And Li Po also died drunk

勝手に好きな音楽、映画、本を書き連ねる。

不注意な水

2016-01-30 22:08:57 | 日記
この間シナトラの本を買ったので、トミー・ドーシー時代のシナトラのCDを買った。あきれるくらい同じ曲想ばかりで、戦争に突入しようとしているのに平和ぼけのようなダンス音楽。なるほどエリントンがいかにすごかったというのがわかるし、戦後次々にビッグバンドがなくなったのもわかる。これに若い女の子が夢中になったというのだから、プレスリー出てきたら何あれになる。基本的にビッグバンドは聴かない。エリントンは集め曲も好きなのがあるが、そう聴くわけではない。カウント・ベイシーなどは苦手。スタン・ケントンはちょっと実験的なこともやってるので興味ある程度。変拍子でエレクトリックを取り入れたドン・エリスやジミヘンをやったギル・エヴァンスは大好きだが、一般的なビッグバンドとはいえない。ビッグバンドは人数が多くなるので当然経営としては苦しくなる。ダンスホールで人気のあった戦前とは違い、やはり地味である。ギル・エヴァンスはマイルスとの共演で特にアランフェス協奏曲の編曲で名前が知られているが、それ以外の公式盤は数えるほどしかない。サン・ラのビッグバンドにライブ盤が多いのは、録音したのをその都度売り渡していたからだという。そういう例を聞くまでもなくビッグバンドは商売としては苦しいものだ。ジャズはマイルスならいい暮らしできたかもしれないが、ロックのように当たれば自家用飛行機のようにはいかない。マイルスとギルの最初の共演作「マイルス・アヘッド」のジャケットは女性がヨットに乗っている写真だが、マイルスが何で白人女なんだとジャケットを変えさせた。でも元のジャケットのほうが売れそうな気がする。カウント・ベイシーはビートルズの曲ばかり録音したことがある。売ろうとすることは悪いことではない。そうでもしないとビッグバンドは成り立たないのでは。ジェリー・マリガンも一時期ビッグバンドを作ったが財政的にあきらめた。それはそうだ、同じ音楽やっていて雇う人数3倍になっても収入は変わらないとなるとどちらがいいかはっきりする。そう思うとエリントンやベイシーはすごいものだと思う。とはいえベイシーははなから聴く気がしないし、エリントンはたくさんあるが有名曲ばかり入った「ポピュラー・デューク・エリントン」くらいしか聴かない。悪いけどトミー・ドーシーのふやけた音楽を聴いた耳を治すのにはドン・エリス、ギル・エヴァンスしかない。



われ、汝に呼ばわる、主イエスキリストよ

2016-01-27 13:28:46 | 日記
中学生のとき聴いたロックバンド、シカゴの「約束の地へ」約束の地とはどこを指すのだろうと思っていた。原題はどうってことないWhere Do We Go from Here?と若者の将来への期待と不安を歌った曲。ずっと後でわかったことだが、旧約聖書に出てくる神がユダヤ人に約束した土地のことだった。どこからこんな邦題を付けたのかわからないが、そういうのはよくある。わざわざ旧約聖書の言葉を持ってきたのはキリスト教信者か興味をもった人だったのだろう。欧米の小説はよくある。「エデンの東」「怒りの葡萄」「日はまた昇る」「アブサロム、アブサロム」「一粒の麦もし死なずば」「狭き門」「ヨハネとその兄弟たち」など。シェイクスピアもと思ったが「響きと怒り」と「われらが不満の冬」くらいしか思いつかなかった。今はもう作られなくなったがキリスト教映画、50年代60年代の映画全盛期には「十戒」「ベンハー」「天地創造」など大作が作られた。欧米では子どもの頃からの教育で天地創造や十戒の話はみんな知っているだろう。「ベンハー」は宗教の話抜いても観だしたら止まらなくなる面白さがあるので別としても、日本では「十戒」「天地創造」などどういう反応だったのだろうと思ってしまう。大学生のときにゼミで自分は無神論ですと言ったら教授に無神論は神がいるところから始まる。聖書も読んだことなくて神はいないと言っても説得力がないといわれたことがある。今思えばドストエフスキーを読むのに少なくとも新約聖書は読まないとだめだろうとわかる。また五味康祐を引用するなら「マタイ受難曲」の中で叔父は牧師でその娘もミッション系の学校に通っているが、マタイ受難曲を聴こうとしない彼らより自分のほうが間違いなく神を視ていると書いている。それはキリスト教や教会を否定しているわけではなく、そういうところに無関係な自分でもバッハを通して神を視ることができる。それほどマタイ受難曲は素晴らしい音楽だと言いたいのだろう。自分はクラシックは好きだが声楽は聴かないのでバッハも大抵の代表作を買って、あとは声楽となってコレクションとして置いておくつもりでマタイ受難曲を買って、中身よりまずメロディの美しさに惹かれ次には聖書を開きながら聴いた。レコードで4枚もあったにもかかわらず。そうなると教会はどういうところなんだろうと興味わく。未だ熱心な信者ではないが行った当初1年くらいで飽きるのではと思っていた目標よりは遙かに長くなった。学生の時、晩年サルトルが神はいるかもしれないと言ったというのを読んでひどくがっかりしたのだけれど。

