MINORITY CINEMA REPORT GRAVE!!!

映画日記の墓場へようこそ
劇場で鑑賞した作品の個人的な感想が
ここにひっそりと残され 眠っていきます

SUPER 8 * スーパーエイト [NETABARE]

2011-07-02 14:31:14 | 映画(ネタバレ)
こちらはネタバレありの日記になります。
まだ映画をご覧になっていない方は、今すぐにこのページを閉じるか、ネタバレなしの日記に行かれることをおススメします。

未鑑賞の方はネタバレなし日記



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A



B



A



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面白かったところや、興味深かったところを探すのが好きなので、そう感じたところなど。
あくまでも個人的解釈です。


【はげしくネタバレしますので、これからご覧になられる方は注意してください】


  敬愛する映画人に意を表して

本作はJ・J・エイブラムス監督が敬愛してやまない名だたる映画監督の有名作から、多数の引用がされているオマージュ作という印象が強かったです。エイブラムス自身が初期のスピルバーグ作品へのオマージュを組み込んだと公言していることからも、彼が特別な想いを込めていることが解ります。
貨物列車から飛び出たものがエイリアンであったことは「未知との遭遇」を想起させ、終盤にはそのエイリアンと主人公ジョーがテレパシーで心を通わせるというシーンがあり、「E.T.」を彷彿とさせます。その顔もどこかE.T.っぽい面影が漂うものでした。子供たちが自主制作映画のために施すゾンビメイクは、ハロウィンの仮想ともリンクしますし、「E.T.」公開当時には爆発的人気となった自転車を乗り回すシーンも存在します。空軍の移送バスで子供たちが移動している最中にエイリアンが襲ってくるシーンは「ジュラシック・パーク」、その続編「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク」を思い出しました。エリザベスが死んだことに悲しむ父、そして息子のジョーの姿からは「マイノリティ・リポート」を連想させ、これは本作のテーマのひとつである相手を赦し、つらい過去を乗り越えて未来を生きるという部分においてもリンクするものだったと思います。
スピルバーグ監督作品以外にも、多数のオマージュがあったと思います。子供たちがみんなで真相にたどり着こうと奮闘する様は、リチャード・ドナー監督の「グーニーズ」っぽかったですし、子供たちが活躍するという点において言えば、スティーブン・キングっぽい感じも漂っていました。「スタンド・バイ・ミー」も確かにイメージでき、友情を含んだ夏らしい爽やかな風が吹き抜けている感じもありましたが、自分はむしろ「IT」のほうが強く頭に浮かびました。列車から出たものについて言ってはいけないという部分や、最後にガレージに開けられた穴から地下に潜って、巨大なエイリアンと対面するあたりなどで。この三作品に共通して言えるのは、子供たちがすごく仲の良いこと。本作の子供たちもとても仲良しで、みんなで集まってダイナーで食事をしながら、列車から飛び出たものについて話をするシーンでは、仲が良いからこその悪口の言い合いをしたり、路上でみんな陽気に歌ったりするシーンがあり、この仲の良さがなんとも可愛らしく、楽しい気分にさせてくれました。
キング原作作品ではもうひとつ、「ミスト」とシンクロするところもありました。小さな田舎町に突如として得体の知れないものがやってくるという設定は、スピルバーグ作品の「宇宙戦争」にも通ずるものですね。
エイブラムスは過去に「クローヴァー・フィールド/HAKAISHA」を制作していますが、大のゴジラファンでもあるようです。本作に出てくるエイリアンは、人間の非情な行いや強制的な実験によって、その人格を大きく歪められてしまっていました。これは初期のゴジラが水爆実験の影響により誕生したこと、つまりは愚かな人間の過ちから生まれたこととリンクしていると思います。
未知の物質であるキューブは、スピルバーグ制作で作られたマイケル・ベイ監督作「トランスフォーマー」を思い出したりもしますね。名作「ゾンビ」でホラー映画に金字塔を打ち立てたジョージ・A・ロメロ監督の引用もありました。アルフレッド・ヒチコック監督のパロディも盛り込むなど、とにかくさまざまな映画作品や監督たちへのオマージュが散りばめられ楽しませてくれます。エイブラムス監督が今に至る道の中で通り過ぎていった、思い出深い映画たちが、愛を込められて本作で描かれていたように思いました。
そんな過去の作品のモチーフとオマージュが多数投影されていながらも、エイブラムス監督らしさが失われていないことが、もっとも秀逸で素晴らしいところだと思います。彼の代表作のひとつと言えばTVシリーズの「LOST」が挙げられますが、作品の展開の仕方というか組み上げ方の基本については「LOST」を強く意識しました。なかなか姿を表さない「飛び出たものの正体」や、子供たちが謎を解明していく中でエリア51にて行われていた過去の実験の記録フィルムを見つける辺りなどは、実に彼らしい描き方だと思います。またアクション面においてもそれは顕著に見られ、貨物列車の脱線事故シーンは「LOST」の冒頭である飛行機墜落とリンクします。エイリアンの洞窟に入った際、暗がりの中から巨大な手がぬっと出てきて、瞬時に保安官を捕まえていくシーンなんかも彼らしい演出です。思わず「あっ」と驚いてしまうような。オマージュを盛り込みながらも、それに負けない個性で作品は味付けされ、それが見事なケミストリーを生み出しています。エイブラムス監督は本当にまとめあげるのが上手い人です。


