碧い山・青い海

趣味の山登りとか、技術とネット情報を照合し個人メモに・・

1403- 天王山の戦いの場所

2014-03-29 | 日記
 早春の晴れ間、京都の大山崎に知人に連れられて行く。京都は繁務先の本社・研究所があり現役中は 毎月の様に仕事で行っていたのでこの阪急京都線の沿線にあったので馴染みはある。河原町まで何処も寺町・神社が多いのだが、山崎はサントリーを知る位で下車は初めて。京都は、関東からの修学旅行とか 社会に出ての観光ドライブで 混雑と駐車場探しの記憶ばかりしかなく 知ってはいるが縁遠い所だ。神戸三ノ宮から1時間足らずで、大山崎に着く。サントリーの近くにある、アサヒビール山荘美術館の見学が今日の目的。桜が咲き始めて、園内も山荘も豪華でとてもきれいだった。

 帰り道に、横に見えていた宝積寺(宝寺)がありついでにと 立ち寄ったが偶然にも これが有名な「天王山」だった。説明によると、天王山は京都府南部乙訓郡大山崎市にある海抜270mの山の名前。天正十年(1582年)山崎の戦いの際、水陸交通の要地で先に占領した羽柴秀吉(豊臣秀吉)が明智光秀を破った場所。その事が天下分け目の戦いの事を天王山と言われる様になったそうで、秀吉が陣を引いた寺らしい。このハイク・コースも面白いかも。




1403- 裏六甲の東尾根

2014-03-28 | 山登り
 昨日、六甲山を日帰りして来た。虫ではないが、春になると山に行きたくなる。コース選びは、ウェブ検索だが 複雑で面白いと紹介のある個人ブログに引っ掛かった。市販地図にルート記載はないが、六甲登山会と言うグループには紹介されているらしい。調べると六甲山系は東西に30km、幅に相当する南北に6km程の規模だが、登山口の有馬大池駅は中央の北端にあたる。そこから、南に尾根中央に向かえば 難ルートと言えども クリヤー出来るだろう算段。

 このコースは 裏地獄谷の東側尾根で、南側に見える六甲山脈を見ながら登山口を目指したが市街地で30分程ルート探しでロス。高架の下をくぐりやっと登山口を見つけた。登りにかかると、途中で幾つかの尾根に乗り換えながら、山頂を目指すがアップダウンが多いのと、南に向かう筈のルートが東・西へと度々、変則的で時には北方向にもなる。地図とコンパスと周囲の山を確かめながら登るのだが 思った程、時間がかかってしまった。個人ブログの方はこの辺りが面白いと言っていたらしいが納得。 

 東尾根の入口は西尾根コースの途中のガサ藪の中にあった。ここがポイントだ。


 東尾根最初の展望のある539mポイント。下に裏地獄谷の堰堤が見える、滝が多いらしく夏の沢登りコースとして絶好かも。 


 六甲山上道路の中央の記念碑台。英グラバー商会の出張員で神戸の居留英国人だが、私費で六甲山系の開発・整備をした功績に感謝し建てられた場所。
ここの標高は795m。余程の山好きなのも知れないが、出張員がここまでやっていいものか・・・。


 英アーサー・ヘスケス・グルーム卿 像。当時は、村人たちから 六甲山村長と呼ばれていたらしい


 ケーブルを使わず、油コブシ(油屋が山越えし油をこぼすのが訛ったらしい)経由で、ケーブル下に下りた。六甲アイランドの景色が素晴らしい。


 六甲山・・最高峰で931m、低山だが1870-1900年に主に英国人実業家兼 登山家達が(日本アルプスの命名者ガウランドも含む) 六甲山の開拓に熱中したらしい。英語風のカタカナ地名が多いが、名称の由来を辿ると開拓の歴史を知る事になる。それ以前は 守り神・生活の峠越えの難所だったり 戦場だったらしいが 登山の歴史を知るのには欠かせない場所だろう。

1403- 横浜で法事

2014-03-28 | 日記
 早いもので先日、 母13回忌で横浜に行った。何故か今でも、桜の季節は母を思い出してしまうが 昨年暮れの甥の結構式で 会った姪の幼い次女が、可愛く這い這いしていたのにもう歩き回り 椅子にも得意そうに登ったりしていた。
 兄弟家族で集合した山の上の墓参りも 遠く雪の富士山が見える程の晴天。午後から、お寺に行き近くで賑やかに精進料理。その日は実家に泊まり、翌日の夕方便で夕日の羽田空港を出て1時間で神戸に戻る。当日の朝、早めに神戸空港を出たが午前中の墓参りにも 余裕で間に合ったが 何もかもが早い。





1403- 古いフイルム・カメラ

2014-03-19 | hobby
 初めて社会人になった頃、学生には買えない高額なカメラを買ったのを思い出す。確か1959年に購入かも。実は、弟からのメールで知らせてきたのが思い出すきっかけ。日給月給で、確か日給230円、一年過ぎて月給になっても八千円程度なのに3万円も支払ったカメラだ。(4か月分の給料だ)

