MATILDABAY シェフのブログ ~言葉の錬金術~

フランス料理に限らず、色んな話のブログ内容です。

雨の降らない梅雨にはどうでもよい話が似合う。それは湿気のせいだろう

2016-06-16 17:01:34 | Weblog
 時折見せる鈍色(にびいろ)の空に「おっ、そろそろ本格的に梅雨入りですか?」などと思っていると普通に晴れてしまい、喜んで良いのか悪いのか一瞬戸惑いながらも肌に感じる湿気だけは梅雨の香りという今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 PCキーボードの叩き方を忘れそうなくらい久々なブログ更新でありますが、ここ最近世の中の関心を最も集めたのは「アノ方」の問題ではないでしょうか。
 「厳正なる第三者」「ホテル三日月」などは今年の流行語大賞に出てくること間違いないと思われる「アノ方」の問題は、連日の袋叩き的報道を見ているうちに白いタオルをテレビに投げ込みたくなるくらいでありました。
 しかも「もっと俺に突っ込んでくれ!」と言わんばかりの「アノ方」の受け答えの連続に「実はみんなを笑わせるために・・・」と余計な事さえ思わせるフシがありました。(本人はマジメだったんでしょうけど・・・)
 あの一連の問題の中で一番気になったフレーズは「違法ではないが不適切」という表現だったのではないでしょうか。「法を犯してはいないけれど適切ではなかった」。これは何回聞いても「悪い事とは言い切れない」と捉えられ、最後には「悪い事ではない」とも思えてしまう最強のフレーズであると考えられます。
 このフレーズが一般化してしまうと危険です。仮に飲食店従業員のマニュアルに組み込まれたら大変な事態を招いてしまうでしょう。

「ちょっと!この魚生焼けなんですけど!」

「大変申し訳ございません。違法ではありませんが不適切な調理でした。」

 こんな返答をされたらどうですか。何となく言い返しづらくなります。会話はまだ続きます。

「こんな生焼けの魚食べれないんで新しく魚焼いてください!」

「大変申し訳ありませんお客様、不適切な調理ではありましたが違法ではございません。」

 こう返されたらどうですか。謝罪しているのにも関わらず法律を盾にしてくる・・・しかも何となく生焼けの魚を正当化してそうな・・・。会話は続きます。

「あなたのお店では違法でなければ生焼けの魚を出しても良い、という事なの?!」

「いえ、えぇ・・・と、この魚が生焼けかどうか・・・」

「どう考えても生焼けでしょう!コレは!」

「生焼けかどうか厳正なる第三者の目で厳しく判断していただいてから・・・」

 もうこうなったらどうしようもありません。どう考えても引くつもりがないのですから何を言っても仕方がない、そう諦めてその店に2度と行かない決意をしましょう。
 しかし、この逆バージョンというのはどうでしょう。これは許せる、いや、もっと限定的に言わせていただければ、オヤジならば大幅に許せる問題です。

「おい、ちょっと、このレバー生焼けだぞ。」

「お客様、違法ですが適切な調理ですよ。」

「だよな!これ、もうひとつと熱燗2合ね。」

 このようにオヤジは納得したほかに追加注文までしてしまいますから簡単であります。
 こういう場合もあるでしょう。仮に中華料理を食べに行き、最後の会計を見て不可解な金額がプラスされている事に気づき指摘してみると・・・

「すみません。」

「はい。」

「これって、何の料金ですか?」

「違法ではありませんが・・・」

「いやいや、食べてもいないものを加算したら違法だろ!」

「不適切でした?」

「不適切だよ!どう考えても!だからこれ、何の値段なんだよ!」

「それは・・・特別、と言いましょうか・・・」

「特別とか頼んでないよ!」

「実は、料理人が鍋を振りやすいように中国服に着替えまして・・・」

「そんなの知らねーよ!」

「腕の滑りが良くなる、と言いましょうか、柔道してたもので腕が引っかかる、と言いましょうか・・・」

「知らねーよ!」

 まぁ、今だけのネタではありますが、次にその立場になられる方は一応、堂々として説明できる方がよろしいかと・・・

 次の候補者として「アノ女性」が取り沙汰されておりますが、東京オリンピックも絡んできますから

「1番でなきゃダメなんですか?」

 なんて発言しそうな方は少し考えたほうがよろしいのではないでしょうか。

 











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半年という時間は、ガラリと状況を変えるのに十分な時間である   後編

2016-05-18 14:54:01 | Weblog
 父の母、つまり、私の祖母も認知症でした。私が中学生の頃はその認知症ぶりがグレードアップしており、ほぼ誰の事も判らず、徘徊や遠出といった事も度々ありました。因みに、「徘徊」と言うとなんだかダークなイメージがあるので「ウォーキング・アラウンド」と言い換えるとポップな感じになると思われます。(本当は「wander around」だそうです)
 とりあえずの余談を前置きとして、昨日の続きになります。

