休憩処 まっちゃの部屋(別館)

まっちゃの言葉と戯れる日々の徒然日記。
本館は「ブックマーク」から飛べます。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

円環のなかで、ひたむきに、ゆるゆると

2017年01月03日 19時15分50秒 | 日記
2017年の幕開けを心より言祝ぎます。
 
大学に入ってから、大学で学んだのと同じ年数、
つまり4年くらい毎に自分にとっての変わり目が巡ってくるように思います。
2016年はまさしく、4年目という節目に当たる出来事がいくつかありました。
 
飽き性の私に、4年という関門を越えさせるために
なんというか、自分で拵えた転機のような気がします。
 
1年目は、一生懸命。
2年目は、ようやく自分の中で消化できるようになり。
3年目は、なんとなくこなせるようになったと自信がつきはじめ。
4年目は、「このままいくのだろうか?」と悩み始め、他のことで身を立てられないか模索を始める。
そんな時期です、私にとっては。
 
不思議なことに、4年目を迎えると、
外から力が働くとでもいいましょうか、「そろそろ次を……」と言われることが多く、
でも本当に不思議なことに、次なる出来事が天から降ってくるので、
なんだかんだ言って、どうにかこうにかやってこれているように思います。
 
そしてまた、不思議なことに
3年目までに漠然と「これがやりたいなあ」と思い描いていたことが
4年目にそれに近い形で叶えられることが多いのです。
 
そして次の新天地へ飛び込んでいく、というところがあります。
  
ですので、なんといいますか、「何があっても大丈夫、なるようになる」と
どこかしら達観しているところがあります。
 
 
先日、好きな色合いの夕焼けを見ました。
 
その夕焼けの中に、大きな円環が浮かんでいるのが見えました。
 ああ、あれは人生の円環なのだなあ、
  わたしは、そこへ、還りゆくのだ、と。
 
 
 

 

 
何が起こってもおかしくないこの世の中で、
皆さまと出逢い、同じ時間の環を過ごさせていただいたというこの僥倖を、
言葉にして深く感謝いたします。
 
どうか世界中すべての人々にとって、それぞれの望む人生を歩んでいける年でありますように。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

play a role

2016年10月30日 13時46分16秒 | 日記
【play a role】役割を演じる
 今日、Twitterで見かけた言葉。

「ロールプレイ」ってありますよね。
本格的な役者の勉強をしたことがない人でも、
例えば「○○になったつもりでこのセリフを言ってください」と
短い寸劇をやったことはあるかと思います。
 
 
他人とのかかわりの中で、
たまに、「あ、私、言わされてる?」とか
「これはわざとやらされている?」とか感じることがあります。
 
この人生そのものが、ロールプレイ。
 
みんながそれぞれ役者であり演出家であり脚本家であり。
自分だけの脚本を書いているようでいて、
たぶん他の人の脚本も一緒にまとめて書いて、
お互いにあれやこれやと演出しているだけなのかもしれません。
 
 
さて、一度脚本に書いてしまったことは、変えられないのでしょうか?

 ……「人間の運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である」甲野善紀
 
稽古の時に「あれ?変だな」「こうじゃない」「自然に出てくる台詞はこれだ」
そう感じたら、脚本に書き加えたり削除したり修正したり。
というようなことは、実際の人生でも同様なのでしょう。
 
 
何とはなしに湧き出てくる恐れを感じながら、
これまで通りに日常を送るということは容易なことではないのですが
「今を生きる」という呼吸をしていくしかないのでしょう。
 
個人的には、最近見た夢が今でも気になっています。
 
 
どこに行こうとも、どこかに還ろうとも、
自分の心の持ちようだけで
地獄にも、天国にも、なるのでしょう。
 
写真:シンガポールにて
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

準備をしているんだよ

2016年10月26日 01時10分26秒 | 日記

写真:シンガポールのアートサイエンスミュージアムにて

今朝もまた不思議な夢を見ました。

とある全寮制の学校で、1つの部屋に3名が一緒に暮らしています。
部屋は壁や机は洋風なのに、なぜか布団が敷かれています。
4名が定員で、布団も4枚敷かれているのですが、
途中であ、3人やね、と気づくのです。

