イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「木原健次の発明」読了

2017年08月13日 | 2017読書
「木原健次の発明」読了

この本に出てくる発明家は、「八尾のエジソン」と呼ばれている人だ。発明家というよりも、“珍発明家”呼んだほうがいいらしい。そういえば、僕も何かのテレビで見たことがあるような気がする。ウイキペディアにも載っているくらいだからかなりの有名人だ。
そのエジソン氏が発明した珍品の数々の写真集であるのだが、その発明品はなんだか全然役に立ちそうもなく、仕上がりもまったくもってお粗末だ。
言葉に表すと、「幼稚園児がお父さんに手伝ってもらって一所懸命作った夏休みの工作。でも材料は東急ハンズで買ってません。」という感じだ。
だから、珍発明ということになるのだろうけれど、それでもなんだかバカにするにはものすごく惜しい気がする。

このエジソン氏には発明の五箇条というものがあって、
1)「頭は使うがお金はできるだけ使わない。」
2)「ハイテク技術は無し、ローテク技術。知識を駆使するのではなく知恵を絞る。」
3)「アイディアに時間は費やすが、作成は簡単に。」
4)「下ネタやブラックユーモア、社会悪になるようなことは避ける。」
5)「必ず欠点のあることを自ら意識する。欠点の無い珍発明は無い。」
というものだそうだ。
ちゃんとポリシーを持っていてだから仕上がりがお粗末でも何の役に立たなくてもいいのだそうだ。
氏曰く、こんな発明を笑っていられる時代というのが平和でいいのだそうだ。なんとも意味が深い。

ネアンデルタール人とホモサピエンスの運命を分かったのは遊び心があったかなかったかであるという説があるそうだ。
ホモサピエンスは路傍に咲いている花を見て、それが食えない花だとしても「美しい」と思う心があったというのだ。一見役に立たないことを学んでいたことによって危機を回避することができていたのかもしれないのではないかというのだ。
ネアンデルタール人は食べられないものの前は素通りして、花の首飾りなどを作ることはなかったという。

そいう観点から見てもこの珍発明をバカにはできない。しかし、なんだかそのお粗末さを見ていると自分の周りにあるもののお粗末さを鏡に映しているようで恥ずかしくなってくる。
僕も何かが欲しいとなると、まずは自分で作れないものだろうかと考えてしまう。これはもう、親譲りというか、祖父からの受け継がれた習性のようなものだろう。しかし、箪笥職人をしていた祖父の血も1/4になってしまうと精度はその3乗根以下になってしまう。使える材料もエジソン氏と同じ諸事情でお金をかけられない、だから出来上がったものは他人が見るとやはりゴミと見紛うようなものになってしまうのだ。
そんなものが僕の船の上にもいくつか転がっている。
ひとりで乗っている分にはまったく恥ずかしいも何もないのだが、たまに同乗者があったときにはかの人たちはそんなものを見てどんな感想を抱いているのだろうか・・・。(100均のシリコン製鍋つかみで作った竿受けというのはその真骨頂ではないだろうか・・・)



意味もなくカバがこっちを向いているのだ・・・。

まったく貧乏くさいやつだと思われてはいないだろうか・・・。それでもたくさんの魚を釣ってくるのなら、「ボロは着ててもウデはプロ。」みたいな感じで格好もいいのだけれど、モノと一緒で釣果もみすぼらしい限りではなんともやるせない。

まあ、そんなものを作っていられるときというのがたしかに平和で幸せなときなのだととりあえずは納得しておこう。これもオートメーションやグローバリズムというようなものに背を向けて生きるひとつの術かもしれないではないか。


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