マキペディア(発行人・牧野紀之)

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敗戦後中国に残った日本兵

2017年02月24日 | ハ行

1、知られざる留用者の実態

 70年前、中国で終戦を迎えた日本人の集団引き揚げが始まった。当時、中国は共産党と国民党の内戦状態にあったが、双方の求めで現地に残って働いた日本人がいる。「留用者」と呼ばれ、家族を含めると最大で8万人にものぼった。

 旧満州(現中国東北部)にいた鉄道技術者や医療従事者、日本軍の兵器工場の関係者らが主で、敗戦直後の混乱の中、多くは身の安全と衣食住を約束される形で残った。長い人で8年。今の中国が建国された1949年当時、共産党は「革命」に貢献してくれたとたたえたが、日本でその存在はほとんど語られず、中国でも話題に上らなくなった。

 留用された日本人のことを私が知ったのは3年ほど前、中国・陜西省出身の祖母から話を聞いたのがきっかけだった。「どんな気持ちであの時期を過ごしたのか」。それを知りたくて留用経験者を訪ね歩いた。

 土木関係の技術者として共産党に留用された父(故人)と共に残された橋村武司さん(84)は、「断れない状況だった」と振り返る。1950年ごろ、天津にいた一家は当局から突然、「助けが必要です。天水に移動してもらいます」と告げられ、内陸の高原地帯に移された。900人近い技術者とその家族も一緒で、技術者らはそれから2~3年間、約350㌔の鉄道建設に従事した。「当時は『連行された』という気持ちを持っていた人もいたでしょう」。

 それでも、と橋村さんは語気を強める。「現地の中国人や技術者たちとは仲良くやっていました。私も学校でたくさんの友人ができた」。ほかの人からも、戦争の加害者、被害者の関係を乗り越えて「協力しあった」という話を聞いた。すぐに日本に帰れず、さぞ苦しく悔しかったのだろうと思っていただけに、意外だった。現地の中国人と彼らの交流は今も続き、取材した人の多くが両国の懸け橋として活動していた。

 残された資料は少ない。入院したと聞いたものの、回復を待つうちに亡くなった人もいた。安定した暮らしの人が多かったせいか、残留孤児や満蒙開拓団ほどにはメディアでも報じられていない。だが、国策のもとで満州などに渡り、敗戦後の動乱を生き抜いたことに変わりはない。日本へ帰ると「アカ」と呼ばれ、苦労した人も少なくないという。

 歴史は複雑に絡み合いながら今につながっている。留用の実態は分からないことが多いが、日本人の技術や能力を欲していた中国側に、帰国したくても戻れない日本人が利用された側面は否定できない。ただ、連れて行かれた現場で中国人と共に働き、結果的に深い人間関係を築いた人もいた。自らの技術が役立ったことへの喜びを口にする人もいる。私はそんな留用者の言葉を聞き続けたい。残された時間はあまりない。(朝日、2016年11月26日、記者有論。国際報道部・今村優利(ゆり))

2、牧野の感想

 私も全然知らなかったことで、残しておきたいと思ったので、載せました。これを読んで、星徹さんの本を思い出しました。

 3、撫順戦犯管理所

 日本の敗戦後、曽田はソ連カザフスタン共和国内に抑留され、労働にかり出された。ソ連の五年間では、自身の罪行について振りかえる機会も余裕もなく、戦争中の認識とまったく変わらなかった。

 そして五〇年七月、曽田も中国・撫順戦犯管理所へと送られた。初めのうちは、「俺は日本の軍隊の常識内でやっただけで、そんなに悪いことはしていない。俺は下っ端の将校で、命令されて国のために働いたんだ。それなのに、何でこんな監獄に入れるんだ!」という不満でいっぱいだったという。

 五一年の頃から、中国全土で三反五反運動が盛り上がっていった。「自らの罪行を告白し、国民各層の人々が社会の不正・汚職を告発しょう」「自らすすんで正直に罪を認めれば、どんなに重大な罪でも寛大に対処しよう」という運動だ。それを知って曽田は、「俺も罪行をすべて白状すれば、許してもらえるのでは」と考え、隠そうなどとは思わなくなった。そこで、自分が中国へ出征していた時期の「暦表」を作成し、思い出せる限りの罪行を書き込んでいった。そして、それら罪行の数々を坦白書に書いて部屋の皆の前で発表した。「私は○○で△人を殺しました」「○○で家を△軒焼きました」……。
 その発表を聴いた仲間たちから、「あなたの坦白は、罪行の羅列にすぎない」「被害者の気持ちをひとつも酌んでいない」などと徹底的に批判された。やはり「下心」のある表面的な坦白では、すぐにメッキがはがれてしまうことを、曽田はこのとき思い知ったという。