 店を閉めて両親の傍にいようと決意したのですが、色々と問題は山積するわけです。お客様にどう伝えるのか?マネージャーはどうするのか?自分の仕事はどうするのか?自分の家族を養えるのか?店の処理をどうするのか?等々、考えたらキリがありません。しかも、時は11月、年末に向けて世の中忙しくなり始めた頃であります。
 それらの問題をひとつづつ解決するのは難しいものでした。まずはマネージャーに状況を説明して閉店への理解をしてもらい、うちの奥さんに説明して理解してもらい、それで、自分の中で決定してから、いつも来てくださるお客様には直接連絡して理解していただき、その後、フェイスブックにて友人知人、お客様にお知らせし、来店くださったお客様へご報告してご理解を求め、と謝罪行脚のようでした。
 しかし、有難い事に皆様に納得していただき2016年春ごろの閉店が決定したのです。
 しかも、大変だったのが介護鬱になった母の入院と並行して行わなければならなかったからです。
 もっと問題だったのが!(うるさいな)、母を入院させる、という事は、認知症の父をどうするか、という問題もワンセットなわけです。その辺はやはり、夫婦仲良く、というで一緒に入院してもらう事にしました。(勿論、別々に)
 母は問題なく入院手続きが取れたのですが、父の場合、認知症で、介護レベル的には「4」というハイクラスな数字を叩き出しておりましたから安心しておりましたら、それでは入院理由にならないかも、と微妙な言い回しをされてしまったのです。
 すぐに色んな根回し(知り合いのドクターにお願いしました)をし、即入院となり一安心と思いきや、今度は父本人を説得する事に。
 「オレはどこも悪くない!」を主張する父。(その主張がすでに病気です)と思いながらも「いや~、その“どこも悪くない”っていうのを証明するために検査入院してください、っていうやつだから。まぁ、別荘暮らしだと思って、ね、ここはひとつ。」と丸め込もうとする私。これはこれで楽しいのですが、正直、息子としては辛いものです。
 そんな話も交えつつ父に状況を説明すると、自分が入院することで良い方向に進むなら、とその時は正気になり、すんなり入院に承諾してくれたのです。
 入院手続きをし、父を病室に送ると「それほど悪い部屋じゃないな」と一言呟きました。「オレん家よりは綺麗だよ」と冗談を言うと大声で笑い、安心したようなので病院を後にし、病室で使用するものなどを買い物に出かけ実家に向かおうとする時、病院から電話が来て「お父さんが大変なんで来てください!」という緊急情報がありました。すぐに病院に戻ってみると、父は「家に帰る!」と言い張って大騒ぎしていたのです。
 病院スタッフの方が興奮気味に「急に帰るって言いだして暴力的になったので電話したんです!」となんだか怒りは私に向けられたように言い放ちました。
 「おいおい、ちょっと待てよ、それが認知症の人でしょ」そんな風に突っ込みを入れたくなったのですが、なにぶんこちらの立場が弱いもので深々と謝罪して私が説得する事にしました。
 父に話を聞いてみると、「自分の家があるのになぜここにいなければならないのか」「みんな自分の事を病人扱いする」「家の人間が心配する」というものでした。
 話を聞いた私は「とりあえず今日だけ我慢してくれ」とお願いし、そこは何とかなったのですが、認知症の人に今日と明日の区別などないありません。そうやってある意味、架空の、と言ったら変ですが、支離滅裂な話に耳を傾け「そりゃそうだ」といってこっちのいいように持っていくしかありません。
 それから両親の入院生活が始まりました。父は暴れた罰として(ウソです)隔離病棟入りになりましたが、週に一回会いに行くと嬉しそうに、母の事や私の仕事の事などを何度も何度も、何度も何度も聞くのでした、まぁ、認知症ですからね。
 そんな生活が3か月ほど続き、店は閉店特需で忙しさを極め、母は精神的に回復をして退院のめどが立ち、今度は父を施設に入れるための算段をしなければならなくなりました。
 そして、奇跡的に店を居抜きで入ってくれる方も見つかり、すぐに店の撤退作業を始め、すべて撤退した4月半ば、母から電話がありました。
 「父が急に具合が悪くなり今日明日がヤマだ」という事で急いで病院に駆けつけるとドラマで見るような酸素吸入器を付けられた父がベッドに横たわっており、どう考えても最悪な状況になっていたのです。
 話を聞けば「腎臓が悪い」との事でしたが、認知症の薬は腎臓に負担をかける、との話を聞いておりましたので不思議ではありませんでした。
 急いで私の子供たち、父の孫たちを呼び寄せて合わせると意識不明だった父が目を開け、孫の名前、私の名前を呼び始めたのです。
 「意外と、これで大回復?」などと楽観的になった自分は本当に楽観主義だと今回思いました。それから4日後の深夜、父は帰らぬ人となりました。

 現在母は、父の介護という任務から解かれたからか以前のように明るく暮らしています。

 葬儀後も心配だったので私はずっと実家にいたのですが、母から遠まわしに「別に実家に帰ってこなくてもいいよ」と言われてしまったので、私は現在、自宅で家事をしながらたまに入る料理教室で料理を教えに行っております、ホントにたまにですが。そして、マネージャーともたまに会ってワインを一緒に飲んでおります。ホントにたまにですが。

 今となっては「店を閉める必要があったのか?」と思う時がありますし、時々人からも言われますが、父の事を思えば、閉める必要があったんだと思います。

 それと、よく「これからどうするんですか?」と聞かれますが、いつもこう答えます。

「とりあえず、フリーの料理人で頑張ります。仕事無いですけど。」

 因みに、先日、フリーの料理人としてハローワークに行ってきましたけど、何がしたいんだか判らなくなってきました。

 そんな、悩み多き、フリーの料理人。

 いずれ認められる時が来るでしょうか?

 来ないでしょうな・・・













 
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半年という時間は、ガラリと状況を変えるのに十分な時間である  前編

2016-05-17 14:47:54 | Weblog
 連日の晴天を打ち消すような今日の雨は、雨におけるネガティブなイメージ、例えば「悲しさ」や「憂鬱」といったものではなく、今までの気候を調整するような雨であり、その雨音はコンサートが終わった後の拍手のようでもあります。そんな優しい気持ちになれる春の雨が降る今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 「雨々降れ降れ・・・」という言葉を聞いてその後を「母さんが、蛇の目でお迎え嬉しいな・・・」と楽しげに続けるのか、それとも「もっと降れ。私のいい人連れてこい・・・」と哀愁漂う感じで続けるのかでは人生の足跡の深さが違うのだ、と以前、私の先輩が日本酒を飲みながら、しかも、遠い目をしておっしゃっておりましたが、私はその場で笑っていい話なのか、真面目な話なのか、の判断で困ってしまいました。雨とはそんなどうでもいい話を思い出させる恐ろしいものですな。
 まぁ、そんな話はいいとして(いいのかよ)、このブログを更新するのは半年以上ぶりになるわけですが、その半年の中で色んな出来事がありました。
 フェイスブック等のSNSでは(スミマセン・・・見栄張りました、正確にはフェイスブックだけです)アップしましたのでご存知の方もいらっしゃると思いますが、当店「フランス料理 マチルダベイ」は今年3月いっぱいをもちまして閉店する事となりました。
 もっと早くブログ上にて報告するべきだったと思いますが、色々と忙しく、今やっとの報告となりました事、心より謝罪いたします。申し訳ありませんでした!(フラッシュの点滅にご注意ください)
 その経緯をここに記しますと大変長くなり、読み応えバツグンになってしまうので端的に書こうと思いましたが、ここはひとつ、久しぶりのブログでございますから、読み応えバツグンにしといた方が当ブログ読者のご期待に応えれる、というもの。じゃあ、それなりの文章の長さで書きますか。(めんどくさいヤツ)
 まず最初に断わっておきますが、これから閉店までの話は私個人の話でありますから「お前個人の言い訳などどうでもいい」という方はスルーしていただいた方がよろしいと思われます。
 話は昨年の10月に遡り(さかのぼり)ます。認知症を患っている父を自宅で介護している母が介護鬱になったのではないか、との疑問が出たのは昨年の10月後半でした。
 それまで月に1度も実家に帰省せず、たまに電話を掛ける程度だった私が、電話の会話内容でふと違和感を感じました。
 そこで次の休みの日に帰省してみると家の中が散らかっておりましたが、比較的元気な父に対してほとんど会話ができない母が目の前にいました、いや、会話が「できない」のではなく、「したがらない」と言った方が適格でしょう。
 いつも明るく、人に甲斐甲斐しくする母が、表情がなく、目の奥がどんよりしているように感じるのを目の当たりにし「鬱病」だと思うのにそれほど時間は必要ではありませんでした。
 その時思ったのです。「これはちょっと・・・自分自身の事も含めて考え直す必要があるな・・・」と。
 そんな事を思いながら実家から帰ってきた私は、一度自分の頭の中を整理する事にしてみました。
 まずやらなければならないのは母の鬱病です。しかし、それに伴う認知症の父、という手強い問題もあります。それを数式に置き換えると