  たくさんの想いから考えさせてくれる

さまざまなメッセージが込められた本作は、観る人によって何を感じるのかという部分においても千差万別であると思います。自分が大きな柱として感じたのは二本あって、その一本は「想い(気持ち)」というものでした。
登場人物たちはそれぞれに違った感情を持ち、それによってすれ違ってしまったり、切なかったり、悲しかったりします。ジョーの母親エリザベスが事故で亡くなったことで、父親のジャクソンは悲しみの中にいました。エリザベスの死にはアリスの父であるデイナードが深く関わっており、飲んだくれで有名なデイナードも罪の意識からちゃんと謝りたいと一度は葬式に顔を出しますが、その気持ちをジャクソンは受け入れられませんでした。事故死をきっかけに、ジャクソンと息子ジョーの間には微妙な気持ちの差が生まれてきます。ジョーは今までと同じように、友達と一緒に映画を撮りたいと考えていますが、ジャクソンは6週間のサマーキャンプに行かせようとしました。これはジョーのことを考えての行動にも見えますが、同時に息子の顔を見ていると死んだ妻を思い出してしまうということもあるのではないかと思います。
デイナードはジャクソンに拒絶されたことで、その心を更に閉じ込めてしまいました。それは娘のアリスにまで飛び火する始末。彼の唯一の味方はアリスだけだったというのに、本人もそれを痛いほど感じているというのに、思わず出て行けと暴言を吐いてしまいます。決してアリスを拒絶したいわけではなく、どう表現していいのか解らない不器用さが伝わってきました。アリスはジョーに対して恋心を持ち、惹かれていきますが、その根底には自分の父がジョーの母親の死に関与しているという無意識下での罪の意識もあったのではないかとも感じたりしました。
アリスを巡って対立してしまうジョーとチャールズの関係も興味深かったです。自分が好きだったから映画に誘ったのに、気がつけば二人は両想いになっている。自分と同じように、ジョーが一方的にアリスを好きなのではなく「両思いなのがムカツクんだ」というチャールズの言葉は、自分の気持ちが届かないことから生まれる嫉妬心は時として強大な憎悪を生み出し、いつしかそちら側に気持ちがスライドしてしまう可能性を提示したものだと思います。誰かを好きになるというのは素晴らしいことでありながら、同時にその想いが届かずに悲しみにくれる人もいる。恋愛感情がもたらす、悲しきすれ違いが伝わってくる部分でした。しかし、そこを友情によって乗り越えるというのは、友という深い関係性が伝わってきて良いなと思いました。まだ子供で可愛らしい恋だったため、ドロドロとした感じにならなかったのも良かったです。
対立する怖さが顕著に描かれ伝わってきたのは、エイリアンと人間の関係。そしてウッドワード博士と空軍大佐ネレクの関係です。ウッドワードはエイリアンと触れたことで心を通わせ、その心で何を思っているのかを感じ取ります。しかし、それによってウッドワードとネレクは対立し、最終的にネレクの薬物投与の指示で命を落とすことになりました。この部分は戦争の縮図、または火種という印象を強く感じた部分でもあります。お互いに違う考えや気持ちを持っていたため、それが衝突した結果、ウッドワードは列車に衝突するという暴挙に出ることになり、ネレクは手に余る存在と感じ殺してしまいました。解り合えない関係からの対立は結果として暴力的なものとなり、力によって相手を制圧し、自分の気持ちを優先させようとしてしまう。それが戦争の始まりの根源と成りえることだと、ここからは見えてきます。それはエイリアンの登場によって更に解りやすいものになりました。長年に渡る非人道的な監禁や実験の結果、エイリアンの精神は蝕まれ、心には人類に対する憎悪しかなくなってしまっていました。思うに、きっと最初はそうではなく友好的な存在だったはずです。それは最後にジョーを殺さずに助けてくれたところや、ウッドワードが身を挺してまで解放しようとしたことからも伝わってきます。今回のエイリアンはE.T.とは違い、人間に襲いかかり、さらにはそれを喰らうというシーンも存在する狡猾で獰猛な存在でしたが、この部分からはエイリアンの恐ろしさよりも、むしろ人間の恐ろしさが浮き彫りになった気がしました。ただ帰りたがっていただけの存在に対し、そこまで精神崩壊をさせてしまう人間の強欲さと狡猾さ。エイリアンだけでなく、自分たちが他の生物や地球そのものに今までしてきたことを思えば、人類は喰らわれても仕方のない存在なのかもしれません。
自分の気持ちを解ってほしいと哀願しているにも関わらず、その気持ちを無視して自身の気持ちを押しつけることは、お互いの間に悲しみしか生まず、挙句には報復という出口の見えない対立関係(戦争関係)へと発展して行ってしまうのではないか。そんなメッセージを感じた部分でした。

