底冷えしている気候なのに雪が降らない12月に年末を感じる事ができない今日この頃、皆様、いかがお過ごしでしょうか。
「雪は降る、あなたは来ない・・・」という歌がありますが、メロディーと歌詞の物悲しさで何となく、冬って寂しいのかも、と感じてしまいがちですが、よく考えると、雪が降っても待ち人が来ない場合、完全にすっぽかされております、帰宅して熱い風呂にでも入る事をお勧めしますな、私は。
冬が寂しく感じてしまうのは雪が降っているせいではなく、勿論、寒さがその感情をもたらすのでしょうが、寒さ=寂しさ、を払拭するには「温かいもの」、「温かい食べ物」となるのではないでしょうか。
という事は、という事はですよ、鍋なんですかね、話の流れ的に。
鍋のような、共有的食事、又は皆で囲む系食事の場合、誰か独善的な人が仕切らないとうまく回らない事が時としてあります。
例えば、その鍋の内容を決める時、
「シャブシャブがいいんじゃないかなぁ、〆はきしめんで。」
「おっ、いいね、シャブシャブ。豚肉だと安上がりだぜ。」
「豚シャブね、いいかも。ヘルシーだしな。」
「私、シャブシャブ嫌い。」
「・・・・・・・」
「だったらさ、鯛でも買って来て、鯛ちりは?」
「いいね、いいね、最後は雑炊でな!」
「俺、自慢じゃないけど、雑炊作るの得意だぜ。」
「私、鯛、嫌い。」
「・・・・・・・・」
「じゃあさ、寄せ鍋は?」
「あっ!それ名案!柚子の皮刻んで入れると高級感出るんだよな!」
「私、柚子、嫌い。」
「お前は呼ばねーよ!」
と、場の雰囲気を乱す人間が一人でもいると決まらないどころか人間関係にも影を落としてしまいます。
そんな時、
「鱈ちり、決定!」
や
「モツ鍋で行きます。」
のように、人の意見に左右される事のない、「鍋ファシスト」がいれば「鍋会」自体にも一本筋が通る、というものでしょう。
しかし、「鍋ファシスト」への道のりはそれほど簡単ではありません。
人の意見を封じ込めるくらいの「鍋」の基本を知り尽くしていなければならないからです。
基本を知らずして亜流に走るべからず、とでも言いましょうか、基本を知らない人間の創作はただの思いつきである、とでも言いましょうか、自分の「鍋道」を貫くには鍋の何たるかを知らなければなりません。
仮に、「魚介のトマト鍋」を鍋ファシストが提案し実行しようとした際、
「それって、ブイヤベースのアレンジっすよね。」
などと軽々言おうものなら
「馬鹿者!ズッパ・ディ・ペッシェ!正統派イタリアンじゃ!」
とやり込められてしまう可能性があります、気をつけましょう。
提案する際も、
「鍋様!(鍋ファシストの愛称)おでんなんかはどうでしょう?」
「おでんか・・・貴様が片岡鶴太郎の役をするのか?」
「はっ?」
「ひょうきん族の話じゃ、まぁ、よい。おでんを鍋とカテゴライズするか、今宵、考えてから結論を出そう。」
と、やんわりと断りの方向に持っていくかもしれません。鍋ファシストは厳しいだけではいけないのです、人の気持ちを考えて断りますから再考を促す事をお勧めいたします。
しかも、鍋ファシストは意外に優しいのです。
「鍋様、俺、今の仕事に自信がなくなりました。自分のしている事が果たして会社に反映しているのか、悩んでるんです。」
「そうか・・・じゃあ、今夜は、大根と牛蒡の山椒鍋にしようかの。」
「鍋様、その心は?」
「花を支える茎、その花と茎を支える根、でも、根は見えねぇんだな。みつお」
「目立たない根が一番が頑張ってる・・・鍋様!俺、俺、頑張ります!でも、山椒は?」
「人生、ピリリと辛いものですよ、歌丸さん。」
「ううう・・・鍋様・・・座布団、全部持ってけ!」
「おいおい、山田君、座布団を一気に引き抜いてコケさせるなよ、ガハハハハ。」
と励ましてくれるかもしれません。
山形ではこの季節になると「平成鍋合戦」という催し物があります。
なぜ鍋で競い合わなければならないのか軽く疑問でもありますが、参加者(作る側)は楽しいかもしれません、大変でしょうけどね。
その昔、とあるところで出した「ABC鍋」というのがあったと聞いた事があります。
その土地の特産物を集めたそうですが、
「A、アップル。B、ビーフ(牛肉)。C、カープ(鯉)」
何処を狙ってるか判りませんな、この鍋では。
具の豪華さ、意外性に審判を下されるのではないか、と推測できますが、地鶏と山形牛で丁寧に取ったコンソメに、昔ながらの製法で作っている地元の醤油で軽く味付けをし、地元の豆腐屋さんで作った豆腐を湯通ししたものを煮込み「山形豆腐鍋」というシンプルなものではいけないのでしょうか。
シンプルだからこそ見えてくる事がある、という考え方もあると思うのですがね。