「認知症の父+鬱病の母×二人暮らし=現実的には末期的状態」

 そのような答えが出てきました。いや、その答えしか出て来ません!
 そんな中、母の友人からの「入院させた方がいいのではないか」との助言もあり、母を入院させる事にはしたのですが、父の問題もあります。というよりも、この先の問題もあり、今ここで一つの問題をとりあえず解決したところで根本的な問題は解決できないように思いました。
 「認知症」と「鬱病」。表面的には判らないかもしれないが、どう考えても病気である両親。面倒を見なければならないのは私以外居ないのですが離れて暮らし店を構えている自分の立場。相容れない「両親」と「自分」の状況を考えれば考えるほど暗い闇に吸い込まれるような、目の前がグルグル回るような、そんな気持ちになっていったのです。(当ブログの性質上、表現的に大げさです)
 因みに、そんな気持ちになってもワインは普通に飲んでおりました。(話に関係ない)
 
 そんな時、頭の中にこんな事が浮かんできました。

「店をやめようか・・・」

 15歳で料理の世界に飛び込んで30年。よくよく考えると自分の両親から恩恵を受けた事はあっても、それに対し大きく返した事などありませんでした。
 店をやめてどうするか、など考えたわけでもありませんし、そうする事によって職を失い、自分の家族すら経済的危険にさらす可能性も高いわけですが、なるべく傍にいてあげるだけでも効果があるように思えたのです。
 
 と、まぁ、こんな感じの状況だったわけですが、文章が長くなりましたので今回は前編という事にしときますかね、この続きはまた明日という事で。(書ければの話ですが)

 因みに、有難い事に「ブログは続けてほしい」との声を多数いただいておりますので(実は一件だけ)、店はなくなってもブログは続ける所存でございます。
 ただ、「シェフのブログ」ではなくなりますのでねぇ・・・「元シェフのブログ」にしときますかね。

 現在、思案中でございます・・・













 
 
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詩的な表現には経験、知識が必要だ。そして、それを言葉に込めて吐き出せ

2015-10-31 22:40:51 | Weblog
 コートを着れる季節になるとシャツとジャケットも着たくなります。そして、その格好をしてしまうと外食に行きたくなり、外食に行きたくなると人は料理ジャンルチョイスに腐心してしまうのです。それは恰も(あたかも)与えられた使命のように。そして、その料理ジャンルは「フランス料理」に決めてしまうのです。それは恰も運命のように・・・そうやって誘導してしまいたくなる10月最後の今日、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 前回のブログで「これが10月最後の記事になると思う」という趣旨の事を書きましたが、何となく文章を書きたくなったのは詩的な事を考えさせる秋の最後だからではないでしょうか。
 11月に入ってしまえば否応なしに「冬」感が強くなってしまいます。その前に、その「冬」に突入する前に、10月最後の、秋最後の(うるさい)、詩的な文章を書きたい、そのように思った次第でありました。(当ブログの性質上、大げさです)
 先日、仲良くさせていただいております店舗の方々(と言っても二人ですが)とワインの試飲会に行った時の事でした。試飲するワインの資料に各ワインのコメント共に簡単に合う料理も書いてあったのですが、そこに「和食に合います」と記載されているワインが何本かありました。
 それに対して同行した若手シェフが「和食って、具体的にどんな料理の事を指すんですか?」と担当ワインスタッフに聞いたのです。そこでそのワインスタッフも話をはぐらかせば良かったのでしょうが、白ワインにも関わらず「魚の煮付け、とかですかねぇ・・・」と「白ワイン+魚料理=正解」という方程式を勝手に解釈し、そのように答えてしまったのです。「魚の煮付け」が合わない、というわけでもないのですが、「魚の煮付け」と言ったら「カレイの煮付け」を連想してしまうのではないでしょうか。しかも彼は仙台出身です。宮城の方は「カレイの煮付け」が好きです。
 「えっ?!魚の煮付けですか?」と若手シェフに突っ込まれてしどろもどろになったワインスタッフ。それではいけません。そこはやはり「詩的」な表現で逃げ切りたいところ。

「えっ?!魚の煮付けですか?」

「えぇ、そうです。魚の煮付けです。そうですねぇ、このワインに合う魚の煮付けは、カレイの煮付けなどではなく、岩礁魚、例えばカサゴが良いでしょう。そのカサゴを軽く湯通しし、水、酒、味醂、醤油で煮込みます。一緒に牛蒡と梅干しも入れましょう。魚を煮込むうちに梅干しは臭みを取り、牛蒡は旨味を吸い、その煮込み汁は海流、魚はタンカー。海流に乗って進むかの如く煮込まれる様は圧巻であり、そのタンカーの周りを取り囲む牛蒡と梅干しは巡視船及び駆逐艦であり、ソマリア沖のタンカーを守る役目なのです。アクという名の海賊を牛蒡と梅干しは駆逐し、カサゴタンカーを守り切った時、美味しさという名の安全を手に入れる事が出来るのです。そして、その出来上がりを見て人々は驚くでしょう、その様は「和風アクアパッツァ」なのです。そこには海が存在します。海よ、教えておくれ、君の青さはなぜそんなに人々を魅了してやまないのか。深く、深く、遠いその海には危険と共に謎めいていながらも自然の美が存在し、その美は神秘に満ちた光を放つのです。おぉ、海よ、俺の海よ、カムウィズミー、マイラブ、トゥザシー、ザ・シーオブラブ、アイウォントゥテルユー、ジャストハウマッチ、アイラブユー・・・そんなわけで、このワインに魚の煮つけが合うのです。」

「そ、そうですか・・・」

 これならば誰も文句は言わないでしょう。文句を言われるとしたら「ウルサイ!」か「説明が長い!」という説明自体に突っ込むものではありませんから作戦は成功と言えるのはないでしょうか。

 その後も「和食に合います」表記が見られたため、若手シェフは「気になるなぁ、和食の何に合うのかが。」と頭の中の疑問符が払拭する事は出来なかったようでワインスタッフに尋ねておりましたが、途中からワインスタッフは私に「助けて」目線を投げ掛ける事となったのです。
 「天ぷらなんか合うんじゃない。」「これは鯉の甘露煮が合うかも」などと助け舟を出しましたが、確かに若手シェフの言う通り「和食に合います」だけではかなりアバウトです。
 そこはちょっとだけ詩的に「花のようなアロマを持つこのワインには花を。ポン酢の酸味を抑えた牛肉菊花和えが合うのではないでしょうか。」との言葉添えが良いと思われます。しかも、「合います」という断定的な言葉ではなく「合うのではないでしょうか」という逃げ腰ながらも提案している体の言葉で逃げ道を作る事も忘れてはいけません。因みに、「牛肉菊花和え」とは、牛肉を軽く炙り、細切りにしたものを茹でた菊の花と和えポン酢で味付けしたものです。菊だけでは高級感が無いので牛肉を合わせたものだと思われますが、美味しいと思いますし、ワインにも合わなくはないと思われます。
 
「ここまで読んでいて思ったんですけど、どの辺が詩的なブログなんですか?」

 そのように突っ込まれてしまうと泣きながら腕をグルグル大回ししながら掛かって行きたいところではありますが、「詩的とは、自分の中だけに存在する宝石のようなものである。 サルトル」という言葉もあるように自分の中でだけ理解できればいいんですよ、ちょっと道が外れていますが。(因みに、そんな言葉はありません)

 明日から11月。半年くらい前から月に二回程度しかブログ更新をしていないのですが、10月は辛うじて3回更新しました。(あまり変わりない)

 11月は更新頻度を上げたいと思い、今回のブログを閉じたいと思います。

「そこを私的に表現するべきでしょう!」

 そ、そうですな・・・

 木枯らしの吹く11月。あなたの心をほんのちょっとだけ温めてあげたい。そんな想いで綴る文章を贈ります。このブログで。ボクの指は叩くよ。君の笑顔を引き出すために、このキーボードを。カタカタ、カタタン、カタタンタン・・・

 こんなんでどうでしょうか?