恋する気持ち、愛する気持ちが持っている強さも描かれていました。アリスを思うジョーは、危険であることを承知で彼女を助けに街へと向かいました。ジョーを大事に思うジャクソンもまた、空軍を相手に奮闘し、息子を守るために行動をおこします。チャールズのイケてる姉に恋心を抱くビデオショップの店員でもそれは描かれていて、避難勧告が出されている街へ車を走らせてくれたりします。誰かを想う気持ちは、火の中に飛び込むほどの勇気と行動力を起こすことが出来る。そんな「想いの強さ」が伝わってくる部分でした。
チャールズの両親が、母を亡くして悲しみの中にいるジョーを気遣って、優しい言葉をかけてくれるシーンも良かったです。これは大家族だからこそ生まれる暖かさのひとつとも取れましたが、大切なのは人間には人の気持ちを察したり、心を理解することが出来るということです。劇中ではエイリアンに触れることで、その心を「テレパシーで感じ取る」ことが出来ましたが、人間はテレパシーなどなくても、相手の心を測ることができる生き物だということが、全編通して描かれていたと思いました。
うまく伝えられないからこそすれ違い、対立してしまう人間と心。でもだからこそ、人間は相手のことを強く想い、解り合いたいと努力し、願うのではないでしょうか。さまざまな「想い」を見ることが出来ました。


