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私の授業 国風文化 (2)

2017-12-24 21:50:06 | 私の授業
さあて、一つ一つの分野を見ていきましょうか。最初は何にしましょうかね。図説資料集の順番なら国文学ですかね。国文学の発達には仮名文字の発達が前提ですから、仮名文字の発達という小見出しを付けましょう。

 まずはそもそも「仮名」って何でしょう。仮名とは音や音節を表す日本独特の文字のことで、意味がない表音文字です。仮名には既に習った万葉仮名がありましたね。漢字は表意文字ですから、音だけを表したい時には、意味を無視して漢字の音を借りて宛字をせざるを得ません。そういう発想は日本独特のものではなく、もともとは中国で行われました。仮名が中国生まれというわけではありませんよ。漢字の音を借りて、意味を無視して言葉を表すということです。例えば、「卑弥呼」なんていうのがそうですね。それにしてもわざわざ卑しいなんて字を選ぶあたりは、中華思想丸出しですね。ちょっといやらしいですが、表意文字しかない世界では、起こるべくして起こることなのです。万葉の時代には表意文字の漢字しかありませんでしたから、日本語の活用語尾や助詞など、漢字で表現しにくい言葉は、どうしても漢字を表音文字的に使用せざるを得ませんでした。こうして用いられ始めたのが万葉仮名でしたね。○○真由美さん、あなたのお名前は万葉仮名その物ですよ。万葉仮名風の素敵なお名前ですね。

 ただ万葉仮名は漢字ですから、メモ的に一寸書き留めるのには面倒くさい。そこで万葉仮名の一部を取り出したり省略して、ルビをふるような感覚で音を表すことが行われるようになりました。それはもう奈良時代に部分的に始まっています。そして平安時代になると、僧侶が経典を読み下したり注を書き入れるのに、盛んに使うようになります。行間の狭い場所に素早くメモ的に書き込むのですから、なるべく画数が少なく、小さく書けなければなりません。そこで万葉仮名の一部分だけを切り取って、片仮名が作られたわけです。本来は本人だけがわかればよい記号でしたから、一つの音に何種類もの片仮名がありましたが、次第に整理統合されて、現在のような姿になりました。片仮名の「片」とは、二つで揃っている物の一方を意味していますから、整っていなかったり不完全であることを意味しています。片仮名は漢字の一部分を取り出して作られていますから、のような呼称となったわけです。

 小学校でお習字を習う時には、現在では片仮名から始めますね。平仮名は曲線ですから、筆使いが難しい。それに対して片仮名はもともと漢字の一部分ですから、直線的であり、初学者にとっては取っつきやすいのです。

 それでは片仮名が万葉仮名の漢字のどの部分を取りだしたものか、図説資料集で確認してみましょう。イやエやカはすぐにわかりますね。伊藤の伊の人偏、江戸の江のつくり、加えるの加の左側ですね。ウはどうですか。宇宙の宇のウ冠ですね。アはどうですか。阿部の阿の字のこざと偏のそのまた一部ですね。これは指摘されないとちょっとわからない。サは散るという字の初めの3画です。ここでは取り出される元の字も、同じ音の万葉仮名であることを確認しておきましょう。

 一方の平仮名は、万葉仮名の草書体をさらに極限まで簡略化したもので、中国人の書家でも読めない字があるかもしれません。「平」というのは平易なという意味です。初めは「草仮名」と呼ばれていて、まだ草書に近かったのですが、次第に整えられて現在の平仮名に近いものになりました。ただし同じ音でも様々な平仮名があり、現在は使われていない文字がたくさんあります。それらは現在ではまとめて「変体仮名」と呼ばれています。確かKさんは仮名書道が得意でしたね。仮名の書道には普通に変体仮名が使われていますよね。古文書にもしばしば登場しますので、日本史の先生は一応読めなくてはなりません。

 平仮名は奈良時代の文書に少し見られるのですが、それが正式に公認されて用いられたのは、『古今和歌集』の序文でしょう。序文として「真名序」と並んで「仮名序」が堂々と掲げられていて、まるで、和歌は平仮名で記すものという宣言文のようです。「真名」というのは、漢字という意味ですよ。その序文は後で和歌の話の時に読みましょう。