 11月、更新頻度を上げるよう努力します。



















 
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器用に生きる事とは何か、器用に生きれない事とはどういう事なのか。

2015-10-29 23:01:25 | Weblog
 末尾当選が2~3枚あったと記憶していたサマージャンボ宝くじを取扱都市銀行脇の販売所に両替に行ったのは先月の始めでした。仕込みの合間に銀行業務をしにその取扱都市銀行の隣の地方銀行に行ったついでの事だったのです。
 宝くじ販売所の女性に買った全ての宝くじ券を渡すと「当たり券枚数が表示されますので・・・」と言って「宝くじ当選確認器」に私の券を差し込み、カタカタと音を立てて確認し始めると目の前にある「宝くじ当選確認表示器」のデジタルが動き始めました。
 結果は300円当選が3枚で1200円。サマージャンボに投入した金額の1割ちょっとが戻って来た事になったのですが「1200円とは中途半端な金額だな」との感想を持ってその場を後にしたのです。
 店に戻ろうと思いながらも4軒隣の本屋さんに入ったのは料理本を立ち読みしようと思ったからなのですが、店頭に並んでいる「話題の本」コーナーを通り過ぎようとした時、ある本が目に止まりました。
 手に取って見てみると本の帯には色んな人からの大絶賛の言葉が寄せられていましたが、裏を見てその本の価格が目に飛び込んできた時、笑ってしまいそうになったのです。
 「1200円(税込1296円)」。さっきの1200円に96円足してこの本を買え、っていう事なのかな、と込み上げてくる笑いを抑えながらその本を携えてレジに行き、さっきの1200円に100円を足してその本を購入したのです。
 その本の題名は「火花」、作者はお笑い芸人の「又吉直樹」氏であります。その本を気になって手にしたのはやはり当時、テレビで「芥川賞受賞」と大きく報じられていたのと、全編芸人の話でありながら「純文学」というジャンルにカテゴライズされていたからに他なりませんでした。
 その日の仕事後に帰宅してから本を読んでみると書き出しにビックリし、そして、「確かに、純文学ですな・・・」と思ってしまうほどの書き出し文章で、読む気が出たのですが、その日はワインを飲んでしまいそのまま酔っ払って寝てしまいました。(バカ)
 その後も読む機会を逸してしまい(コラコラ)、気にしてはいたのですが、先日の休みの日に一気に読み通したのです。
 で、その書き出しをご覧ください。私はなかなか素晴らしい文章だな、と思いましたよ。

「大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり。響いていた。熱海湾に面した沿道は白昼の激しい日差しの名残を夜気で溶かし、浴衣姿の男女や家族連れの草履に踏ませながら賑わっている。(文藝春秋刊 又吉直樹著「火花」より引用)」

 熱海の花火大会の催し物で漫才をするお笑いコンビ「スパークス」の「徳永」は、先輩芸人「あほんだら」の「神谷」と出会い・・・という始まりでありますが、これ以上書いてしまうと読もうと思われている方もいらっしゃるでしょうからこの辺にしておきます。
 
「その本の影響で今回の書き出しになったのですね。」

 そのような事を言われてしまうと否定はできませんが、最近全く更新しておらず、今月(10月)最後になるであろう当ブログのちょっとしたアクセントになればいいかな、と思ってこのよう書き出しにしてみました。別に対抗しようなどという気持ちはサラサラありません。
 これからこの「火花」を読もうと思われている方がいらっしゃるかも知れませんので詳しく書けず、勿論、いつもの「読書感想文」にもなれないので難しいのですが、読み終えた時に思ったのは「世の中には器用に生きられる人間と生きられない人間がいる、オレはどっちだ?」という事でありました。(すごく短い感想文になっているのですが)
 
 料理の世界でも自分の事を「調理師」と思うのか「料理人」と思うのかではだいぶ生き方が変わってくるはずです。どちらがいいか、という問題ではなく、どちらを選ぶのか、という選択肢を考えなければならない時が来るのです。
 
 それを考えると・・・ん~、器用に生きられない料理人だよ、お前は、と自分自身に言い聞かせてしまいますな。

 不惑の年をだいぶ過ぎてしまいましたが、器用に生きれる料理人になりたい、と今更ながらに思ってしまいます。

 しかし、器用に生きる、という定義自体、曖昧ですからね・・・

 まぁ、いいですかね、今のままで。ブログも今のままでいいッスよね。


















 
 
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「どうでもいい話」を書いてしまう時、心に乱れがあると思われても仕方がないだろう