買った物は「50mmトプコールレンズ付」ライカマウントで、少し前はニッコール・レンズが付属していたらしい。シャツターが布製の幕が横滑りする構造で「カシャーン」と音がした後「カシャカシャ」と反動音がボデイに響くのと、メカニカル満載の軍艦の様なデザインが気に入り給料を手にしたら、と狙っていたカメラ。ライカが買えない人が、買ったのかも知れないが私は ライカよりもこの方がスマートで好きだった。

 ネットで調べると、製造はコピーライカカメラの企業で昭和光学と言っていた。戦前カメラは日本光学(ニコン)は海軍に、東京光学(トプコン)は陸軍に納める二大メーカーの中、1939年に創業したが 戦後1955年に社名をレオタックス・カメラに改称し1959年に倒産してしたらしい。高度成長期なのに、なぜと考えてしまうが社名を代えたのが不味かったのか、それとも技術頑固な方が 設計に陣取り合理化路線を拒絶していたのかも。

 永い間、山登りにも持ち歩き 使っていたのだが何処に忘れてしまったのか もう覚えていない。生産が終わり、既に半世紀を越えている今もカメラ屋さんの中古カメラの中に並べてあるのは知っていたがデジカメより高価。内部は老舗ライカにも見劣りしない堅牢な構造だったのでメカ好きにはたまらないのでみ飾るだけでも人気なのだろう。しかし、飾り物にするには高いので、最近カメラも古デザインに回帰しているので これでデジカメ化すれば 売れると思うが 責任は持てないけれど。


1403- 薩摩藩と桜島

2014-03-19 | 旅行
 先週、鹿児島に夫婦の一泊自由旅行をしてきた。一度、桜島を見てみたいと思った。鹿児島県には数回、仕事で訪ねた事があるが 確かイ草の乾燥機の制御機器の件でだったが 鹿児島もただ仕事しただけで何も見てない場所が全国にも多い。長崎は、数回行き気に入った場所の一つだが 何処でも歴史を持ってはいるが、それに誇りを持ち大切にしている地域が 好きで 鹿児島も多分・・・と期待していた。

 僅かな時間だったが、貴重な体験・見聞をした。1853年浦賀沖に米ペリー提督が黒船と呼ぶ軍艦で押しかけると 鎖国政策の最中だった幕府要人は腰を抜かして驚いたそうだ。琉球わ窓口に 欧米の技術を既に知り 銃も作くられていた薩摩藩の前後の事が、市内の維新歴史館で丁寧で 解りやすい展示がされていた。・・市内観光は、そのドラマを見せられる所から始まる。

 薩摩藩は1609年に琉球を藩下に治めていて、欧米諸国の文化科学を輸入物資から大よそは理解していたのだろう。江戸幕府の事件も、当然予測していたので鎖国政策で 武力的に出遅れた日本の状態から尊王攘夷(王を守る忠誠)を貫いたようだ。島津久光の行列を、横切った英国人を無礼打ちしたのが生麦事件1862年、幕府から賠償金を貰っても承知しない英国は翌年、鹿児島沖に軍船で賠償と犯人引渡しに訪れ 交渉が決裂し薩英戦争となったのが1863年。

 薩摩藩の近代工場で独学で準備された150ポンド砲(玉70kgで3km飛ぶ)が、活躍し軍艦三隻を沈め司令官は即死させた。幸い英軍は退却したが町と斉彬が作った工場も壊滅したと言う。その経験で、国力の差を思い知り開国は時期早尚と言う事を薩摩藩は確信し先見の明を手にしたのだ。

 その後、英軍は薩摩の交渉力と強さに感嘆し 中央幕府などより薩摩藩と交易する事になる。1965年に英グラバー商会が藩士15人と使節4人を英国に案内する、手助けをしたのも商売とは言え日本では異例だ。鎖国政策の中、琉球出張と幕府には説明して 実際は香港から英国に2年間留学させ この中から多くの偉人が生まれて明治以降も活躍する。(幕府から言わせればこれらは全員密航者なのだろう)
 
 留守を預かる西郷隆盛だが、「1.負けるな(自分に対しても) 2.嘘はむつくな 3.弱いものを苛めるな」を基本に一対一で子供たちを剣道・相撲で戦わせ相手が「参った」と言わせるまで徹底的に攻める事を教えたそうだ。薩摩の教育には郷中教育と言い年上の者が年下を教育する5歳から25歳の階層教育が徹底しているのも凄いと思う。半日観光バスだが、元気のよいバスガイドさんで車窓から丘の上に見えた東郷平八郎の銅像の説明では、直立不動の姿勢になるので、もう ひっくり返りそうになった。鹿児島の人は、西郷どんを旗印の様に扱い真面目でしかも面白い。