その時、部屋には私しかおらず、
勉強に倦んだので気分転換に外に出かけます。

しかし、その学校は目的があって隔離されているので、
普通の街のような雰囲気はなく、
店はあるのに営業していない、寂れた街です。

大縄跳びをしている子供達を遠くに眺めていると、
見知った(大学の同期の)男子が
「そろそろ、地震が来そうやな」と空を見上げながら呟きました。

私もなんとなくそんな予感がしていたので、
「そうだね、それに備えようと散歩しとった」と、
周りを警戒するように、手振りで応えるのです。

そして突然スクールバスに乗っている場面に切り替わります。
そのバスは異様に大きく、3段になっていて、
学校を出るときに降りてくる踏切を壊しながら進む
そのバスの一番上に私は座って、
鳥のように俯瞰しているのです。

そのバスは不思議なことに、時々フロントガラスに
浮きのような網を引っ張りあげては下ろしていて
私は「なるほどねえ」と納得しているのです。

そして、やっぱり地震はきたんだな、と思ったのでした。

ーーー

結局、何があっても大丈夫、と言えるように備蓄をして、
心構えもしておいて、その瞬間を生き切ること、
ただそれだけなのだと思います。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

見送り、見送られる

2016年10月23日 00時03分25秒 | 日記
今朝、不思議な夢を見ました。
 
とあるところに、私を真ん中にして両隣に男女が1人ずつ、
みんなで3人が横たわっているのです。
 
私は最初、その横たわっている「私」の中に意識があったのではなく
ぼんやりと後頭部のほうから、周りを眺めていました。
 
そのうち寒気を感じたので、「なんか着るもの、、、、」と思いついて
「ああ、そうか、私は死にたくてここにいるんだった」と
そこで横たわっている「私」のなかに意識がすっと入っていくのです。
 
左隣を見てみると、
おそらくその女性が持っている中では一等であろう着物を着ていて、
右隣を見てみると、
これまた同様に、タキシード。
 
その真ん中で、なぜか「私」はどうでもいい普段服。
急に恥ずかしくなって起き上がろうとして、
「ああ、そうか、私は死にたくてここにいるんだった」と、また思い出すのです。
 
でもその瞬間
「いや、死ぬのはやーめた!」とばっと起き上がり
両隣とつないでいた手を振りほどくのです。
その手にはもう力は、入っていませんでした。
そして血液のぬくもりがない、しんとした冷たさが、あとから伝わってくるのです。
 
そう、二人はすでに事切れていたのです。
 
「私」はその二人の顔は知っているのです。
でもどうしてこうなったのか思い出せず、
ただ、私は、生きなおすことを、選択し宣言したのです。
 
そしてそのまま見送ったのです。
 
いえ、生きようとして現世に戻ろうとする「私」は、
その二人に見送られていたのかもしれません。
 
「がんばれ」とも「つらいよ」ともなにも台詞はなく、
ただ、淡々と。
 
 
 
そこで目が覚めました。
 
今にして思えば、
今朝、私は三途の川を渡ろうとしていたのでしょうか。。。。。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

一筋の光芒に、

2016年10月18日 00時59分40秒 | 日記
一年に一度の棚卸し作業みたいな。

Who am I?

自分の周りで起こることは、
観察者である自分の反映。

私は私であり、
そしてあなた自身でもある。
あなたはあなたでありながら、
私自身でもある。

今私がいるコミュニティは、
どんな世界なのだろう?