平成鍋合戦、誰が鍋ファシストとして君臨するか見ものですな。
「雪は降る、あなたは来ない・・・」という歌がありますが、メロディーと歌詞の物悲しさで何となく、冬って寂しいのかも、と感じてしまいがちですが、よく考えると、雪が降っても待ち人が来ない場合、完全にすっぽかされております、帰宅して熱い風呂にでも入る事をお勧めしますな、私は。
冬が寂しく感じてしまうのは雪が降っているせいではなく、勿論、寒さがその感情をもたらすのでしょうが、寒さ=寂しさ、を払拭するには「温かいもの」、「温かい食べ物」となるのではないでしょうか。
という事は、という事はですよ、鍋なんですかね、話の流れ的に。
鍋のような、共有的食事、又は皆で囲む系食事の場合、誰か独善的な人が仕切らないとうまく回らない事が時としてあります。
例えば、その鍋の内容を決める時、
「シャブシャブがいいんじゃないかなぁ、〆はきしめんで。」
「おっ、いいね、シャブシャブ。豚肉だと安上がりだぜ。」
「豚シャブね、いいかも。ヘルシーだしな。」
「私、シャブシャブ嫌い。」
「・・・・・・・」
「だったらさ、鯛でも買って来て、鯛ちりは?」
「いいね、いいね、最後は雑炊でな!」
「俺、自慢じゃないけど、雑炊作るの得意だぜ。」
「私、鯛、嫌い。」
「・・・・・・・・」
「じゃあさ、寄せ鍋は?」
「あっ!それ名案!柚子の皮刻んで入れると高級感出るんだよな!」
「私、柚子、嫌い。」
「お前は呼ばねーよ!」
と、場の雰囲気を乱す人間が一人でもいると決まらないどころか人間関係にも影を落としてしまいます。
そんな時、
「鱈ちり、決定!」
や
「モツ鍋で行きます。」
のように、人の意見に左右される事のない、「鍋ファシスト」がいれば「鍋会」自体にも一本筋が通る、というものでしょう。
しかし、「鍋ファシスト」への道のりはそれほど簡単ではありません。
人の意見を封じ込めるくらいの「鍋」の基本を知り尽くしていなければならないからです。
基本を知らずして亜流に走るべからず、とでも言いましょうか、基本を知らない人間の創作はただの思いつきである、とでも言いましょうか、自分の「鍋道」を貫くには鍋の何たるかを知らなければなりません。
仮に、「魚介のトマト鍋」を鍋ファシストが提案し実行しようとした際、
「それって、ブイヤベースのアレンジっすよね。」
などと軽々言おうものなら
「馬鹿者!ズッパ・ディ・ペッシェ!正統派イタリアンじゃ!」
とやり込められてしまう可能性があります、気をつけましょう。
提案する際も、
「鍋様!(鍋ファシストの愛称)おでんなんかはどうでしょう?」
「おでんか・・・貴様が片岡鶴太郎の役をするのか?」
「はっ?」
「ひょうきん族の話じゃ、まぁ、よい。おでんを鍋とカテゴライズするか、今宵、考えてから結論を出そう。」
と、やんわりと断りの方向に持っていくかもしれません。鍋ファシストは厳しいだけではいけないのです、人の気持ちを考えて断りますから再考を促す事をお勧めいたします。
しかも、鍋ファシストは意外に優しいのです。
「鍋様、俺、今の仕事に自信がなくなりました。自分のしている事が果たして会社に反映しているのか、悩んでるんです。」
「そうか・・・じゃあ、今夜は、大根と牛蒡の山椒鍋にしようかの。」
「鍋様、その心は?」
「花を支える茎、その花と茎を支える根、でも、根は見えねぇんだな。みつお」
「目立たない根が一番が頑張ってる・・・鍋様!俺、俺、頑張ります!でも、山椒は?」
「人生、ピリリと辛いものですよ、歌丸さん。」
「ううう・・・鍋様・・・座布団、全部持ってけ!」
「おいおい、山田君、座布団を一気に引き抜いてコケさせるなよ、ガハハハハ。」
と励ましてくれるかもしれません。
山形ではこの季節になると「平成鍋合戦」という催し物があります。
なぜ鍋で競い合わなければならないのか軽く疑問でもありますが、参加者(作る側)は楽しいかもしれません、大変でしょうけどね。
その昔、とあるところで出した「ABC鍋」というのがあったと聞いた事があります。
その土地の特産物を集めたそうですが、
「A、アップル。B、ビーフ(牛肉)。C、カープ(鯉)」
何処を狙ってるか判りませんな、この鍋では。
具の豪華さ、意外性に審判を下されるのではないか、と推測できますが、地鶏と山形牛で丁寧に取ったコンソメに、昔ながらの製法で作っている地元の醤油で軽く味付けをし、地元の豆腐屋さんで作った豆腐を湯通ししたものを煮込み「山形豆腐鍋」というシンプルなものではいけないのでしょうか。
シンプルだからこそ見えてくる事がある、という考え方もあると思うのですがね。
平成鍋合戦、誰が鍋ファシストとして君臨するか見ものですな。