パルミジャニーノの描き方では・・

2016-01-26 23:17:58 | 日記
何年か前ポンピドゥー・センターに行ってるのだけれど外観の写真すらない。あのときはモンドリアンが特別展示されていたのだが、そのとき買ったマグネットがあるだけ。不思議だ、1枚も写真撮っていないなんて。今は昔と違って整理していない写真が箱に入っているわけではなく、ファイルで簡単に分けられているから一目瞭然なのでなくしたということもない。好きだったのだがマグリットを観たときと同じで、美術館で観るものではないと思った。それはデュシャンも同じ。上野の美術館でダリを観たとき、平日の午前中なのに暇なおばさん方ダリでも観に来るんだと思った。それに比べて横浜でデュシャン展があったとき驚くほど静かで観るのにはちょうどよかったのだが、スコップや便器観ていると何か虚しい。デュシャン昔から大好きでいつも画集をパラパラめくっていたのだが。ゲイジュツを否定したのに芸術として観ようとするのが間違っている。ミロのビーナスの隣に便器があるからいいのであって、便器の隣がスコップでその隣が自転車の車輪ではただのゴミ。マグリットも前書いたようにおしゃれなポスターを見るようで立ち止まってとか思わない。モンドリアンも写真がないのでどういう作品が展示されていたか定かでないが、通り過ぎただけだった。すると現代美術館も一緒かというと意外とへんてこなのに立ち止まったりする。この3人好きなのでその分ショックもある。比較的静かに観れたが混雑していたほうがありがたみがあったのだろうか。美術館で食い入るように絵を観ている人がいる。まあ勝手だが海外ではだいたい写真が撮れるので早くどけてくれないかと思うくらい。絵を観るという行為について考えることがある。レンブラントの自画像が好きでいくつも観てきたが、画集のが一番ぐっとくる。それはまだ本物観たことない自画像なのでその本物観たらもっと感動するかもしれないが、本物の違う自画像はどれもピンとこないというのはおかしいだろう。で思うに絵画はパーソナルなものではなかろうかと。もちろん本物を家に置くことはできない。しかし美術館で観たところで何が伝わるのだろうか。美術館行ってきましたはただの自己満足。パチンコしてきたよりは聞こえがいい。本物がなくても静かな部屋で好きな音楽をかけながら画集をめくるだけで自分には伝わる。レンブラントの若いときの希望に満ちた情熱と晩年のすべてを悟って自分自身を見つめる姿、それを美術館に行って感じることができるだろうか。


