『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

近衛前久(このゑさきひさ)[3/3]

2017-03-20 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
近衛前久(このゑさきひさ)[3/3]

〔現代仮名遣い〕このえさきひさ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


1581年1月安土での馬場入りに馬に乗り参加。

1581年2月京都での馬揃えに、公家衆として

    参加。

1582年2月太政大臣となる。

1582年5月信長は上国した徳川家康一行の

    苦労をねぎらうため、安土城惣見寺

    で舞と能を興行する。近衛前久・

    信長・徳川家康・穴山信君・楠正虎・

    長雲・宮内卿法印・二位法印らが見学。

    幸若義重が舞をつとめよいできで

    あったが、丹波猿楽の梅若家久の能は

    出来が悪く信長から折檻を受ける。

    信長の要望により幸若義重は再度舞を

    舞い、信長から黄金十枚を下され、

    梅若家久も世間体を気にした信長から

    金子十枚を下される。

1582年5月に太政大臣を辞職。

1582年6月本能寺に織田信長を亡ぼした光秀

    の軍勢は、織田信忠の籠もる二条新御所

    を襲撃。猛烈な反撃にあった明智の軍

    は近くの近衛前久の家の屋根から弓・

    鉄炮を打ち込み、御殿に火を懸ける。

    信忠は神妙に軍働きをつとめた後切腹。

    介錯は鎌田新介がつとめ、指示通り亡骸

    を隠しておいた。

本能寺の変後出家して「竜山」と号し嵯峨に

隠棲したが、羽柴秀吉から疎まれ浜松の徳川

家康のもとに身を寄せた。晩年は子の信尹と

所領問題で不和となり、東山慈照寺東求堂に

隠棲した。1612年死去。父稙家から古今伝授

を受け歌道に通じ、青蓮院流の書家であり、

有職故実・暦学に造詣が深く、馬術・放鷹にも

精通した。地方流寓の間に地方文化の興隆に

尽くした功績は大きい。


 ※信長公の近衛前久への厚遇度合から見て、

  信長は天皇家を天孫降臨の時から補佐して

  来た藤原家を尊重しているように見えます。

  その前久が豊臣秀吉に疎まれ子供の時から

  信長の大ファンである徳川家康の庇護を

  受けたという事実は、本能寺の変の本当の

  仕掛け人を探る大きなカギになるかもしれ

  ません。


↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村


  


コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 近衛前久(このゑさきひさ)... | トップ | 陶磁器の世界:ハウステンボ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

信長公記の蔵:人物篇」カテゴリの最新記事