マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

水俣病と補償金

2016年06月20日 | マ行
   村は保証金で破滅した

    岡本達明(たつあき)(元チッソ第一組合委員長、民衆史研究者)


 水俣病の60年は、どの局面をとっても不条理です。不条理の連鎖がどこまでも続く。

 被害者が前面に出た稀有の公害闘争が水俣病でした。

 1973年、チッソに賠償を求める裁判に勝った原告団は、東京駅近くの本社で座り込みを続ける患者たちと合流して交渉を始めます。要求の柱の一つは年金と療養費。これを拒む当時の島田賢一社長に患者家族の坂本トキノさんが淡々と言いました。

 「病み崩れていく娘を何年みてきたか。あんたの娘を下さい。水銀飲ませてグタグタにする。看病してみなさい。私の苦しみがわかるから」

 4ヵ月の交渉の末、行政が水俣病と認定したら1600万~1800万円の補償金と年金、療養費も支払うという協定を勝ち取りました。

 実はその5年前、政府の公害評定直後にもチッソの専務と交渉しました。患者はものも言えない。集落から工場へ通う労働者は「会社行き」と呼ばれて別格。まして専務など雲の上の人という意識でした。闘いの中で患者は別人のように成長したんです。

 チッソに入ったのは1957年です。水俣へ赴任して間もなく、路上で「うちに来んかね」と声をかけられた。帰郷中だった詩人の谷川雁さんでした。安保闘争や全共闘の世代に影響を与える思想家とは知らない。家へ行っても左翼思想を吹き込まれたわけでもない。でも会社から目をつけられ、1年半で飛ばされました。

 62~63年の水俣工場の大争議によって組合が分裂する。大卒ではただひとり第一組合に加わり、64年に専従執行委員となって戻りました。会社は日夜、1人ずつ課長室に連れ込んで「第二組合へ来い」と責める。断れば重労働職場に配転です。でも工場内で闘うだけが組合なのか。第一組合は68年、「水俣病患者のため何もしてこなかったことを恥とする」と宣言し、人間として患者を支援しました。

 患者が激発した水俣湾岸の3集落の調査を続け、昨年、「水俣病の民衆史」を出版しました。ざっと300世帯のうち認定されたのは176世帯の331人。低く見積もっても50億円以上の補償金が落ちた計算になります。水俣では人間の評価は住まいで決まる。みんな裸電球一つの掘っ立て小屋に住んでいたから、多くの患者が競って家を建てシャンデリアを付け、ダイヤモンドの宝飾品を買う。そうなると人間が変わります。

 1次産業と工場が支えだったのが、漁業は壊滅、農業は落ち目、工場の雇用は細々。貧しくても助け合ってきた村はなくなった。水俣病のせいで村が潰れたわけじゃない。補償金で潰れたんです。

 命や健康は返らない。補償金を取るしかない。でも今度はカネで村が破滅する。公害は起こしたらおしまいということです。(聞き手・田中啓介)
(朝日、2016年05月27日)


感想

 これが人間の性(さが)なのだと思います。

 埋め立てなどで漁業権を売り渡して多額の補償金をもらった漁民でも同じことが起きたようです。

 もう少し大きく見れば、公務員になり、それも地位が上がれば上がるほど仕事は楽になり給与は増えるようです。すると、堕落が起きるわけです。

 大学教授でも同じでしょう。今はそうでもない大学も増えてきたようですが、かつては「乞食と大学教授は三日やったら辞められない」と言われていました。

 最近の舛添東京都知事の場合もこれと同じようです。極貧の家庭で育った舛添はついに都知事にまで登りつめました。高級ホテルのスウィートルームに泊まるのは夢だったのでしょう。それを公金で実現させたのです。都知事の給与があれば、私費で泊まることもできたと思いますが。

 自称社会主義革命を成し遂げた中国やヴェトナムでも、独立闘争中はあれ程禁欲的だった人民大衆とやらが、ひとたび「改革開放」ということになり、金もうけが自由になると、高級官僚を筆頭に腐敗堕落の狂乱を演ずることになりました。

 こういう事を考慮できなかったマルクスの「社会主義思想」はどうみても「科学的」とは言えません。