イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「一九八四年 新訳版」読了

2018年02月15日 | 2018読書
ジョージ・オーウェル/著 高橋和久/訳

ジョージ・オーウエルが1948年に書いたデストピア小説である。
この本はロシアのボルシェビキやドイツ、スペインなどのファシズムに反対する意図で書かれたそうだ。第二次世界大戦が終わり、今度は社会主義という名の下に再び全体主義が台頭してきた。
完全なる社会主義というものは、富を共有し、より平等で公正な社会を目指す思想であるけれども著者がこの本の中で主張すべきだと考えたことは、それを指導するものは必ず権力を手にすることになる。権力者が存在する時点で公平で平等な社会ではなくなる。そして権力者というものは権力を放棄するために権力者を目指すものではない。権力者であり続けるために権力を欲するのだ。権力を放棄するつもりで権力を握ろうとするものはひとりもいない。すなわち、独裁者となって行くのだ。ということである。
そして独裁制を維持するために人を監視し、自分に都合のよい思想を植えつけようとする。

果たして、たしかにソ連の崩壊やその衛星国家の行く末を見てみてもそこには必ず権力者がいて、制度が崩壊して初めて外部に露にされる独裁政治があったということを思うと、オーウエルの見識はほぼ的を射ていたということだろうか。

この小説はそんな行き過ぎた全体主義の国家、ユーラシアが舞台である。テレスクリーンと呼ばれる監視装置、煽られる憎悪、拷問、党員とそうでないものの格差。主人公はそれにあらがいながら生きようとするけれども結局は屈してしまう。そしてこの物語のさらに恐ろしいところは、これがひとりの独裁者の仕業ではなく、ビッグブラザーという実体のない架空の存在を象徴にして体制が作り出されている。ということは誰の心の中にも独裁欲というべきものが潜んでいるということを現していると思えないだろうか・・・。
表現方法は意図的にそうしているのだろうが、読んでいて吐き気を催しそうな気味の悪さだ。そうすることによってさらに全体主義の恐ろしさが増してくる。

前回に読んだ、「開高健の文学世界」でその本の著者が、師はオーウエルに少なからず影響を受けていると書かれていたのでそれを検証すべく読んでみたけれども、僕の感想では、師は体制の中での人の生き方、死に方というものよりも、もっと根源的な生と死を見つめていたのではないかと思うけれどもどうだろうか?


北の将軍様が治めているかの国というのは限りなくユーラシアに近いようだ。監視あり、拷問あり、思想操作あり、資本主義の大国に対する憎悪。突然人が消えるということもしばしばのようだ。ひょっとすると13億人の人口を抱えているかの大国も監視社会という面では同じようなものかもしれない。なんたって、街頭の監視カメラで人相を割り出して個人を特定しているというのだから驚きだ。公衆トイレで誰が何センチトイレットペーパーを使ったかまでわかるそうだ。
まあ、そんなことをいうと、わが国もいたるところに監視カメラがあって、何を見られているのか、わかったものではないけれども・・。

いやいや、国外に目を向けなくても、似たような体制はもっと身近にある。会社組織だ。
とあるコラムにはこんなことが書いてあった。
「上司の発言に金科玉条、定理定説がごとく忠実に従う。会議では、上位者が発言するまで、発言しない。発言しても、上位者の顔色をうかがい、それを斟酌(しんしゃく)した発言や行動しかできない。アクションを起こそうとしても、すぐに周囲の反応をうかがい同調しようとする。会議でも研修でも面談でも、あれが駄目だ、これも駄目だと駄目出しに終始したり、それは正しいこれは正しくないと既存の定説に沿って成否を判断したりしてばかりいる。」
もう、思想の操作をされる前に自らが体制に迎合し、服従しようとしている。コラムに書かれるくらいなのでわが社だけではなくて大概の会社というものはそうなっているらしいということはなんだか勇気付けられる。ただ、救いといえば、後ろを振り返って舌を出していても命までは取られないということだろうか。
僕なんかユーラシアの国民であったなら、2秒で処刑されてしまっているだろう。

集団になじめない僕としては、そこだけはホッとしている。
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