  生きていれば、全て乗り越えられる

もう一つの大きな柱、それは「生きる」というもの。これはジョーがエイリアンと対面したときに言う「君の悔しさや苦しみは解る。でも、いいじゃない。生きているんだから」という言葉で示されていたと思います。
この言葉は、母エリザベスを失った悲しみがあるからこそ出てくるものですが、生きている者は命と、その生の時間と、そして共に生きていってくれる者が居てくれることで、どんなことも乗り越えていくことが出来ると言っているように聞こえました。
この部分は、主にジョー、ジャクソン、デイナード、アリスによって強く描かれています。愛する妻が事故で亡くなり、その原因とも呼べるきっかけを作ってしまったのがデイナードでした。エリザベスは生まれ持った優しさから、飲んだくれのデイナードの代わりに仕事に出て、悲惨な死に方をしてしまいました。悔しさのぶつけどころがないジャクソンは、思わずデイナードにその矛先を向けてしまいますが、泣きながら自分の苦悩の告白とも取れる謝罪を聞き、「あなたを恨んでいない。仕方のないことだった」と、自分に言い聞かせるように言いました。二人は相手を通して自分自身とちゃんと向き合い、今までの自分の姿や、受け入れがたかった気持ちを受け入れることが出来ました。それはこれから「生きていく」ために何よりも必要で、大切なものだったのではないでしょうか。
アリスは自分の父がエリザベスの死に深く関わっていることを知って、苦悩していました。デイナードの妻でありアリスの母親が出ていってしまっても、仕方のないような有様の父の姿を見ても、それでもアリスにとっては大切な父だったのだと思います。彼女はジョーに、エリザベスの死の原因を作ったのは父だったと告白しますが、これは彼のことを好きだったということもそうですが、何よりも大切な父を赦してほしいと思ったからではないでしょうか。エイリアンが帰還する際、強く抱きしめ合うデイナードとアリスの姿からは、お互いを大切に思っていることがしっかりと伝わってきました。
一番強く描かれている人物は、やっぱり主人公のジョーでした。カギとなってくるのは、母親の姿を記録した家族のメモリアル・フィルムと、彼が形見のように持っている母と幼い自分が映った写真が入っているロケットです。自室にてアリスと一緒に家族フィルムを見ていたジョーは、そこに映る母の姿を観て言います。「これを見ていると、まるで母さんが死んでいないんじゃないかと思えてくる」と。フィルムや映画、ホームビデオの最大の特徴の一つは、それが録画された当時の記憶や空気までもが、はっきりと残されるということにあると思います。そしてそれは形の無い人の心の中の記憶や思い出とは違い、ちゃんと形あるもので残っていくものでもあります。例えば、今は亡くなってしまった大好きな映画スターたちとは、彼らが出演した映画を観ることで、いつでも生前の姿を目にすることができ、作品と共に自分たちの中で永遠に生きていく存在であると言えます。
しかし、本作で描かれているのは身近な存在の死。そしてその大切さにおいても、ほかの何にも変えることのできない者の死についてでした。そういった人物の死というのは、悲しみもものすごく大きく、簡単に忘れることなんて出来ないものです。本作ではその辛さという面をジョーとエイリアンで描いてくれました。エイリアンは人間たちから様々な実験をさせられ、何年も苦しめられ続けてきました。ロズウェル事件をヒントにしていることから考えると、1947年に地球に落下してから22年近くも辛い目にあわされたことになります。エイリアンの人格が崩壊してもおかしくない年月です。それでもジョーはエイリアンに言いました。「大丈夫、生きているんだから」と。これだけでエイリアンが納得したとは思えませんが、テレパシーでジョーの悲しみを感じたこともあったのだと思います。大切なのは、辛い過去を引きずってそれに囚われてしまい、怒りに身を任せてしまったりせずに、これから先の明るい未来について考えるべきだと、この部分では訴えられている気がします。
ジョーの立場から描かれたのは、同じ過去であったとしても、幸せな過去についてでした。本作ではこれについても同様に囚われてはいけないと言っている気がします。幸せだった過去ばかりを振り返って、現在や未来を見ず、空虚なものにしないでほしい。大事なのは過去ではなく、これからくる未来なのだという。最後に宇宙船を作り上げるため、キューブは様々な金属を磁石のように集めますが、その時にジョーが持っていたロケットも飛んでいきそうになりました。それをジョーは慌てて掴みます。ですがその手はその後、静かにそのロケットを放しました。母親のことはいつまでも忘れることはないでしょう。でも、その幸せだった過去に囚われたりはせず、ジョーはそれを乗り越えて、これから未来に向けて「生きていく」歩みを始めた瞬間だと思いました。
どんなに悲しいことだって、どんなに辛いことだって、生きていれば絶対にそれを乗り越えることができる。過去を忘れなくたっていいし、思い出したっていい。でも、それに囚われたりせずに、前を向いて生きていってほしい。だってそこには、たくさんの友達や好きな人や家族がいてくれるんだから。本作にはそんな前向きな「生きる」が描かれていたと思います。

ロケットが飛んでいくことに関して、もうひとつの見方。
この部分はエイリアンが最後に宇宙へと飛んで行ってしまうことにもリンクしていたと思います。ジョーにとってロケットは大切な宝物でした。そしてエイリアンもまた、人類や科学者たちにとっては大事な宝だったのではないでしょうか。彼から得られるものは多く、簡単には手放したくない存在だったことでしょう。アメリカ政府や科学者たちは、ジョーが思わずロケットを逃がすまいと掴んだように、エイリアンを掴み続けていました。しかしその結果、双方ともに最悪の結果が訪れてしまったのです。これは「ロケットを持ち続けていても悲しみに囚われ続けてしまうだけ」、エイリアンに置き換えたならば、「彼を無理やり監禁し続けていても、悲しい結果を生むだけ」と考えられないでしょうか。進化するために研究することは必要なことだと思います。しかし、人間と同じような知性がある生き物(あるいは人間そのもの)と、双方の合意が成されぬ状態であったならば、いくら研究を続けても得られるものは何もないと思います。まさに「囚われ続けてしまった」ことからの悲しい結末。そんなことが伝わってくる部分でした。もしアメリカ政府がエイリアン確保に囚われず、一緒に宇宙船を作り直して彼を宇宙に返していたらどうなっていたでしょう。もしかしたら、彼は地球人を友好的な生物と捉え、再び仲間と共に地球にやってきて、素晴らしい関係を築けたかもしれません。今となっては、あのエイリアンは地球人に対して敵意しかもっていないと思いますので、再びやってくることはきっとないでしょう。一度生まれた感情は、簡単には変わらないものです。が、本作では「生きていることで、全て乗り越えられる」というメッセージが込められていますので、もしかしたら長い長い時間をかけて、その苦しみを乗り越えることが出来たとき、エイリアンは再度、地球とコンタクトを取ってくれることもあるかもしれません。そのためには自分たちもまた、過去を戒めとし、考え方を変えておく必要があるのではないでしょうか。