光芒を放ちながら沈みゆく夕景を
雲海の上で眺めながら、思ふ。

もう少し、
あともう少し、
……

アイデンティティは
こうも容易く崩壊するものなのか、
そしてこうも強靭に再生されるものなのかー

人はいつだって
今すぐにでも
生まれ変われるのさ!
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

共感、それは魂の休憩処であり。分かち合い、肯定するということ。

2016年08月06日 23時09分11秒 | 日記
今日、ご縁あってこちらに。
「津久井やまゆり園」で亡くなった方たちを追悼する集会
 

「生殺与奪の権」は誰にもない。
 
では、自分の命を、
自分でどうこうするのは許されるのだろうか?
 
動物の肉を食べるのは、
栄養になるからと言えば許されるのだろうか?
 
 
物心ついたときから頭の隅に居続け、
何かとすぐに顔を出してくる。
なかなか抜けない棘のように、
気付いたら足元にある、闇。
 
 
【原罪】とは?
 
ーーこれは高校3年生の夏休みに出会った『氷点』で知った言葉。
 
私達は、今、自分を取り巻く文化、生活、習慣、倫理の中で生きている。
他の国・地域・民族には、
自分の周りとはまったく違う文化習慣等がある。
 
 
結局は、
ただひたすらに、
自分を信じることーーー
 
この選択をした、ということを、
自分が自分に肯定する。
 
それに尽きるのかもしれない、と思った黄昏時。
 
 
そんな中でも、力強く響いてくるメッセージ。

「時計の針を巻き戻すことなく、
 すべての人のいのちと尊厳が守られる未来を目指して
 メッセージをわかちあおう」
(「津久井やまゆり園」で亡くなった方たちを追悼する集会のご案内より)
 
 
これはまさしく「共感」そのもの。
 
--------------
だれにも知られない孤独は苦しみを倍加するが、
だれかに分かってもらえると苦しみは半減し、解決の一歩となる。
ここで、癒しの奇跡が起こる。
共感がもたらす力は計り知れないものがあり、癒しに結びついている。
--------------(とあるサイトからの引用)
 
あなたはわたしであり
わたしはあなたである。
 
そこに思い至ることができれば、平和に向かうのだろう。
 
あなたは、あなたのままで。
奇跡とは…魂は何によって救われるのか
 
 
 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

心の持ちよう

2016年05月15日 22時40分47秒 | 日記
「試練」だと思えば、重くなる。
 「期待」だと思えば、頑張れる。
 
 
これまでずっと、自分に期待してこなかった。
 
 
小さい時から、やってみたい!と思って母親に言うと
まず一言目が「うちにはお金がないからね」。
だから、早く学校を出て働きたかった。
 
 
仕事を探す段になって、
自分がやりたいと思っていたことってなくって、
会社勤めをしている人が周りにいなかったのでどうしてもイメージができず。
 
 
いざ働き始めたら、
思っていた以上にお金がなくて、
思っていた以上に自由がなくて・・・。
  
そして今にして思えば、「じっとしていることが苦手」。
朝9時から17時まで居なきゃいけないというのが、一番苦痛に感じていた。
なんで自分の好きな時間に好きなことができないのかな、って。
 
それだったら自由業になればいいんだろうけど。
これといってやりたいこともなくて。
でも会社を辞めたんだというと、
 「あなたにはこれが合ってると思うから、お願いね」
 「これ良いじゃない!やってみたら」
と話を持ってきてくださる方は常にいて、ありがたいなと思うと同時に、 
常に他人からの評価によって、
自分とはこういう人間なんだと定義づけしてきたように思う。
 
 
そんな中でも、たとえば誤字を発見したりとか、
何気ないおしゃべりの中で、インスピレーションを言葉にして伝えたりとか
本(設計図)の通りに作れるとか
そんなことに喜びを感じてきた。
 
でも「これが仕事です!」って誇れるような、
1つの大きなくくりではないことがどこかしらコンプレックスになっているんだろう。
そして、たぶん、これをやる以上どんなことでも(大嫌いな数字やら会計すらも含めて)
やりたい!という覚悟を持てるような“たのしいこと”を
見つけられずに来てしまったんだなあ、と思うのだ。
 
