軽井沢からの通信ときどき3D

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軽井沢文学散歩(2)堀辰雄

2017-11-10 00:00:00 | 軽井沢
 今回は堀辰雄。大正末期から戦中にかけて活躍した小説家であり、21歳で書いた「甘栗」が処女作。軽井沢を舞台にした「美しい村」「風立ちぬ」「菜穂子」などの作品で広く知られる。今回は、終の棲家であり、現在は堀辰雄文学記念館となっている信濃追分の旧住居と、ここに至る堀辰雄の軽井沢での住まいについて紹介しようと思う。

 堀辰雄(本名)は1904年(明治37年)12月28日、東京府東京市麹町区(現東京都千代田区)にて出生。実父・堀浜之助は広島藩の士族で、維新後上京、東京地方裁判所の監督書記を務めていた。母・西村志気は、東京の町家の娘。「辰雄」という名前は、辰年生まれにちなんで命名された。

 中学時代、数学が好きで未来の数学者を夢見ていた辰雄を、文学の方へ手引きし、目覚めさせたのが友人の神西清であった。同期には、小林秀雄、深田久弥、笠原健治郎らがいた。

 高校在学中の1923年(大正12年)5月に三中の校長である広瀬雄から室生犀星を紹介され、8月に室生犀星と共に初めて軽井沢に来ている。

 1925年(大正14年)4月に東京帝国大学文学部国文科に入学。室生犀星宅で中野重治や窪川鶴次郎たちと知り合うかたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌『山繭』に『甘栗』を発表する。

 この時代に活躍した主な文士の生年と没年を表にすると次のようである。


明治・大正期に生まれ活躍した文士と、その中の室生犀星と堀辰雄(赤で示す)

 これをみると、室生犀星に誘われ、堀辰雄が初めて軽井沢を訪れた1923年(大正12年)というと、室生犀星が34歳、堀辰雄は18歳であった。この旅が契機となり軽井沢、信濃追分は堀文学における代表作の舞台となるが、室生犀星はこのように多くの詩人、作家の世話をよくしていた、細やかな心配りをする人であったといわれている。

 この後、堀辰雄は軽井沢に長く滞在することになるが、軽井沢での最初の住まいは、1938年(昭和13年)に結婚した多恵との新婚宅であった。結婚後すぐ軽井沢に住むことを決めた堀夫妻は、いったん室生犀星の別荘に住んで物件を探し回り、愛宕山水源地近くの835番(下の地図の「1」)の欧州風の大きな別荘を借りて半年間暮らした。

 その後、鎌倉や東京・杉並と軽井沢を往復しながら、1939年(昭和14年)7~10月に638番別荘(下の地図の「2」)、1940年(昭和15年)7~9月には658番別荘(下の地図の「3」)を借りて滞在した。

 1941年(昭和16年)にはアメリカ人スミス氏がオーナーだった1412番山荘(下の地図の「4」)を手に入れる。以後、1944年(昭和19年)までは夏になるとこの山荘で過ごした。この山荘には堀辰雄の没後に、画家の深沢省三・紅子夫妻が住んでいる。

 これら堀辰雄が住んだ別荘/山荘のうち、現存しているのは1412番山荘のみで、今は軽井沢高原文庫内に移設されている(当ブログ2016.11.18付で一度紹介している)。


堀辰雄が1938年から1944年までを過ごした4つの別荘。835番別荘「1」、638番別荘「2」、658番別荘「3」、と1412番山荘「4」(地図は©2017 Zenrin, ©2017 MICROSOFTより)。


旧軽井沢から移築した堀辰雄が愛した1412番山荘 1/2(2016.11.13 撮影)


旧軽井沢から移築した堀辰雄が愛した1412番山荘 2/2(2016.11.13 撮影)


別荘番号の1412が見える(2016.11.13 撮影)


「堀辰雄1412番山荘」の由来を示す説明板(2016.11.13 撮影)

 この説明板には次のように書かれている。

「堀辰雄の住んだ軽井沢一四一二の山荘

 昭和十六年の春求めたこの山小屋には、四年続けて初夏から秋にかけて過ごした。軽井沢でも古い古い建物のひとつに数えられている。大正七、八年頃、アメリカ人スミスさんの所有となり、戦争で帰国することになって、私たちが譲り受けた。よく燃える暖炉があり、炭で焚く風呂があった。厳しい冬を過ごすために追分に移ってから後、この山小屋には、戦争中も住む家を失ったドイツの婦人が住んでいたこともあった。辰雄の没後、深沢省三・紅子画伯夫婦が大切に住んで下さったので、やっと今日まで持ちこたえて来たが、崩壊寸前で「高原文庫」のかたわらに「堀辰雄の愛した山荘」として移築され、残されることになったのである。-堀多恵子「私たちの家・家」より」