 平仮名は主に女性たちによって用いられました。柔らかい字の形が女性の感性によく合っているからなのでしょう。それで平仮名は「女手」と呼ばれました。「先生、それじゃあ男手もあったんですか」。ええ、もちろんありましたよ。男手とは片仮名と言いたいところですが、漢字のことを意味しています。この場合「手」とは、筆跡というような意味ですね。男は漢文を読み書きするのが当然だったからです。しかし男は漢文と片仮名、女は平仮名と決めつけることはできません。男でも和歌や手紙を書くには平仮名を用いていますからね。

 それじゃあ平仮名の一覧表を見てみましょう。楷書と行書・草書と、平仮名が並んでいますから、どのように簡略化されたかは一目瞭然ですね。片仮名よりはわかりやすいかな。でも「へ」の字は難しそうですね。私も一応少しは書道を囓っているので、変体仮名も読めます。慣れてないと読めないので、それを逆手にとって、人に読まれては困るものを、わざと変体仮名で書いたり万葉仮名で書いたりして、遊ぶこともあります。「先生、私の名前を変体仮名で書くと、どうなるんですか」。まるでSさんが変態みたいですね。まあこんな形ですかね。変体仮名は同じ音でも何種類もありますから、組み合わせ次第で色々な書き方があり得るんですよ。「ついでに私の名前もお願いします」。わあ、変態だらけになってきましたね。

 さて仮名文字が使われるようになると国文学が発達するということですが、それはなぜだか考えてみましょう。今ここで実験をしてみます。I want to eatという内容を、漢文と仮名を使って書いてみましょう。「漢文なんて書けませんよ」。いやいや簡単簡単。「我欲食」と書いて、「我、食すことを欲す」でいいでしょ。台湾に行ってこう書けば、中国語を話せなくても通じますよ。それじゃあ仮名で書くとどうなりますか。「われ」なんて硬い表現でもいいのですが、「わたし、たべたい」でもいいでしょう。いろいろに助詞を付け加えれば、「たべたいわ」「たべたいよ」でもよく、「たべたいなあ」もいいですね。要するに仮名で書けば、話す通りに書けますから、話しているのが女性なのか子供なのか、どのような状況で話しているのか、察しがつくのです。つまり仮名なら、微妙なニュアンスの相異や感情がありのままに表現できる。もちろん中国人は自分の国語つまり漢文で微妙なニュアンスを書き分けることができるのでしょうが、いくら漢文に慣れていると言っても、日本人にとっては所詮は外国語です。その辺りの書き分けは至難の業なのです。感情表現にはどうしても仮名でなくてはなりません。感情表現のない文学などあり得ませんよね。ですから仮名を用いることによって、初めて日本人の繊細な感情を物語として表記できるわけです。それなら万葉仮名があったではないですか、と言われそうですが、10世紀には漢字ばかりの『万葉集』は、当代一流の学者が集まって謎解きをするようにして解読しなければならない程、簡単には読めなくなっていたのです。

 そして特に女性は漢文ではなく平仮名を用いることになっていましたから、ますます女性の手になる文学が生まれやすいことになったのです。女性による国文学が生まれる理由としては、もう一つ、気が利いて教養があり、しかも貴族社会の規範に精通した女性たちが、侍女や後見役として高貴な女性のそばに仕えるという習慣があったことも見逃せません。一条天皇の中宮定子に仕えた清少納言は、その良い例ですね。即興で歌の一つも詠めなければ、恋愛もできなかった時代なのですから、そばにその様な女性が控えていてくれるのは、心強かったでしょうね。

