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九月十三夜の月

2017-07-12 22:00:02 | 年中行事・節気・暦
 中秋の名月のほぼ一月後、旧暦9月13日の月は「十三夜」と称して、十五夜に負けず劣らず賞翫されました。また中秋の名月に続く二回目の明月ということから、「後の月」とも称されました。月齢は13日ですから、夕暮には既に東の空高く上っていて、十五夜よりわずかに欠けて見えます。十三夜の月を賞翫することは中国にも朝鮮にも例がなく、日本独自の風習です。しかしそもそもなぜ十三夜の月がそれ程までに賞翫されたのでしょうか。

 11世紀から12世紀にかけて活躍した公卿である、藤原宗忠の日記『中右記』保延元年(1135年)九月十三日には、十三夜の起原について次のように記されています。「今夜雲浄ニシテ月明シ、是寛平法皇(宇多法皇)今夜明月無双ノ由仰セ出サレ云々、仍チ我朝九月十三夜ヲ以テ、明月ノ夜ト為ス也、」。宇多法皇が9月13日の月を御覧になって、この日の月を日本では無双の名月であるとしようと言われたというのです。これを傍証するように、醍醐天皇の延喜十九年(919年)、つまり宇多法皇の御代の九月十三日、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の家集である『躬恒集』には、延喜十九年九月十三日の日付のある「ももしきの大宮ながら八十島をみる心地する秋の夜の月」という歌が収められています。同じ歌はよみ人知らずとして、『拾遺和歌集』雑秋(1106)にも収められています。

 九月十三夜の月を詠んだ歌はたくさんあるのですが、もう一首よく知られた歌を御紹介しましょう。「雲きえし秋のなかばの空よりも月はこよひぞ名におへりける」。これは西行の『山家集』に収められている歌で、歌の中には十三夜とは詠まれていませんが、「九月十三夜」の題があるのでそれとわかります。一片の雲もない中秋の名月よりも、今宵の月の方が名月の名に相応しい、というのです。「名に負う」というのですから、「本朝無双の明月」という宇多法皇の逸話を承知していたものと思われます。また松尾芭蕉に『芭蕉庵十三夜』という次のような文章があります。「仲秋の月は、更科の里、姨捨山になぐさめかねて、なほあはれさの目にも離れずながら、長月十三夜になりぬ。今宵は、宇多の帝のはじめて詔をもて、世に名月と見はやし、後の月、あるは二夜の月などいふめる。」心ある人たちならば、宇多法皇と十三夜の逸話は誰もが知っている常識だったようです。

 中秋の名月は、いわば完璧で非の打ち所のない美しさを持つ名月です。しかし十三夜の月は、何か一つ欠けた陰影のある美しさを持つ名月と言うことができるでしょうか。日本人の美意識にかなう美しさなのでしょう。『徒然草』の137段に、「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」という有名な文があります。「桜の花は満開のときばかり、月は満月ばかりを見るものなのか。いやそうではない。」という意味です。占部兼好のいう美意識も、十三夜に通じます。西行も芭蕉も、そのような美しさを知っていたのです。

 ネット情報では、8月15日の中秋の名月だけを眺めて、9月13日の月を眺めないことを、「片月見」と称して縁起が悪いことであると解説するものがたくさん見られます。しかしこれも随分と誤解されて広まっています。『守貞漫稿』には、片月見について次のように記されています。「今日若他ニ行テ酒食ヲ饗サルヽ歟、或ハ宿スコトアレバ、必ラズ九月十三日ニモ再行テ今日ノ如ク宿ス歟、或ハ酒食ヲ饗サルヽコトトスル人アリ、不レ爲レ之ヲ片月見ト云テ忌ムコトトス、俗諺ノ甚シキ也、片付身ト云コトヲ忌ナルベシ、此故ニ大略今日ハ他家ニ宿ラザルコトトス」。現代語にしてみましょう。「江戸の風習では、8月15日に他所での月見の宴で御馳走になったり、そこに宿泊した場合には、必ず9月13日にも再びそこに行って宿泊したり御馳走になることにするという人がいる。もしその様にしないことがあれば、それを「片月見」と言って忌み嫌う。迷信も甚だしいものであるが、『片付身』ということを嫌うことによる。そのため、一般には8月15日は他所に宿泊しないようにするものである」、というのです。一般的にそのような風習が広く行われていたということではなく、縁起を担ぐ人には、その様なことにこだわる人もいるが、そのようなことは「俗諺ノ甚シキ也」であると言っています。これは主に吉原などの遊郭の客の間で言われたことで、8月15日に吉原で遊興した者が、9月13日に登楼しないことが忌むべきものされたことに由来するのですが、要するに遊郭が客寄せのためにそのような仕来りを吹聴しただけのことです。『誹風柳多留』には「片月見ごくごく悪い首尾と見え」、「物いまいたけに月見を二度くらい」という句が収められています。「物いまい」とは縁起をかつぐ人を表す江語言葉です。吉原では五節句や盆・十五夜・十三夜は「大紋日」と呼ばれる一種の祝日で、揚代が二倍となるのが相場でした。ですからどうしても馴染みの客を取りたいあまりに、このような風習が行われるようになり、縁起を担ぐ裕福な男たちは、二倍の揚代を払ってでも片月見の野暮な人と言われないように見栄を張ったのです。それで懐に自信のない男たちは、うっかり8月15日に他所で宿泊しないようにきを付けた、というわけです。

 この風習が始まったのは、おそらく江戸時代のことと思われます。なぜなら十三夜の文献史料は数え切れない程たくさんあるのですが、それが忌むべきものという理解は、江戸時代より古い史料には全く見当たらないからです。ただネット情報にあるように、一律に「縁起が悪い」とか「忌むべきもの」とされていたことを強調するのは如何なものかと思います。西行や芭蕉が十三夜を愛でた心で、私たちも賞翫した方がよいと思うのですが。両方見ないと縁起が悪いから見るというのでは、風情はどこかに消えてしまいます。まるで脅迫のようですね。「縁起が悪い」とネット上に解説している人に問いたいものです。あなたはその根拠を知った上で書いているのですか、と。どの情報も判で押したように同じ文言であるのはなぜなのでしょうか。きっと先行する情報を切り貼りして書いているのでしょう。


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1 コメント

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ただあたらよの (自閑)
2017-07-15 01:03:16
源氏物語明石に
十三日の月のはなやかにさし出でたるに、ただ「 あたら夜の」と聞こえたり。
とあり、後の解釈本で八月十三日になってしまったそうです。
どう考えても九月の後の月でないとと妄想を掻き立てております。二日後の十五夜に誘って明石の上と逢わせる方が辻褄が合いますから。
九月の十五夜では無く十三夜なのは、気温の低下で、月の出まで待つ時間に体が冷えるからでは?等と妄想の説まで思っています。
京都に初めて来た時に、月見をしている所があるか?と探しましたが、何処でもしていませんのでがっかりして、夜でも開いている神泉で一人月を眺めた事が有ります。
拙句
あたら夜はいくつあっても後の月

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