2015-10-11 21:09:31 | Weblog
 秋の雨は冷たく物悲しい雰囲気の中にほんの少しだけ未来への道筋が見えるような気がします。10月の雨の中、ずぶ濡れになりながら言い争う男女が最終的には和解し、その後、抱擁してしまうのも秋の雨だけが持つ「未来への道筋」に導かれるからなのでしょう。何となくそんな事を書いてしまったらずぶ濡れになって天に「未来の道筋」を懇願してしまいたくなる今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 またしてもブログアップが久々になってしまいましたが、私個人でやっている「フェイスブック」の記事は結構頻繁にアップしているのでそちらの記事をブログに転載して事を済まそうか、考えているに自分に疑問を持ちながらも、長文ブログはやめられまへんな、という自分もいて、大変困った事になっているのであります。(だいぶ大げさに書いてます)
 時として「長い文章のブログは流行りませんよ。」と言われることがあるのですが、だまらっしゃい!流行でブログを書いているわけではありません!し、失礼しました・・・時代に流される事なくブログを書きたいものです。
 しかし、時代や流行は移り変わるものでして、極端な言い方をすると今日まで流行っていた事が明日には見向きもされなくなる、という可能性がありますから恐ろしいものです。
 それを感じてしまったのは先日、バーで飲んでいる時、隣のサラリーマン、いや、もう少し踏み込んで言わせていただくと40代の公務員と思しき方が自分の上司の事を「あの人、KY(ケーワイ)だよね。」と連発しているのを耳にしたからでありました。
 「KY(ケーワイ)」、勿論。空気を読んでいない、という事でしょうが、私的にその「KY(ケーワイ)」という響きは「チョベリグ」「チョベリバ」と同列に聞こえ、頭の中で「デッドワード(死語)」の文字が浮かんでいたのであります。
 ちょっと前まで頻繁に使われていた言葉が「デッドワード」になってしまう事はよくある事ですが、ちょっと前まで頻繁に使われていたからこそ「デッドワード」指数が高い、とは思えないでしょうか。もしかすると「ナウい」「ゲロゲロ(とんねるず)」「~だぞ、と。(鶴太郎)」「ナハナハ(せんだではなくビートの方)」などの方が逆に新鮮に感じてしまいます。
 職場の部下(この場合女性)に「あれ?髪切ったの?何かナウくなったね。」とさり気なく言ったりすると上司の株も上がるというものでしょう。ただ、その後、その上司抜きの飲み会で大爆笑される事は大決定でしょうが。
 言葉というのは難しいものです。「デッドワード」もそうですが、間違っている言葉、とりわけ「ことわざ」的な言葉を引用して使ったのにそれ自体が間違っていた時、それを指摘できるか、という大問題に、人は時々ぶつかったりする場合があります。
 その時は大体、真面目な話の最中がほとんどですから親しい友達であっても指摘するのは難しいでしょう。ましてそれが、目の前で、しかも、カウンターに来た知り合いの方だったりすると尚更です。
 例えば、カウンターでその知り合いの方と話をしていて「一派(いっぱ)ひとからげ」と言われてしまった時、「一派は元々ひとからげでしょ!」とは指摘できません、いや、一派はひとからげにすらできないかもしれませんな、十派(じゅっぱ)ならひとからげにできるでしょうが。
 例えば、目の前で「あいつ、人の土俵で褌(ふんどし)取るようなまねしやがって!」と言われてしまった時、目を瞑って(つぶって)笑いを堪えなければなりません。決して笑ってはいけないのです。しかし、よく考えるとスゴイ光景です。他人の土俵に上がり込んで突然、褌(ふんどし)を取り去ってしまう、普通に考えると公然わいせつ罪に値します。正しくは「人の(または他人の)土俵で相撲を取る」「人の褌で相撲を取る」です。ふたつが合わさって二で割った感じなのでしょうが、「相撲を取る」のと「褌を取る」のは全く違う行為で、前者は健全ですが、後者は性癖です、気を付けたいものです。
 
「で、今日は何の話をしたかったの?」

 そこなんですよ、問題は。

 何となく書き進めたらこんな話になってしまったんです。

 次は料理の話を書きたいと思います。久々に作り方から細かく。

 料理の話ブログでを晒す事は「自分の土俵で褌取る」というふうには言わないんでしょうね。

 いや、何となく思い出してしまいまして・・・その言葉を・・・

 次は真面目な話を・・・いつも思う事なんですが・・・













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リスペクトなき模倣はオマージュにあらず。ただ表面をなぞるだけなり。

2015-09-15 21:25:24 | Weblog
 先日、東京からいらしたお客様(当店の常連様です)とお話しさせていただいている時に興味深い話となり聞き入る事となったのです。その方が某大物商業デザイナーさんの偲ぶ会(残念ながら半年ほど前に他界なされました)に呼ばれて六本木の会場に行った時の話でした。
 有名な方々がいらっしゃったそうで「加納典明くんもいたよ」との話でしたが、「そう言えば・・・彼も来てたんだよ。」と含みがある流れとなったのです。
 「えっ?誰ですか?」と聞いてみると「今話題の、サノくんだっけ?彼だよ。」みなまで言わすなよ、と言わんばかりの投げ掛けに「今話題の」そして、「サノ」というだけですぐに理解できました。その会に来てたのは某エンブレムデザインで話題になった「佐野研二郎」氏だったのです。
 「えっ!?その会はいつだったんですか?」と即質問し会話のキャッチボールは始まったのです。「8月の、終わりくらいだったかな?」と曖昧ながらも判りやすい時期感、

「それって渦中の頃のど真ん中じゃないですか!」

「そうなんだよ。会場に来た人がさ、ビックリしてたよ。」

「そりゃそうですよね!」

「でも、誰も話しかける人がいなくてさ、何か可哀想だったな。」

「ちょっと、話しかけづらいですよね・・・」

「普通に考えるとね。」

「あれが問題なければヒーローだったんでしょうけどね。」

「そうだよ。あれはさ、似ているけどオリジナルだと思うよ、オレは。」

「じゃあ、あのデザインは好きなんですか?」

「いや、あのデザインが好きか、と言われると好きじゃないけど。パクリじゃないんじゃないか。」

「・・・好きなデザインじゃないんですね・・・」

 その会話の中で私は「パクリ」とは何かを考える事となったのです。
 「パクリ」は「パクリ」でもデザインは専門ではありませんから、私が考え込んだ「パクリ」の事は「料理のパクリ」であります。
 数年前にフランスの料理人数人が自分料理に対して特許を申請しようとして話題となりましたが、自分が経験を積み上げる中で作り上げたオリジナルの料理をいとも簡単に真似されるのは悔しい、というより残念だったのかもしれません。
 完全なるオリジナルの料理を作り上げる、というのは思うほど簡単ではありません。完成度の高い既存の料理を超え、且つ、自分の料理や素材に対する考えが反映し、お客様に喜ばれなければならないからです。
 それをただ写真を見ただけで「オレも作れる」のような気になりうわべだけをなぞるような料理を作れば「パクリ」と言われても仕方ないでしょう。しかし、その考案シェフの仕事を間近で見てきた料理人や、そのシェフの下で仕事をしていなくても、そのシェフの料理に対する考え方や姿勢までも尊敬してやまない料理人が敬意の念を込めて作れば、それは「パクリ」とは呼ばれず「オマージュ」とされるのだと思います。
 斯く言う(かくいう)私も、料理の本を読んでインスパイアされる事は多々ありますから、「料理のパクリは絶対に許さん!」とは言いませんが、真似するなら真似するなりにそのシェフ(例えば料理本などに出たシェフ)の料理、素材、考え方、などを理解してから作り、それでさらに納得して真似したいものです。
 私事ですが、私は魚をポワレする時にちょっと変わったポワレの仕方をするのですが(詳しくは書きません)、数年前、料理本を読んでいたら同じポワレの仕方を某有名シェフがしており大変驚き、そして、喜び、そして、誰かにこの事を話すと「お前がパクッたんじゃないの?」と言われるのではないか、と複数の気持ちが湧き上がった事がありました。
 「たまたま同じだったんです!」と言っても無名な私と有名シェフでは「そんな事ないでしょう」と疑いの目を向けられるのは必至。(しかし、これを書いた時点でそんな目で見られるのか?)いつの時代も無名な者は立場が弱いものです。(ネガティブな男)
 しかし、それを読んでから「自分の考えが間違ってはいなかったのだ」と思えるようになったので逆に感謝しています。(ポジティブに変換)
 本でしか知らないシェフに対してならば「尊敬しておりますのでちょっとパクってもいいですか?」と心で唱えて真似する事も出来ますが、お互いを知っている料理人同士になると話はややこしくなると思われます。
 仮に、シェフ同士仲が良く、一緒に飲んだりする間柄だったら飲んだ勢いで「お前のあの料理、どうやって作ってんの?」と気軽に聞け、更に「オレもやってみていい?」と了承を得る事もできると思われます。しかし、それでも作った後に「あの料理作ってみたけどスゴくよかった。オレも負けないように勉強する」などの相手に対する尊敬の念を込めて飲み直し、が必要になってきます。(メールではダメです)
 つまり、知り合い、仲が良い、という間柄でも「料理」を商売としているプロであれば、真似するのであれば相手に対する「リスペクト(敬意を表す)」と「道理の筋」が必要なのではないでしょうか。