 皆さんね、異性から枯れ葉の付いたままの木の枝が届けられたらどうしますか。当時は枯れるとは心が離れることも意味していたので、どうしてあなたは私から心が離れてしまったのですかという訴えなんです。紅葉の葉が手紙に添えられていたら、木の葉が色移りするように、あなたの言葉、つまり言の葉が色移りして代わってしまったことを嘆いています、という意味なんですよ。なんでこんな枯れ枝をわざわざ届けてきたのかと、怒ってはいけない。即座にそれに相応しい歌を詠んで、届けなければならないのです。皆さん、現代に生まれて良かったですねえ。平安時代だったら一生片思いで終わってしまうところでしたね。私も若い頃真似をして、家内に書き送った手紙の封筒に、梅の花を一輪入れたことがあるのですが、その真意は解ってもらえませんでした。「先生、私に送ってくれればよかったのに」。そうでしたね。お互い、もう40年早く出逢っていたら、違う人生だったかもしれませんね。とにかくまあ、こういう対応のできる女性が期待されていたわけです。

 それでは主な文学作品について、もう少し詳しく見てみましょう。図説資料集の順番に、まずは詩歌の分野から。これは何と言っても『古今和歌集』でしょうね。ところで古今集の歌を一部でも良いので読んだことのある人はいますか。えっ、これしかいないんですか。そんなことはありません。全員読んだことあるんですよ。百人一首の中にもたくさん収められているんですよ。例えば、「奥山にもみぢ踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋は悲しき」とか、阿倍仲麻呂の「天の原ふりさけ見れば春日なる・・・・」もそうですし、小野小町の「花の色はうつりにけりないたづらに・・・・」とか、「君がため春の野に出でて若菜摘む・・・」など、この他にもたくさんありますよ。いちいち出典までは気にしていないだけなのです。そうしたら、読んだことのない人はいませんよね。

 『古今和歌集』は10世紀の初め、醍醐天皇の勅により編纂された、最初の勅撰和歌集です。『万葉集』は勅撰ではありませんでしたよね。編者は紀貫之の他にもいるのですが、彼だけ覚えておけばいいでしょう。
『古今和歌集』はその漢文の序文によれば『続万葉集』とも呼ばれたらしく、万葉集に漏れた古い歌から当代の新しい歌までを収めているというので、『古今和歌集』と名付けられました。これ以後勅撰和歌集が続き、国家の事業としての和歌集編纂の嚆矢、つまり最初の例となったものです。

 当時の貴族社会では『古今和歌集』の歌を暗記していることが当然のことのように考えられていました。『枕草子』には、一条天皇中宮定子が、上の句を読み上げ、下の句を当てさせる遊びをしている場面があります。百人一首の歌留多遊びの原形とも言えますね。また村上天皇が女房たちに古今集の歌のテストをしたところ、完璧に覚えていた。その女房は父から、琴の演奏と古今集20巻のの歌を全て暗記しておくように教育されたという逸話も記録されています。村上天皇は古今集編纂を命じた醍醐天皇の子ですから、編纂直後からそのように評価されていたわけです。ですから後々まで古今集は歌を学ぶ人の最も大切なテキストとして尊重されます。しかしそのためにかえって、明治期には正岡子規によって、「下らぬ集」と扱き下ろされることになるのです。私のライフワークは古典和歌を素材とした歳時記の研究ですので、個人的には大変に尊重しているのですがね・・・・。

 紀貫之が書いた古今集の「仮名序」が史料集に載っていますから、ちょっとだけ読んでみましょう。「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける。・・・・ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬ鬼神をも、あはれとおもはせ、おとこ女のなかをもやはらげ、たけきもののふのこころをも、なぐさむるは歌なり」。ここには歌の本質が述べられています。歌とは人の心が言葉となって現れるもので、神や男女や武人の心をも動かす力を持っている、というのです。こんな和歌の理解を読むと、良い賞や評価を得るために投稿したりする現代の短歌の在り方に、私は疑問を感じてしまいます。上手いとか下手とかに関係なく、心を言葉にのせて表現し、人の心を動かす程の歌を、何の邪心も野心もなく詠めたらいいのになあと思っているのです。まあこれは私の考えであって、いろいろな短歌理解があってもよいとは思いますがね・・・・。

