マキペディア(発行人・牧野紀之)

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文法用語を統一してほしい

2017年09月27日 | ハ行

 私は文法学者の方々にお願いしたいのですが、文法用語をなるべく統一ほしいのです。

 なぜなら同じ事柄に言語が異なるだけで別の日本語がついているために、学習を妨げている面があると思うからです。

 いくつかの例を上げます。

 劣等生の私は、最初ドイツ語を習った時、「接続法」がピンときませんでした。それは英文法の仮定法と同じなのに、別の用語で呼ばれていたからだと、後になって気づきました。

英文法の仮定法は英語のsubjunktive moodの訳語でしょうが、この原語は sub-(下に)とjunktion(繋がる)からの合成語でしょう。何の下に繋がるかと言いますと、「主文の下に繋がる」という事ですから、要するに「従属文の中で使われる場合の形」ということです。ですから、独文法のように「接続法」とするのが正しいと思います。今、『ジーニアス英和辞典』を引いて見ましたら、subjunctiveの所に「『接続』が原義」と書いてありました。それなのに、日本の英文法学者はその「接続法」の用法の内のたった1つの用法を取って「仮定法」と」名付けました。そのために高校までで英語を習ってきた学生には(私だけかもしれませんが)、最初は「何かな?」と戸惑うのです。余計な思考が要求されます。英文法が「接続法」という語を使っていてくれたら、私のドイツ語の成績も「可」ではなかったかもしれません。

 フランス語文法にも良い点と悪い点があると思います。良い点は、他の文法では「述語」とされているものに「属詞」という語を使って、述語という語の使い方を狭くしたことです。述語という語は「SはPである」という「である文」のPから始まって、中国語文法などでは主語について叙述するすべての語句にまで使われていると思います。なぜこうなるかと言いますと、「述」という日本語の意味が広すぎるからだと思います。

 フランス語文法で賛成できない点の1つは「再帰動詞」と言うべきところを「代名動詞」としている所です。これはもちろん原語のverbe pronominalを直訳したものでしょう。しかし、ここでのpronom(代名詞)とはpronom réfléchi(再帰代名詞)の省略形なのだと思います。西洋人は「分かり切ったことは省略する」習慣が強いですから、こうなったのだと思います。

 ヘーゲルのいわゆる『大論理学』は原語ではWissenschaft der Logikです。その本の冒頭に「論理学は何から始めるべきか」という小論文があります。これの原語はWomit muss der Anfang der Wissenschaft gemacht werden?ですが、これを寺沢恒信は「学は何を端初としなければならないか」と訳し、ドイツの大学に在籍した経験も豊富な山口祐弘(まさひろ)は「学は何によって始められなければならないか」としています。つまりder Wissenschaftが書名のWissenschaft der Logik(論理学)の省略形だと読めなくて、「学」即ち「学問一般」と誤解したのです。内容的にも、ここでは「ヘーゲルの論理学の初めの概念」を論じているだけで、学問一般の始め方は論ぜられていません。私が「論理学は何から始めるべきか」として「論理学」の書名を繰り返したのは、「日本語は近い所での同一語の繰り返しを嫌わない」という特徴に従ったのです。

 Wissenschaftを「学」と訳して分かったつもりになる日本の学者の通弊は別の所で論じましたので繰り返しません。ここではついでに、原語が受動文だと訳も受動文にするもう1つの「通弊」を指摘しておきましょう。西洋語は受動表現を好む原語ですが、日本語はそうではありません。両方の文法の特色を知って、邦訳では日本語らしく訳したいものです。寺沢は能動文で訳しています。この点は評価します。

 最後に知りもしないロシア語文法から一例を引きます。日本語の名詞には格変化がありませんが、西洋語にはあります。その格の中に普通、「属格」と訳す格があります。原語はgenitivないしそれに似たものです。ロシア語文法はこれに対して「生格」という名前を付けています。gen-という接頭語は生殖関係の事を意味しているようです。接尾語としての-genには『ジーニアス英和辞典』は「~から生じたもの」という訳を付けています。

 まあ、このような訳で、文法学者の皆さんは文法用語の適不適にもう少し注意して、「おかしい」と思ったら、自分の案を出してほしいと思います。


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1 コメント

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文法用語の不統一について (山下 肇)
2017-10-01 21:18:26
文法を論じるためにはその根底に言語観が確立されていなければなりません。
しかし、現在の西欧屈折語文法はソシュールのラングを言語本質とする段階を抜け出ていません。
残念ながら現象論、機能論の域を出ず、語、文についてもその本質が明らかにされていません。
従って、御指摘のようなそれぞれの言語観に基づく機能的な名称となるしかないのが現状です。

これを良く示しているのが、現在の日本語記述文法で、山田孝雄、時枝誠記による国語学の成果が正しく継承されることなく、教科研文法やその影響を受けた寺村秀夫のシンタックス論から生成文法の影響を受け機能主義的な文法論を展開し、助動詞を活用とするような記述文法を展開し、それに合わせた文法用語を生み出しています。
 というより、80年代からの欧米日本語学習者の急増に対し正しい文法論をもたず、西欧屈折語文法の焼き直しで対応する他ない現状があります。代名詞一つをとってもその本質が理解されておらず、指示詞としたり、独仏では指示形容詞などという機能的名称が用いられています。

古典物理学もニュートン力学という個人名称から始まったように、経済学もマルクス主義、ケインズ主義など個人名で呼ばれる段階を克服できていません。

このように、対象の本質が明らかになり一般的合意が得られる一つのパラダイムの転換を経なければ用語の統一も困難であることを歴史が教えています。

現在の言語学、文法学もまた、このようなニュートン革命以前の段階で、コペルニクス的転換を遂げねばならないことがわかります。この唯一の可能性を秘めているのが言語過程説であり、言語を表現の一種と捉えその特殊性と連関を明らかにした時枝誠記―三浦つとむによる展開の評価とさらなる発展が求められていると考えております。■

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