 佐野氏の話が出て来た時、そのような事が頭の中を駆け巡り(大げさ)、そして、私に厨房業者さんを通して調理の仕方と機器の説明を聞いてきた人(料理人)を思い出しました。 
 
 本人が私に聞いてくれば何も問題はないのですが、あまりにも遠回りな聞き方、その後、全く連絡もない、という行動に、正直残念でなりません。

「リスペクトあり過ぎて直接聞けないんです。」

 ん~、それでは道理の筋が違いますな。

















 
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秋になると苦悩する者、汝の名は「芋煮会幹事」

2015-09-13 21:12:58 | Weblog
 9月は夏の終わりなのか秋の始まりなのか判断に困る月なのですが、今年の9月は気温的な面だけで言えば完全に「秋の始まり」に属す、と思われます。夜歩いていると頬を撫でる風の冷たさや、青い草木の香りがしなくなったのも「秋の始まり」という気分を高めますし、何気にスーパーなどに置いてある「松茸」が目に入るとその気分を一層押し上げる、というものでしょう。という事は・・・そろそろ食材が揃ってくる頃ですな、と思わずにはいられない今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 だいぶ久しぶりの更新ですが、その間、ブログをやめようなどという事は全く思いませんでした!ホントのホントに思いませんでした!ホントなんですよ!皆さん!全くやめようなどと思いませんでしたから!・・・うぅぅ・・・誰かツッコんでください・・・(バカ)
 まぁ、それはいいとして(いいのかよ)、先ほども書きました通り、スーパーなどには「秋刀魚」や「松茸」などが並んでおりますから、もう「秋宣言」しても構わないと思われますが、山形では「芋煮食材」も並び始めてその「秋気運」を高めてくれております。
 山形の名物であります「芋煮会」は、川原に鍋を持ち込み「芋煮」を作り、それを食べながら宴会する、という県外の方が目にしたら「何やってんだ?」と思わずにはいられない県民行事であります。
 里芋、牛肉、こんにゃく、葱、という基本材料を少し甘めの醤油味で味付けしたこの料理は汁物と煮物の狭間でせめぎ合う山形のソウルフードであります。(一部大げさ)
 上記の基本芋煮に「キノコ類」や「牛蒡」などのオプションを加える事もありますが、それは地域によって異なり、また、「牛肉」が「豚肉」に変わり、「里芋」が「じゃがいも」に変わる、という「芋煮」と「豚汁」の狭間でせめぎ合う(しつこい)地域もありますから、各地の芋煮を食べ歩く「山形芋煮巡礼の旅」をしてみるのもいいかも知れません、いいかも知れませんよ、県外の方!(誰に言ってんだ)
 以上の事を川原で開催するのですが、何気に一番大変なのは「芋煮会」そのものではなく、「芋煮会」の「幹事」なのであります。
 「芋煮会の幹事をするのが好き」という奇特な御仁は別として、基本的にそんな面倒な事を率先して引き受ける人の好い方はあまりおりません。大抵、芋煮会幹事を人に押し付けたがるものです。
 会社の部署で芋煮会をやる場合、オヤジ社員(役職あり)は「芋煮会の幹事は昔から若い人たちがやる事になっているから。」などという勝手なルールを施行し、飲みに専念したいと考え、隙あらば「若手女子社員に近づこう」と画策するものです。気を付けなければなりませんな・・・
 仲間同士で芋煮会をやる場合、仲間の中でも目立つ男子がちょっと弱気な男子にその役を押し付け「会費以上に金が掛かったらお前自腹で補てんしとけよ。」などと恫喝にも似た発言をし、隙あらば、仲間の女の子にちょっかい出そうと画策するものです。なんか、ムカつきますな・・・
 まぁ、それはいいとして、芋煮会幹事がもっとも腐心するのは「どのように作るか」「何を飲むか」そして、「誰を呼ぶか」の問題であります。
 芋煮会幹事は、幹事であると同時に作り手にもならなければなりませんから、そのプレッシャーは結構あります。なぜ芋煮を作るのにプレッシャーがかかるのか?それは先ほども説明しました通り、地域によって「芋煮」は変わりますから、自分の基準で大根や人参などのオプションを入れてしまうと「なんだよコレ!置賜(山形の地域名)風じゃねーかよ!あっ、お前、置賜出身だな!」などと、県都山形市出身の奴にバカにされたりします。
 また、良かれと思い「庄内風」の「味噌風味・豚肉・じゃがいも芋煮」にしてしまうと「芋煮はやっぱり醤油味がいいよな。」などと、県都山形市出身の奴にバカにされたりします。(フィクションです。県都山形市出身の人がいつもバカにするわけではありません)
 そして「飲み物」。これも腐心してしまうジャンルです。酒に詳しい人ならばビール、焼酎、日本酒、ワイン、のどれを選ぼうとしてもそれなりの、しかも、安うまな酒を選択する事も出来るのですが、酒にそれほど詳しくない人が幹事になってしまうと、「ビールです」と言って手渡された缶の飲み物が実は「第三のビール」だったりして人の気持ちをイライラさせます。気を付けてください、これだけは。
 そして「誰を呼ぶか」。実はこれが一番腐心するのかもしれません。会社、大学のサークル、仲の良い家族仲間、といった人員が決まっている芋煮会ならそれほど悩む必要もありませんが、「仲間」という曖昧な括りになると悩みは急上昇するのです。
 「彼は呼ばなければならない、という事は、彼も呼ばなければならない・・・じゃあ、その繋がりであの娘も呼んじゃおう。」などと最初は決まるのですが、その後の手詰まり感が芋煮会幹事を襲います。
 「彼は呼んでもいいのだろうか?いや、それ以前に、彼は友達なんだろうか?」「彼と彼は仲が良くないと聞いたけど、ふたりを呼んでこっちが恨まれるのは嫌だな・・・」芋煮会幹事は悩み、そして、ある一定の基準を決める事でしょう。それは、「自分を基準にした友達関係であるかどうか」であります。
 「彼とはこの前、朝まで飲み明かしたから、友達だな。」「彼とはビールしか飲んでいないから、知り合いレベル、か。ビールだったら他人とでも飲めるからな。」「彼女はこの前、居酒屋であった時、笑顔で挨拶してくれたから、友達、かな・・・何なら彼女候補でもいいな。(バカ)」などと自分基準で仕分けをする時、芋煮会幹事は蓮舫議員の顔つきになっているのです。