 曽田は撫順へ来るまでは、中国人なんて人間のクズだと思っていたので、人を殺したという認識があまりなかった。しかし撫順で中国人職員らから親身な扱いを受けるうち、そういった蔑視感情は徐々に薄れていき、彼らに感謝さえするようになっていった。そして「俺は確かに悪いことをした。

 中国人民に申し訳ないことをした」と思うようになった。こういった感情面からの心の変化とともに、学習による論理面からの頭の変化も同時に進行していった。レーニン著『帝国主義論』や野呂栄太郎著『日本資本主義発達史』などの学習を通じて、日中戦争・「大東亜戦争」(アジア太平洋戦争)の意味を問い直した。「こういった学習を通じて、『支那事変(日中戦争)や大東亜戦争は聖戟である』と言われ、それを信じてきたのが、嘘じゃないか! 帝国主義の侵略戟争じゃないか! ということに気づいていったのです」。

 このような両面からの「気づき」によって、曽田は本来の人間性を取り戻し、真理に目を見開くようになっていった。そして、何度も坦白書を書き直した。

 「本当の認罪・坦白というものは、『被害者の立場になって自分の行なったことを批判し、一つひとつの罪行によってどれだけ多くの中国人民が苦しみ、悲しんだかを推しはかり、反省することだ』ということが、徐々に分かってきたのです。しかし、撫順にいる間は、まだ大ざっばな理解にすぎませんでした」。そう曽田は語る。

 五六年の夏、曽田は起訴免除され、帰国を許された。帰国後しばらくしてから、中隊の「戦友会」にときどき顔を出すようになった。機会があれば、初年兵教育の教官としてまた小隊長として、部下の皆に罪を犯させたことに対してお詫びをしたい、と思っていたからだ。しかし、会はいつも皆の手柄話などで盛り上がり、そういった雰囲気にはならず、ついに言い出せなかった。そこで、この人には分かってもらえると思えば、手紙や資料を送り、自分の思いを伝えた。元部下の一人は、曽田の熱意に心を動かされ、自らの罪行と謝罪の気持ちを「冊子」にまとめて皆に配った。徐々にではあるが、曽田の思いは確実に伝わりつつある。そして、それが自らの生涯にわたる認罪学習である、と曽田は確信している。

 曽田にはいま、どうしても日本の皆に伝えたいことがある。
「平時でも、人殺しは死刑になるほどの大罪です。ましてや日本がやったことは、他国に『ドロ靴』で侵入した侵略戦争であり、平和に暮らす人々を組織的・大規模に、そして残虐な方法で殺していったのです。『あれは戦争だから仕方なかった』などと、被害者の立場になったら言えないでしょう。そしてまた、中国人民の兵士を殺しても、『戦争だから五分五分だ』と言えるでしょうか? 私も農民でしたが、彼らもまた我々が行かなければ、平和な農民として暮らすことができたでしょう。しかし、彼らの目の前で、日本軍に親を殺され、家族を強かんされ、食糧を奪われ、家を焼き払われるので、仕方なしに鍬を鉄砲に持ちかえて戦ったのです。そう考えたら、ぜんぜん『五分と五分』ではないはずです」。
(星徹著『私たちが中国でしたこと』増補改訂版、緑風出版、2006年、230-3頁)

4、牧野の感想

 人間には、他人(ひと)に足を踏まれたことはいつまでも覚えているが、他人の足を踏んだことはすぐに忘れるという「傾向性」があると思います。これを知性で修正するのが本当のあるべき姿だと思います。

 8月6日と8月9日とには毎年、「原爆投下の記念式典」が行われますが、私は釈然としません。8月6日は12月13日(南京大虐殺の日)とペアにし、8月9日は3月1日(朝鮮人民の蜂起の日)とペアにして、両方を同じ程度の記念日とするべきだと思っています。
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