 
まあ、まとめると「自信がない」ってこと。
 
いま、変換で「自身がない」と出たのだけど、
日本語って面白いもので、
「自身(アイデンティティ)がないから、自信が持てない」
おお、つながってるな、と思ったりもして。
 
というわけで、昨日は思いかけず花束と、
そしてねぎらいの言葉をいただいて、
不覚にも目から水がにじみでてしまったのだけど、、、
 
タイミング的に自分にとって「重い・・・」と思う出来事がどわーっときて
かなり精神的に参っていたときで。
 
でも。
 
乗り越えられない試練を作らない、と
生まれる前に自分で決めているんだという話を思い出して、
そうなんだ、
「これが向いてるよ」「これやってみな」と言ってもらえるのは
自分がそういうふうに仕向けていることであって、
本当は、どういう結果になろうが、
自分がやる!と魂と肚の底で決めているのだから、と。
 
たぶん、表面的なこととしては、上のように決めているようでいて、
そしてまた、「もっと周りに相談しなよ」とか
「もっと自信を持とう」とか
そんな裏の目的ももって、乗り越えようと設定してきているのかもしれない。
 
なんにせよ、
任せていただけること、
仕事させていただけることに感謝して、
ひたすら、向き合う。
それしかないんだろうなあ。
 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

感謝

2016年05月15日 00時53分00秒 | 日記
通称「三田」で
笑いざわめき
或いはぶつかり
傷つけられたと思い込み
その実は相手をより深く傷つけていたのだと
理解できるようになるまでの、
20年という歳月を、
確かに、私たちは生きてきたのだ。

話せば少しずつ蘇ってくるあの記憶、あの痛み。
そして、
今この場にいない人にも思いを馳せてー

思いかけず素敵なお花と、
たくさんの想いを、ありがとう。


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

今年も、また。

2016年03月22日 22時15分13秒 | 日記
今年もまた、桜を見ることができました。

 
 
アルバムはこちらから。
 
 
このブログで書いた通り、
今年もまた同じ場所で桜を見ることができたことに感謝いたします。
 
生かされているということ。
使っていただけるということ。
 
 
 
かつて、
「求められていないかもしれない」
「使っていただけないかもしれない」
「私って、要らない存在かもしれない」
 
こんな恐怖と戦っていた日々がありました。
そのために、辞書と友になり「書記日本語」という武器を身につけること、
この他になす術(すべ)を知りませんでした。
 
 
こんな話をしたら「こうしたらよかったのに」と言われますが、
それはもうとっくに過ぎたこと。
 
今の自分を形成しているパーツとして振り返り
これから何ができるかを、
積み重ねていくしか、ないのではありませんか。
 
来年も、また同じ場所で、
桜を見ることができますように。
 
何が起こるかわからないこの世で、
目が覚めたら
昨日と同じような部屋があり
昨日と同じような顔があり
昨日と同じようなものがある、
なんて有り難いのでしょう。
 
 
♪僕の我慢がいつか実を結び
 果てない波がちゃんと止まりますように
 
 君とすきな人が百年 続きますように♪
(一青窈『ハナミズキ』より)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

渡り鳥ゆえに、行方を問ふなと言い残し。

2016年01月01日 20時04分58秒 | 日記
2016年の幕開けを心より言祝ぎます。
 
この日には、日常のよしなしごとを書き連ねるよりは
ただ、心の赴くままに祝詞を奏するのがよろしいのかと思います。
 
 
ーー祝詞(のりと)ーー

夜ごと、日ごと、天をめぐらし
恒久の輝きは私たちの道しるべとして
はるかなる時の流れにあって
いつもそこにある

生きとし生けるものすべて
自らの内なる摂理に従いて
芽吹き、育て、栄えよ

そしてすべては土に還り
次の世代の礎となれ
 
ーーーーーーーー(2007/12/25作)
 
 
(これまでに書き散らしたものなど。)
 
 
歳神様のお出で

 
無事入られました
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

2015年の冬至によせて

2015年12月23日 14時04分39秒 | 日記
陰極まって陽に転じ、
陽極まって陰に転ず。
 
陽とするか
陰とするかは
とどのつまりは、
自分の心映え
 
ジャッジするも、しないも、自分次第。
 
だけれど、
この天地(あめつち)の
間(はざま)にある
森羅万象のすべては、
 
あゝ、
万物はすべてが陰であり
陽でもあり。
 
おお、
なんと、
愛しき
この世であることよ!
 