 詩の分野では、『和漢朗詠集』が上げられていますね。これは読んだことがないかもしれません。これは藤原道長の頃、藤原公任という人が朗詠に適した漢詩文や和歌を選んで編集したものです。和漢の風雅の世界に遊びたいと思っている人には、絶対にお勧めしたい一冊ですね。漢詩文がたくさん収められているということに注目しておきたい。それは国風文化とは言っても、決して唐風文化を排除したわけではなく、相変わらず尊重されているということを確認しておきたいからです。国風文化は、唐風文化に代わったものというわけではありません。また歌は本来は、声に出して朗詠するものであったということも確認しておきましょう。現代短歌では文字を無言で読むばかりで、音吐朗々と読まれることがありません。耳にどのように聞こえるかという視点が全くないのです。私はこのことを現代短歌のために悲しみます。現代短歌界は、短歌を目で追うだけの文芸にしてしまっていますね。

 さて次は物語文学にしましょう。この時代になぜ物語文学が出現するのでしょうか。最も解りやすいのは、仮名文字の発達によって心理描写が自由にできるようになったことでしょう。物語文学には恋愛の要素が強いものが多く、心理描写の重要性はよく理解できます。しかし私は他にも理由があるような気がしているのですが、それが何であるのか自分自身でも説明できません。もっともっと色々な要因があるのだと思っています。まあ私の力の及ばないところで、申し訳ありません。

 まずは『竹取物語』から始めましょう。最初にこの物語が登場するのには、わけがあります。『源氏物語』の「絵合」の巻に、「物語の出きはじめの祖(おや)なる『竹取の翁』」と書かれています。つまり最初の物語文学という理解があったわけで、だいたい9世紀末には成立したと考えられているそうです。その程度に曖昧にしか解りませんから、もちろん作者も不明なのですが、同じく『源氏物語』の「蓬生」の巻には、「かぐや姫の物語」と記されていますから、当時からよく知られていたことが解ります。粗筋は今さら私が皆さんのような年代の方に説明するまでもないでしょう。

 天界の美しい女性が地上に降りてきて、また天界に帰って行くというお話しは、他にもありましたよね。何でしたっけ。「天の羽衣の話でしょうか」。そうですね。こういうモチーフの話は中国や東南アジアにも共通してあるそうで、月には不死の仙薬なんていうあたり、中国の影響が大きいと思われます。月は欠けてもまた元に戻ることから、不死の信仰と結び付きやすいのです。

 私はもともとは地質学の大好きな理系の高校生だったので、物語の最後の部分に、帝がかぐや姫から献上された手紙と不死の薬を、天に近いという駿河の山の山頂で燃やすことを命じ、その山、つまり富士山からは、今も煙が立ち昇っているという話に興味があります。つまり当時の富士山は噴煙が絶えない活火山であったということですね。どうかして間違って日本史の先生になってしまいましたが、本当は石の研究をしたかったんですよ。脱線ばかりですみません。

 次は『伊勢物語』にしましょうか。読んだことある人いますか。案外少ないですね。『源氏物語』と違って、短いお話しの集合体ですから、適当にめくって読み飛ばしてもよいので、気楽に読めますよ。『源氏物語』は長すぎるので、読み始めるのになかなか勇気が要るものです。

 この物語は、色好みのある男が元服し、そして死ぬまでのことを、120余の小話で綴ったもので、「昔男ありけり」という書き出しで始まります。また多くの歌が採られているので、歌物語ということもあります。その歌の中には在原業平のものが多いため、業平が主人公ではないかとも言われるのですが、異説もあり、よくは解らないのです。

 そもそも何で『伊勢物語』と言うのでしょうか。第69段には在原業平らしき男が、伊勢斎宮と密通してしまうという、当時としてはあってはならない恋の物語があまりにもインパクトがあり、その「伊勢」に由来するのではないかと考えられているようです。

 よく知られているのは第9段の「東下り」のお話ですね。昔、ある男がいました。彼は東の方に住みよい国を探しに行こうと思って、友人とともに下っていきました。そして三河の国の八橋という所にたどり着いて、馬から下りて乾飯を食べました。ちょうどそこにかきつばたが咲いています。それを見てある人が、「かきつばたという五文字を句の頭に置いて、旅の心を詠んでごらん」と言ったので、「からころも 着つつ慣れにし妻しあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ」と詠みました。着ているうちになじんでくる衣のように、長年連れ添った都の妻を思うと、はるばるとやって来た旅のわびしさが身にしみることだ、という意味ですね。それを聞いていた人は、みな乾飯の上に涙をこぼしたので、乾飯がふやけてしまった、というお話です。
いかがですか。思い出したでしょ。高校の古典の教科書によく載っていましたよね。現代短歌ならこのような遊戯的な詠み方は退けられるのですが、古い歌にはよくあることなのです。現代短歌は何を読むかということに焦点が置かれますが、当時の和歌は、如何に詠むかということが重視されました。

