちてわが手にむすぶ水の面にあまつ星あひの空を見るかな (千載集 316)
「ひちて」とは「濡らして」、「むすぶ」とは「すくう」という意味です。掌にすくった水の表面に、七夕の二星が映るのを見る、というのです。そんなことが出来るものでしょうか。掌の水面では、揺れてしまってまず無理だと思いますが、たらいの水なら、当時ならできたと思います。現代では夜空といえども明るくて、星がよく見えません。しかし昔ならば月が出ていない夜ならきっと見えたと思います。私は実験してみましたが、明るい星ならかすかに見えました。月ならはっきりと映ります。現代にその様な風習が残っているかは、私にはわかりませんが、広い日本のどこかには、きっとそんな経験をしたことのある人もいることでしょう。




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