この刹那の間隙を縫って
走り抜けてゆくからこそ、
陽であれ
陰であれ
どうでも、よいことなのだ、
 
大事なのは、
あなた
というのが
確かに
わたくしのまえに
ー存在ー
シテイル、
 
たった、
これだけのこと。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

Kyrie eleison 2

2015年11月15日 00時18分45秒 | 日記
Kyrie eleison
キリエ・エレイソン
 「主よ、あわれみたまえ」
 
 
 
それぞれに、
それぞれの、
往くべき道と、
運命(さだめ)とが、
在る、
 
 ということを、
   いまだ識(し)らないーーーー
    かれらを、
     祝福したもう。



2006年01月14日投稿
Kyrie eleison
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

回る回るよ回る

2015年10月28日 02時15分37秒 | 日記
先日「研究者だよね?」と言われたが、
そうじゃない、と答えた。
問いと答えを、ただ只管、自分の中で煮詰めていくだけ。
 
例えば、この言葉はどういう意味で、
何でどうやって説明しようかと考えるのは好きだが、
それはただ単に好きなだけで。
 
だもので、研究の道を究めんとする方々を、
私は心から尊敬するのである。
 
 
私は小さい時から、輪廻はあると信じていた。
ただ、六道輪廻や業(カルマ)は違うのではないか、
輪廻を否定する教義はおかしい、とも思っていた。
 
『輪廻転生 〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語』(竹倉史人)

 
40年来の疑問の答えが、ここにあったのだ。
   
 
魂は現世を、身体を、流転してーー留まらぬ。
そして受肉して再生し、また物語を紡いでいく。
それぞれの中にある、それぞれの、
<私>という物語(タペストリー)を
紐解いていくのが、好きなのだ。
この世を共に歩んでいく、仲間たちへ。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

落葉帰根

2015年06月21日 00時42分08秒 | 日記

直接お話ししたのは本当に数回で、
先方は私のことを覚えてはいないでしょう。
 
でも、英文法でつまずいて英語が苦手だった私に
手話で世界が広がる、ということを
直接ではないにせよ、教えてくれたのは、
まさしく「先生」が天職そのものだったのではないでしょうか。
 
15年前は国際手話を学ぶ機会がなかなかなかったのです。
それでもどうにかして
手話で世界を見てみたい、と思っていたときに
ASLクラスに通おうと決めたのも、
この先生の存在あればこそです。
 
そんなふうに、遠くから存じ上げていた先生が、帰天されたとのこと。
 
 
真実の住処は、
この世のどこにもなくて、
 
この肉体は
借り物であり、
 
人はその生を
全うせねばならず、
 
たましひは、在るべきところに還ってゆく。

--落葉帰根
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

今年も、また。

2015年04月05日 23時16分46秒 | 日記
2015年の桜(主に九段下):アルバム



ああ、

 今年も生きて、
  桜を見ることが出来たーーー。



年を重ねて、
そう、思うようになった。


桜で思い出すのは、もう10年以上も前のこと。

「この桜を、一緒に見ることを、
  ただそれだけを心の支えにして、
   この一年を頑張ってきたのにーーーー」

今も、春が巡ってくるたびに、
 深く突き刺さって、なかなか取れない刺のように、
   ちくちくと、いたむ。


そして、今年は、この言葉を、
 身を持って深く実感している・・・






  来年も、ここで、……。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加