 私はどうもひねくれ者で、こういう話を読むと、歌よりも乾飯、糒(ほしいい)とも言うのですが、こういうものの方ばかりに興味がいってしまいます。炊いたご飯を乾燥させて粒状にしたもので、食べる時には水や汁につけてふやかします。いわば昔のインスタント食品で、旅行用の携帯食料でした。いまでも皆さん、普通に食べているんですよ。何だかご存知ですか。「道明寺のことですかね」。ピンポーン。よくできました。さすが年の功ですね。関東では桜餅と言いますが、関西では道明寺と言って、ピンク色の粒粒をまぶした和菓子があるでしょう。あれですね。道明寺粉とも呼ばれ、大阪府藤井寺市の道明寺が発祥地ということで、そのように呼ばれています。これは糯米をふかして乾燥させ、細かい粒子にふるったものです。現在は和菓子の材料となっていますね。スーパーで売っていますよ。鍋釜を背負っては旅ができないので、調理済みの乾燥米を携帯していたわけです。

 もう一つよく知られているのは都鳥の話でしょう。同じ第9段の続きですが、件の男がさらに東の方に進んで行くと、武蔵の国と下総の国の境に隅田川という大きな川があります。そのほとりで皆ですわって都へはるかに思いをはせていると、くちばしと脚が赤く、鴨ぐらいの大きさの白い鳥がいます。都では見たことがないので渡しの船頭に尋ねてみると、「これは都鳥だ」と言う。そこで男が「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」と詠みました。「都」という名を持っているのなら、都の事をよく知っているだろうからさあ尋ねよう、都鳥よ。私が恋い慕う人は無事でいるのかいないのか、という意味ですね。それを聞いて、船に乗っている人は一人残らず泣いてしまいました、というお話しです。歌物語ですから、このように原則として必ず歌によって話が展開します。

 ところでその都鳥なのですが、ユリカモメというカモメの一種と推定されています。冬に日本に渡ってくるのですが、隅田川と都とが縁となって、現在では東京都の鳥に選ばれているそうです。ユリカモメという鉄道もありますよね。「先生、見たことありますか」。それが残念ながら、そうと確信して見たことがないんですよ。ものには強い私なんですが、これはまだ見たことがありません。

 隅田川の名前ですが、平安初期には「すみだ川」と呼ばれていたことがわかっています。漢字表記は色々あったようですが。結構古い名前だということですよ。

 それより私は文学ではなく日本史が専門なもので、話の内容そのものより、武蔵から下総に通じる道があったことに注目してしまいます。もっと古い時代には江戸湾の沿岸の奥の部分には大きな川がたくさん流れていたため、交通の障害となっていました。それで東海道は相模国の三浦半島から対岸の上総・安房を経て、下総から常陸へ通じていたのです。ですから武蔵国は東海道ではなく、東山道に属していたのです。しかし次第に舟の渡しなどが整えられたのでしょう。武蔵国は東山道から東海道に編入され、武蔵国から下総国へ行けるようになっていました。伊勢物語の頃にはとっくにそうなっていたのですが、その記述からあらためて確認できることは、私にとっては興味深いことでしたまあ国文学その物には全く関係ないんですがね。

 さてお次は『源氏物語』といきましょうか。これがなかなか難しい。余りにも有名すぎて、誰でもよく知っているでしょうから、私が話すほどの事もないのです。まあそれでも概要だけでもお復習いしておきましょう。時期は摂関政治の絶頂期となる10世紀末から11世紀の初め、天皇の子でありながら臣籍に降下して源の姓を下賜された通称「光源氏」の恋愛遍歴や人生の苦悩を軸に話は展開します。そしてさらにその子孫らの人生まで描かれています。誰が数えたのか、400字詰め原稿用紙で約2400枚にもなるという長編小説です。もちろん私は通して読んだことなどありません。作者は紫式部ですが、本名はわかりません。女性の名前を公にすることはなかった時代で、通称は「藤式部」(とうしきぶ・とうのしきぶ)でした。「紫」というのは『源氏物語』で重要な役割を占める紫の上に因むことと理解されています。彼女自身は「紫式部」っていったい誰のことと思うかもしれませんね。