 そして、芋煮会当日。2日前からロープを張って場所取りした川原へ朝5時に出向き心を落ち着かせるために1時間瞑想をし、大鍋に水を張り、切り目を入れ水で濡らして掃除した昆布を投入し1時間ほど待ち、7時に点火します。
 
 沸騰ししばらく昆布を躍らせてから昆布を取り出すと昆布の強い香りがしてきました。

 そこへ事前に水洗いした皮むき里芋を投入して再度沸騰するのを待ちます。

 待っている間、みんなの喜ぶ顔、尊敬の眼差しとも言えるような潤んだ瞳、そして、「美味しいです!」と芋煮の汁をすすりながら言ってくれるあの娘・・・それらが頭の中に浮かんでは消え、浮かんでは消えしていきます。

 芋煮を作って2時間。鍋に蓋をし、休ませながら里芋に味を染み込ませる事2時間、計4時間が経った頃、集合時間の11時がやって来るのです。

 そして、宴が始まり、盛り上がるであろう12時過ぎ、誰も来ません・・・

 そこで芋煮会幹事は危惧します。

「実は、誰も来ないのではないか」と。

 



 この話は実話を基に書きました。
 
 この芋煮会に私は呼ばれていませんでしたが、件の芋煮会幹事から電話があり、涙声で「来てほしい」と懇願されました。

 そこで、知り合いに電話をして人数を集め、その場所に行ってみると、大きなブルーシートに3~4人ほどしかおりませんでした。

 芋煮会幹事に「もう少しすると知り合いが来ますから。」とちょっと多めに会費を払い、それと引き換えに「缶ビールでも飲んでください」と手渡された飲み物は・・・第三のビールでした・・・

 ねっ、芋煮会の幹事って難しいでしょ。

















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本を読みその感想を文字に起こす。それが夏休みの総仕上げである。

2015-08-21 22:33:47 | Weblog
 心まで溶けてしまうような熱く、暑い日はちょっとだけ過ぎ去り、夜になり心地良い風すらも感じてしまうと、人は暑かった日に想いを馳せて寂しくなったりするものです。それは恰も(あたかも)、少しだけ嫌いだった人の訃報を聞いて感慨深くなり、寂しさと後悔に似た念が去来してくるかのように・・・そんな事も思ったりする今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 うだるような暑さの日々が軽く過去のものになると、夏のどストライクから少し外れて新しい季節に突入するような、そんな新たな気持ちになれるような気がしてきます。
 学生さんたちは「夏休み」という長期休暇を楽しく満喫なされたのではないか、と思われますが、私の息子(中学一年)は休みの最後まで「読書感想文」という目に見えない敵と対峙しておりました。(大げさ)
 そもそも彼の「読書感想文」への失策は、「感想文」が書けるか書けないか、という文章作成的問題ではなく、「読書」をどうするか、の根本的な問題であると考えられました。
 どんな本が「感想文」にふさわしいのか・・・その問題は私の息子だけではなく、夏休みの宿題を出された学生さん(小中学生対象)たちにとっては大いなる悩みどころでしょう。
 「残念ですけど、あなたの息子さんと同じレヴェルで考えてもらっては困るのですが。」と言われる中学一年生の方々もいらっしゃるでしょう。いや、いるはずです。もしかすると、小学生で「ドストエフスキー」あたりを読破したお坊ちゃんや御嬢さんだっているかもしれません。
 しかし、一般的にはそこまでの本は読めませんし、うちの息子は「走れメロス」をやっと読んだような男であります。「読書感想文」の事を心配になるのも当然、というものでしょう。
 今回、夏休みの宿題であります「読書感想文」についていろいろ聞きましたところ、「読む本が決まっていない」と「どう書いたらいいか判らない」というふたつの悩みを打ち明けられました。まぁ、そのふたつが「読書感想文」のほとんどを担っているのですがね・・・
 まずは、やっと読んだ(本人談)という「走れメロス」のあらすじを聞いてみると

「えっと・・・メロスが、偉い人と喧嘩して?友達置いて走る、みたいな?」

 まぁ、かなりザックリと・・・か・な・り、ザックリと、説明すればそうなるのかもしれませんが、「妹の結婚式」「人を信用しない圧政を敷いた暴君」「親友セリヌンティウス」「王の神殿でブチ暴れるメロス」「暴君と勝手に約束をし、内緒で親友を賭けの対象にしてしまうメロス」「親友の命が掛かっているのに妹の結婚式で酒を飲んでしまうメロス」「酒を飲んだため眠くなってちょっとだけ寝てしまい大変な事になってしまうメロス」「途中で諦めそうになるメロス」「親友の命をかけておきながら何のために走っているのか判らなくなってしまうメロス」「ギリギリ間に合うメロス」「親友にぶん殴られるメロス」「暴君号泣」「最後はみんなで笑ってハッピーエンド」というキーワードが抜けてます。(逆にこのキーワードを繋げると「走れメロス」を読んだ事になりますな)
 そんな感じでありましたから、彼には強制的に本を預けないといけない、そう思ったのであります。すぐさま本棚に行き、私セレクションを開始すると、なかなか難しいものです。
 それは「読書感想文」に合うような本が見当たらないからです。松本清張「点と線」みたいな所謂(いわゆる)小説ではダメでしょうし、みうらじゅん「カリフォルニアの青いバカ」のようなエッセイ的な本でもイカンわけです。(当たり前)斎須政雄シェフの「メニューは僕の誇りです」は専門的すぎるし、寺山修二「書を捨てよ 街に出よう」はもっての他でしょう。
 そんな事を思いながら眺めていたところ、「これなら・・・ギリギリ、イケる、か?」という本を見つけました。もしかすると先生によっては「読書感想文にこんな本選ぶか!」と怒りそうな、いや、もしかすると、ほとんどの先生が怒るかも知れない、かも知れない、いや、その前に、この本で読書感想文を書けるのか?という疑問も浮上する、そんな本であります。その本の著者は「養老孟司(ようろうたけし)」、本は「バカの壁」であります。
 だいぶ前に流行り、その評価は賛否分かれたものの(否の方が多かったような)一応、買って読んでみた本でありました。因みに、「バカの壁」とは「自分の理解できる限界の事」「自分の知りたくない情報は自らシャットアウトしてしまう事」だったと思われます。
 中学生にはまだ理解できないかもしれませんが、まぁ、それも「バカの壁」という事で、読書感想文では大いに反論していただきたいものです。
 
「お前はそれで感想文書けるのか!」

 そのようなお言葉も頂きそうではありますが・・・そうですよね・・・そりゃ、そうですよね。

 という事で、先日、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を買って「バカの壁」と交換しました。

 私が息子に差し出した「読書感想文」の「蜘蛛の糸」っていう事でご勘弁ください・・・





















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祭りの時の屋台を軽く考えてはいけない。店も屋台も同じ「調理」なのだから。