 上記の説明板にも記されているように、4か所の別荘に暮らした後、二人は信濃追分に15坪ほどの小さな住まいを建てている。この住居は1951年(昭和26年)夏に完成、堀夫妻は同年7月1日に入居している。おかねがなかったので最小限の間取りを二人で考えたというこの家には、床の間のある四畳半と、その隣の三畳間が真ん中にある。堀辰雄は晩年、この四畳半の部屋で仕事をし、読書をした。三畳間の方は、婦人が看病につかれて休むための部屋であった。床の間には川端康成が新築祝いに贈った自筆の書が掛けられている。床の間の脇の障子窓を開ければ、寝床からでも雄大な浅間山を一望できた。

 当初は別荘として夏の間だけ過ごす予定であったというが、多くの来客があり、また自身の病状が重くなっていたため、その後6畳の茶の間と台所、風呂場を増築し、井戸も掘り、通年使えるようになった。

 この新居では2年足らずの間過ごすことになるが、執筆活動だけではなく旅行も思うようにできず、数十通の手紙を知人たちとやりとりしたのみであったという。しかし、買い求めた本が次第に増え、前宅に置いたままになっていた書籍もあったため、庭に茶室風の書庫を造った。書棚は5段で書庫の2面を占めている。この書庫がようやく完成したのは堀辰雄が亡くなる10日ほど前のことであった。

 室生犀星は、その著書「我が愛する詩人の伝記」の中で、堀辰雄について次のように書きしるしている。

 「大正十三年八月はじめて信州軽井沢に、私を訪ねて来て鶴屋旅館に滞在(と書かれているが、前年にも一緒に来ていることは、先に書いた)・・・。
 堀は軽井沢の気候とか町の外の道路を愛した。鶴屋主人は堀さんがあんなに偉い人になるとは思わなかったと言い、後にいつのまにか堀センセイと呼ぶようになっていた。
 翌々年かに追分に行き、この町が気に入って死ぬまでこの地に滞在、たえ子夫人を貰い、家を建ててとうとうこの地で亡くなった。これほど追分の村里を愛した人はなかろう。ざっと三十年も軽井沢と追分にいたわけである。
 軽井沢を愛好していた詩人たちに津村信夫、立原道造、野村英夫らがいて、堀の数少ない友達になっている。少し遅れて福永武彦、中村真一郎が彼の家の茶の間に座っていた。中村真一郎はむんずりと黙り込み、福永武彦は早口の大声で話し、堀はにやにやと何時もきげんが好かった。」

 堀辰雄が最後に過ごすことになった追分のこの家は、それまで暮らした軽井沢からは西にやや離れた、信濃追分駅近くの旧中山道から少し入った場所にある。現在は軽井沢町が譲り受け、堀辰雄文学記念館として一般公開している。


堀辰雄文学記念館は、信濃鉄道の信濃追分駅から徒歩30分程度、旧中山道脇にある


堀辰雄文学記念館の入り口(2011.8.14 撮影)


堀辰雄旧宅外観 1/2(2011.8.14 撮影)


堀辰雄旧宅外観 2/2(2011.8.14 撮影)


堀辰雄が暮らした四畳半の居室とその隣の三畳の部屋が見える(2011.8.14 撮影)


川端康成が新築祝いに贈った自筆の書(2011.8.14 撮影)


女優の高峰三枝子が堀に贈った籐椅子と机(2011.8.14 撮影)


書庫内部の書棚(2011.8.14 撮影)


書庫におかれている説明板(2011.8.14 撮影)

 ところで、室生犀星の次に堀辰雄のことをこのブログに書こうと思っていたある日、大阪の古書店に立ち寄った時、偶然「風立ちぬ」の背表紙が目に入った。手に取ってみると昭和13年(1928年)に発行された初版本の復刻版(昭和49年発行)であった。後ろのページには、昭和十三年四月十日発行、定価二圓と書かれている。この復刻版がどこまで原書を忠実に再現しているかは判らないが、本の表紙と、箱の様子は次の写真のようなものである。


偶然古書店に立ち寄り見つけた、「風たちぬ」の初版・復刻本の箱と表紙
 

「風たちぬ、いざ生きめやも」の詩句が書かれているページ

 2013年に宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」で話題となり、多くの観光客がこの堀辰雄文学記念館を訪れた。実在の人物である堀越二郎をモデルに、その半生を完全に創作して描いた作品であるが、堀辰雄の小説『風立ちぬ』からの着想も盛り込まれているとされている。そのため映画のポスターには両名の名を挙げており、2012年に公表された版では「堀越二郎と堀辰雄に敬意を表して」、翌年公表された版では「堀越二郎と堀辰雄に敬意を込めて」と記されている。




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