  70年代を舞台に、投影される現代

本作の舞台は1979年ということで、その時代背景を表すものがいくつも登場してきました。子供たちのファッションや自転車、8mmフィルムを使った映画制作、ヒッピー崩れのようなビデオショップ店員がクスリをキメてフ~ラフラ。未だ残るベトナム戦争で植え付けられた軍事力による恐怖など、さまざまな形で当時を形成していたと思います。チャールズの大家族なんかも、少子化の今とは違う30年前の姿を強く見ることが出来る部分でした。
特筆すべきは、79年が舞台でありながら、そこに込められたメッセージは懐古的なものではなく、実に現代的なものが描かれているということです。これはとてもエイブラムス監督的であると思います。
「E.T.」とリンクする部分が多い本作ですが、「E.T.」では主役の少年エリオットは母子家庭で、離婚した母親と兄妹と共に生活をしています。本作の主人公ジョーは事故で母親を失ってしまい、父親だけの片親の家庭になっています。またアリスの母親もダメ男のデイナードに愛想を尽かし、家を出てしまっていました。「E.T.」のラストでは、飛び立つ宇宙船をエリオット親子と、そのそばにキーズ博士という男性が寄り添って見上げるというカットが存在します。これを観て、映画解説で有名な故・水野晴郎氏はこんなことを言っていました。「アメリカでは離婚率がすごく高いですが、この姿は家族の大切さを表現しているように思います。お母さんと、隣には父親のような男性がいて、そして子供たちがいる。家族構成がちゃんとしている。両親が共に居てくれること、かわいい子供たちが居てくれることは、とても素晴らしいことなのではないでしょうか」 この言葉で伝わってきたのは、健全なる家庭の理想像とでも言いましょうか、それはすごく当たり前の形でありながら、何よりも素晴らしいことなのだということでした。
しかし、本作のラストは違います。ジョーとアリス、どちらの子供も父親とは抱き合いますが、母親はどちらも不在でした。それに近しい存在も登場してきません。これは何を意味するのかと考えたとき、実に現代を表している気がしました。アメリカの離婚率は年々上昇する一方です。片親の子供たちも可哀想なことにたくさんいると思います。そんな今を生きる子供たち、そして親に、エールを贈っているのではないか。自分はそう思いました。これは「生きていれば、乗り越えられる」というメッセージともリンクします。たとえ片親であったとしても、親と死別してしまったとしても、生きていれば乗り越えられるのです。「E.T.」公開当時は、その離婚率の上昇の抑止力となればと描かれた「理想的な家庭環境の提示」が成されていたのに対し、本作ではある意味でそれを突き抜けて、次なる段階の家庭環境になってしまった現代に対して、「強く生きていこう」というエールが込められていた気がしました。