2015-08-07 23:21:23 | Weblog
 日中の尖った日差しと、夕方のアスファルトから湧き出る熱気が人々の心を「祭り」という方向へ導き、人々の心で形成された「祭り」は人を呼び、街を動かすのです。その「街」を動かす人々の踊り、掛け声、鼓動を一度も見ることなく毎年祭りが過ぎて行くワタクシでありますが、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 毎年この時期に行われる「山形花笠祭り」は東北4大祭りのひとつに数えられるそうですが、何だか、一つ足していただいたような気がして申し訳ない気持ちになってしまします。
 しかし、ニュースでは他県からわざわざ観に来てくださった方が多数いらしたようですし、夕方、花笠祭り初日に八百屋へ買い物に出かけましたら「祭り目的」と思しきアジア系の団体様を見掛けましたので、山形市民としてホッと一安心した次第でありました。
 お祭りだからと言って仕事を休めないのは飲食店従事者の運命(さだめ)でありますが、楽ではないにしても屋台を出している方々は商売をしながら祭り気分も味わえるので羨ましい気もするのであります。
 「だったらあなたも屋台を出したらいいじゃないですか。」そのようなお言葉を頂くと、しばし考えながら空を眺め、まだ蒸し暑い夕方の空に向かって「そりゃそーなんですけどね~!」と叫んでしまうかも知れませんが、花笠祭りの時の屋台は個人でやってもたかが知れているものです。
 例えば、テーブルはどうするのか、や、テントはどうするのか、という問題がありますし、仮にテーブルやテントを家庭用アウトドアグッズで補ってしまうとどうしても素人っぽさを払拭出来ず、良いイメージをアピールする事が出来ない=売り上げを作る事が出来ない、という落とし穴に陥ってしまう事は必至でしょう。
 「お祭りの時だから用意すれば何でも売れる」という考えはただの幻想でしかありません。用意するのであれば「手軽さ」「買いやすい金額設定」「スムーズな提供オペレーション」そして「味」というのを考え抜かなくてはなりません。お祭りで道行く人でも提供したものを買ってくれれば「お客様」なのです。
 数年前、当店が入っております「商店会(全くヤル気が無い商店会)」で珍しく花笠祭り時に「出店をやろう」という話になり、その調理、販売を任された事がありました。
 その時、先ほど挙げました「手軽さ」「買いやすい値段設定」「スムーズな提供オペレーション」を考えると勿論、フランス料理は除外されます。「手軽さ」「買いやすさ」に重きを置くと「焼き鳥」「煮込み」「焼きそば」などに絞られ、当店の厨房機器や器具も加味すると「焼き鳥」「煮込み」にする事にしました。
 丁度良い事にその時某ホテル調理長から牛スジ肉を頂いたばかりでしたので煮込みは「牛スジ煮込み」に決定。炭火の焼き台もありますから(チャコールグリルをやろうと購入した物)焼き鳥も出来ます。
 あとは「味」の問題です。煮込みは足りないスジ肉は業者さんから取り寄せ2回ほど煮こぼしてアクを取ってから柔らかく煮込むのですが、正直、牛スジだけからでは味の奥深さを表現する事はできません。そこで、日々の仕事で使っている魚の骨を天日干しし、昆布と一緒に布袋に入れて牛スジと一緒に煮込みます。牛肉のアミノ酸と魚の骨、昆布のイノシン酸のブレンドですな。しかし、一緒に煮込みすぎると魚臭さが目立ってしまいますから骨と昆布の引き上げ時というのも重要です。
 牛スジが柔らかくなったら玉葱、人参、こんにゃく(穴をあけ手でちぎったもの)、を大量に投入し一緒に煮込み、日本酒、味醂、醤油で味を付けて更に煮込み、一晩置いて馴染ませます。因みに、これを30リットルの寸胴2本分仕込みました。
 「焼き鳥」はもっと大変で、「タレ」の仕込からしなければなりません。大きな鍋に、醤油、味醂、日本酒を1升づつ入れ上白糖1キロを加えて沸騰させます。それに焼いた葱、生姜、玉葱、焼いた鶏ガラを入れて弱火で2時間ほど煮込み濾して冷まし、一週間以上冷蔵庫で寝かせます。
 焼き鳥は「もも肉」一種類にしました。いや、ひとりでは「もも肉」だけの仕込みが限界です、600本刺さなければならないのですから。刺し方も考えると難しいもの。逆に言えば簡単な料理など無い、という事です。
 鶏の「もも肉」は正確に言うと「もも」と「すね」に分かれます。「もも」は柔らかくジューシーな身質、「すね」はスジっぽさを感じますが弾力があり食べごたえがあります。
 これを一串に「もも」2、「すね」1の3貫刺します。食べた時の鶏肉のジューシーさに重点を置くと、これ以上小さくして4貫にするよりも、少し大きめにして3貫の方が良いと考えました。
 これを「白焼き」しタレをつけて「本焼き」となるのですが、流石に「タレ」だけでは飽きてしまいます。そこでバリエーションを増やし「タレ」「塩」「カレー味」「オマール塩」の4種類にしてみました。(オマール塩はオマールエビの殻を乾燥させ粉砕し塩を合わせたものです。勿論、思い付きだがね)
 売れ行きは上々で煮込み、焼き鳥、共に二日間で完売する事が出来ました。

 そこで疑問に思われる方がいらっしゃるのではないでしょうか?なぜ、商店会の屋台の売り上げが良かったのに毎年、それを実施しないのか?

 それは、大きな壁と問題点が立ちはだかったからです。

 まず一つの壁は、終わってから商店会の古参の方々が「なぜ焼き鳥をタダで食べさせなかったのか?」と騒ぎ始めたからです。確かに、商店会の催し、と考えれば商店会の人たちに無料配布、という事も考えられたのですが、屋台の設置及び撤去、テーブルの設置及び撤去、なども含めて何一つ関わらず、当初、自分たちは関係ない、との立場を取ってきて、「商店会の方々はすべて半額」を黙認していたはずなのに突然、「焼き鳥をタダで食べさせろ」と来るのはどうなんでしょうか?
 私的な考えは花笠祭りの屋台に商店会として参加する事で当店を含む通りの商店街を少しでも知ってもらえたら、そして、その売上げ金で商店会の皆さんで打ち上げ出来たら、と思ったのですが、やはり若輩者の立場はいつの時代も弱いものです。

 そして最後の問題点。これが決定的だったのかもしれません。

 え~、何と言いましょうか、一緒にその屋台をやってきた方が、まぁ、何と説明しましょうか・・・着服したんですな、売上金を。

 すぐにそれが発覚して当商店会の屋台は幻の1回で終了する事となりました・・・ダークな終わり方ですよ・・・

 来年は何かやろうか、毎年そのような事を思うのですが、いろいろ考えると難しいです、な。

 それより、ご予約様で埋まってくれればいいんですよね、店が。

 それを考えよ。
















 
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