ジョン・ベリマンの夢

2016-01-24 14:41:06 | 日記
あったはずなのだが、どこにいったのかわからなくなった「さよならをもう一度」のサントラレコード。CDを探したら簡単に見つかったので買ってしまった。若いときは年上の女性との恋はあこがれだったが今やると老婆との恋になってしまう。音楽はフランス6人組の一人ジョルジュ・オーリック。ほぼブラームス交響曲3番3楽章のアレンジだけなんだけど、それが知らなかったら映画のために作られた曲だと思ってしまう。ヴィスコンティもマーラーやブルックナーを映画音楽のように使ったが、そのまま使った。原作はフランソワーズ・サガンの「ブラームスはお好き」今まで映画で誰も使わなかったのが不思議なくらいぴったりの曲想。ブラームスは昔も今も「お好き」交響曲も1番のような元気のいいのは苦手だが4番のようなうじうじしたのが好き。クラリネット五重奏の暗く渋いのも大好きだ。五味康祐が若いとき友だちの家で聴いて涙が止まらなくなり、それからレコードも買わず一度も聴いてないと書いていた。若いとき名曲喫茶に入る金がなく外で漏れてくる音楽を聴いたと書いたのも五味だったと思う。五味のことをいうつもりはないが思い出、記憶というのは小さな断片からアドリブを作り上げるジャズマンのように飛躍していく。それもそうだろうと自分の希望を現実に作り替えてまで心地のよいものにしようと無意識のうちにしてしまう。だからたまに自分ではそう信じていたのに、確かめられないことはそのまま信じてしまうが、たまたま証拠のあるものに出くわすと自分の記憶があまりに頼りなく、しかも自分勝手に作っているんだと知る。記憶はストーリーではなくパピリスの断片として残っている。その一瞬をふと思い出すのだが、それが家の玄関の前とはっきりわかるのもあれば、情景は思い出すのだがそれがどこだったかは一生わからないだろうというのもある。映画「12モンキーズ」で記憶の断片がずっと出てきて最後つながるシーンがあるが、現実の世界はつながることはない。記憶、時間、夢はSFと違って現実は曖昧で不確定だ。そう現実はそう面白いものではないから今日も映画、小説に逃げるとするか。




マイノリティ・レポート

2016-01-23 23:01:49 | 日記
久しぶりに「真夏の夜のジャズ」を観る。これは音楽ビデオのように観てはだめだ。エリック・ドルフィーなど動く映像は珍しいけど、アニタ・オデイは一番魅力的だけど、もっとじっくり聴かせてくれという映画ではない。1958年60年近く前の映像。当たり前の話だけれども、そこにも年配の男女がいて、若い男女がいて、子どもがいて、輝く太陽がある。それは今と同じ。出演しているミュージシャンはみんな死んでいる。若い男女もほとんどいないだろう。子どもがあの頃はと人生終わり近くなって思い出すくらい。その11年後のウッドストックは今とは違う。ニューポートは第二次大戦も朝鮮戦争も終わって、すべてがうまくいくことしか考えなかった時代。ウッドストックはベトナムの地獄にもだえていた時代。今がニューポートと同じというなら若者は平和ぼけしてもいいが、ウッドストックの時代なのに平和ぼけしてること。ノンポリなんて言葉は古いかもしれない。その言葉が廃れたのは政治に興味持つ学生がいなくなったから。今「イマジン」聴いて恥ずかしくなるのはみんな世界の平和でなく自国の力のことばかり考えているから。人は夢想家というかもしれないとジョン・レノンは歌った。その通り。70過ぎても「イエスタデイ」や「ヘイジュード」を歌っているポール・マッカートニーのほうが正解かもしれない。戦争が始まってから苦しめばいいのかもしれない。友人が手や足をなくして戦争から帰ってくるのを見てから考えればいいのかもしれない。このニューポートの頃もう公民権運動は始まっていたと思うのだが、サッチモの白人の機嫌を取るような笑い顔を見ると複雑な気持ちになる。ジミヘンがウッドストックで弾いたアメリカ国歌、血にまみれた星条旗に聞こえるのと対照的だ。そのウッドストックでも観客はほぼ白人。アメリカは第二次大戦中に日系人を強制収容所へ入れた国だ。ドイツ系、イタリア系にそんなことしたか?どれだけアメリカ人が好きなのか日本のバカなテレビは今ニューヨークではこれが流行していますと煽る。もちろん日本も悪いことしてきた。すべての国が悪いことを繰り返さなければいいのだが、旧約聖書の時代から国を滅ぼし滅ぼされの繰り返し。だからといってあきらめるわけにはいかない。