子供に銃を向けることが大嫌いなスピルバーグ監督。「E.T.」をデジタル・リマスターしたときには、警官が手にしていた銃をトランシーバーに変えるという徹底ぶりでしたが、本作の子供たちは、圧倒的な軍事的武力の危険に晒されることになりました。街中を戦車が走り、大砲が轟き、子供たちはその中を逃げるように走って、挙句には負傷する子供まで出てしまいます。移送バスのシーンでは、子供の前で大人たちが銃を使い、エイリアンを攻撃。それに対し、エイリアンは人間を次々に殺していきました。それを見て、マーティンは思わず吐きます。子供たちは冒険に憧れるものですが、正直、こんなのを目の前で見せられたら、トラウマになってしまう可能性のほうが高い気がします。
79年にはベトナム戦争はすでに終結していましたが、未だ世界(アメリカ)には「戦争と死」の文字が人々の頭から離れていなかったのではないでしょうか。この軍事力の表現はそれが描かれながら、やはり現代の意味するものでもあると思いました。一見、安全に見える現代ですが、実は身の回りの危険性は飛躍的に伸びているのではないでしょうか。子供たちが愉快に映画を作ったり出来るその裏で、世界は大人子供など関係なく、その命が奪われてしまう可能性が高くなっているのではないか。そんなことを感じたりしました。
また、街中を闊歩する戦車のコントロールが利かなくなり、ところ構わず大砲を発射するシーンからは、強力な軍事力は身を守るためにありながら、それゆえに人々を危険な目に合わせてしまうのではないかとも取れる部分でした。敵が居てこその軍事力。では敵が居なかったならばそれらは必要でしょうか。世界がもし友好的であったならば、人間でもエイリアンでも関係なく、そこに武器は必要なくなるのではないか。敵をやっつけるため、自らの身を守るために強固なものにされた武器は、同時に自分たちの命を奪う存在でもあるという。それはつまり、自ら自分の命を危険に晒しているようにも見えないでしょうか。武器よさらば、LOVE & PEACEを感じた部分でした。




最後に、本作で一番面白いエンドクレジットの映画について。
本作のタイトル「SUPER 8」とは映画祭の名前でした。子供たちはスーパー8映画祭に出品するために映画を撮っていました。子供ながら、その出来はとっても良くて、ゾンビ映画なのになんとも面白く楽しい作品でした。子供たちがジョージ・A・ロメロ監督に影響を受けたことは、劇中にロメロ科学という会社が出てくるところからも解ります。ロメロ監督が「ゾンビ」を世に送り出したのが1978年。全米公開は1979年ですから、子供たちは映画館で「ゾンビ」を観て、自分たちも映画を作ろうと思ったのでしょう。映画本編のシーンの中で、列車事故や今起きていることを背景に映画にしてしまおうと考えたチャールズは、空軍が捜索する前でカメラを回したりします。そのシーンもしっかりと入っており、まさに「映画の中の映画」が完成していましたね。
子供たちはみんな個性的で男女問わず可愛い子達ばかりでしたが、個人的にはケアリーが一番好きでした。これは本作のネタバレなし日記を読んでくださった人は解ると思いますが、彼がゾンビ役で出てくるということも好印象のひとつです。爆発物に興味があって、ことあるごとに「あの爆発見たっ!?」と、嬉しそうな顔をするのも良いですね。
映画のラストには椅子に座ったチャールズが「どうも、監督のチャールズです」なんて挨拶して、まるでアルフレッド・ヒチコック監督を思わせる演出。なぜ監督役に太った少年を配役したのか、「なるほど」と納得した面白い部分でした。模型を使った列車事故が再現されていたところから、チャールズとジョーが仲違いせずに、約束を守って仲良しのままでいることも分かったのも嬉しかったです。
さて、子供たちが精魂込めて作り上げたこの作品、果たしてスーパー8映画祭でグランプリを取ることが出来たでしょうか。個人的には是非ともグランプリをあげたいと思いましたが、皆さんはどう感じたでしょう。このフィルムが終わったあと、エンドクレジットではザ・ナックのMy Sharonaがかかります。この曲は映画が舞台となった79年の大ヒット曲で、今もなお映画やTV番組などでよくかかる曲でもあります。しかし、ザ・ナックはこの曲以外はヒットを飛ばせず、所謂、一発屋で終わってしまったバンドでもありました。そのことから察すると、もしかしたら子供たちの映画はグランプリを取ることが出来たかもしれませんが、その後は映画制作をしなくなってしまったかもしれませんね(個人的には大人になっても映画を撮り続けていて欲しいと思います。スピルバーグやエイブラムスのように)。でもスーパー8映画祭では、映画祭の歴史に名を残す素晴らしい名作の一本として残っているのかもしれません。だけど一番大切なのは、映画祭で表彰されるとかではなく、みんなで心から楽しんでひとつの作品を作り上げることなのではないでしょうか。ザ・ナックだって、それは同じ。My Sharonaはとにかくバンドメンバーが楽しそうな感じが伝わってくる気持ちの良い曲です。結果はどうあれ、子供たちは映画をすごく楽しんで作ったことでしょう。その気持ちよさは夏の日差しのように、気持ちよく伝わってきました。そしてもちろん、「SUPER 8」という本作も、そんな子供みたいに夢中にさせてくれる気持ちよさでいっぱいの作品でした。


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