 私は個人的には『源氏物語』という文学をあまり好きではありません。あまりにもなよなよし過ぎていてね、私はもっと哀しくも勇ましい『平家物語』や『太平記』の方が好きなんですが、もちろんこれは個人の好みの問題であって、その歴史的価値の評価は十分に認めています。『源氏物語』を高く評価した人に、国学者の本居宣長がいます。彼は『玉の小櫛』(たまのおぐし)という注釈書を著し、人物や自然の描写に「もののあはれ」という独特の美意識があることを説いています。「もののあはれ」とは、人が折に触れて見るもの聞くものに、理屈抜きに自ずと生まれてくるしみじみとした情趣のことで、それは仏教的・儒教的倫理観の束縛を超越するものであると言います。私なんかはまだ束縛されているんでしょうね。もし今後『源氏物語』を読むことがあるならば、その「もののあはれ」という情趣を意識しながら読んでみて下さいね。もちろん現代語訳でもいいんですよ。

 『源氏物語』は大きな存在であるだけに、後世への影響も大変大きなものがありました。『更級日記』の著者である菅原孝標の娘は、上総国司の父に順って当時は都から離れた田舎の上総に住んでいたのですが、物語を読みたいとかねがね思っていました。そして13歳で都に戻り、叔母から『源氏物語』を贈られます。そして夢中になって読みふけるのです。そのあたりのことが『更級日記』に書いてあるのですが、13歳だったのは西暦1020年のこと。『源氏物語』の存在が文献史料状確認できるのが1008年のことですから、紫式部が書き綴るそばから、その評判は広まっていたのでしょう。

 また『源氏物語』には800首よりわずかに少ない程の多くの和歌が収められているので、和歌の世界でも大変に重視され、歌を詠む程の人にとっては必読の書と理解されていました。藤原定家の父藤原俊成は、歌合の際に「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」という言葉を書き残しています。

 室町時代随一の碩学、つまり博識の大学者であった一条兼良は、「日本無双の才人」とまで評された人でしたが、『源氏物語』の注釈書として『花鳥余情』を著し、「我が国の至宝は源氏の物語のすぎたるはなし」とまで記しています。つまり当時最高峰の大学者が、『源氏物語』は日本の最高の宝物であるとまで言うのです。

 江戸時代には、『源氏物語』にヒントを得た『好色一代男』や『偐紫田舎源氏』という風俗小説も現れます。
また先程お話しした本居宣長の「もののあはれ」論も、『源氏物語』に拠っています。面白いのは『好色一代男』ですね。『源氏物語』は54帖に構成されています。まあ54巻と言ってもよいでしょう。帖と巻は本の装丁の違いから来る言葉であって、事実上は同じこと。ただ習慣として『源氏物語』の場合は帖と呼んでいるだけのことです。この54という数が、江戸時代の『好色一代男』に影響を与えることになります。『好色一代男』の主人公である世之介は、7歳の時に性的な体験をして、以後は1年ごとに1話と言う構成で、60歳の時に海の彼方にあるという女ばかりの女護島をめざして船出し、行方不明になるまでの54年間が記述されています。

 まあこんな風に、『源氏物語』について語り始めたら、終わりが見えそうもありません。次もありますのでこれくらいにしておきますが、まあそれ程に大きな存在であることはおわかり頂けたことと思います。 いかがですか。菅原孝標の娘みたいに、物語に憧れて詠んでみようとは思いませんか。「先生、私らはもう年だから、今さら恋愛物語は卒業ですよ」。まあそう言わないで、『伊勢物語』短いお話しばかりだから、読みやすいですよ。お勧めしておきましょう。

まだまだ続くのですが、今日はこれくらいにしておきます。また次回をお楽しみに。


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