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生野区 住吉区

2016-10-12 17:35:31 | 増井千晶
【生野区】

生野区(いくのく)は、大阪市を構成する24区のうちのひとつ。同市の東南部に位置する。

上町台地の東側に位置し、平坦な地形が続く。区境は、西側が大阪環状線、北側が近鉄奈良線によって形成されているために直線的なものになっている。そのために北西端に位置するJR西日本・近鉄鶴橋駅は、駅舎の一部が隣接する天王寺区や東成区にまたがる格好になっている。

文書に残る日本最古の橋である猪甘津橋は、現在の生野区に架かっており、周辺に鶴が群れていることからその後「鶴の橋」と呼ばれるようになったとされ、現在の「鶴橋」の地名となった。河川の埋め立てにより現在は橋がなくなったが、「つるの橋跡」の石碑がJR環状線の桃谷駅近くに建っており、橋脚の一部が残っている。

生野長者と呼ばれた長者の子が、生まれつき言葉をしゃべらないので聖徳太子に相談したところ、聖徳太子が「私が前世に預けた舎利を返しなさい」と長者の子におっしゃった。すると長者の子は3つの舎利を口から吐き出し、それからは普通にしゃべれるようになった。聖徳太子はその舎利を一つは四天王寺に、一つは法隆寺に、一つを長者に賜った。その舎利をおまつりするために長者は寺を建て、舎利尊勝寺と名づけた。生野区の名称はこの故事に登場する生野長者に由来し、長者の建てた舎利尊勝寺は生野区内に現存しており、一帯の地名「舎利寺」の由来となっている。

外国人登録者数は29,369人(2011年9月現在)で区人口の約22.1%に達し、大阪市区で最も多い。そのうち、韓国・朝鮮籍は27,072人、中国籍は1,745人など。ちなみに全国最多の外国人登録人口を抱える東京都内における最も外国人人口の多い 新宿区の人口(324,082人)に対する外国人人口(34,121人)比率は10.5%(平成26年1月1日現在)である。同区の比率はその倍以上であることから、全国で最も外国人居住者の比率が高い行政区の一つである。(例外で、人口統計には含まれないが沖縄県中頭郡北谷町は、人口約2万8千人に対し、基地内外に在住する米軍人・軍属とその家族が約1万人が在住しており、町民人口の約3分の1に相当する)

個人商店、中小企業が多く、特にゴムと硝子工業が有名。『田島(たしま/たじま)のめがねレンズ』は特に有名で、昭和40年代までは全国シェアの90%の生産量を誇っていた。田島神社境内には「レンズ発祥の地」の碑がある。商店街も多く賑わいを見せている。

またロート製薬、フルタ製菓、ノーベル製菓、モリタ、そして山本化学工業の本社や工場も生野区に所在する。ちなみに、ロート製薬の一社提供番組であった『アップダウンクイズ』(毎日放送)や『クイズダービー』(TBS)などで使われたオープニングキャッチの映像は、生野区巽西にあるロート製薬の本社工場・研究所である。

鶴橋地域や今里新地地域にはコリア・タウンが形成されており、コリア系商業ビルも存在する。


【住吉区】

住吉区(すみよしく)は、大阪市を構成する24区のうちのひとつ。

上町台地の南部、大阪市の最南部に位置し、大和川をへだてて堺市の堺区・北区と隣接している。6本の鉄道、あびこ筋とあべの筋の2本の主要道路が、いずれも都心部と南北に結ばれている。区の北部は、阿倍野区南部から続く住宅街で、阿倍野区の帝塚山一丁目から住吉区の帝塚山中、帝塚山西とお屋敷町となる。その南に位置する住吉大社を中心にした住吉、上住吉は、旧家の多い昔からの静かな住宅地域であり、その周囲に清水丘、墨江、遠里小野、南住吉、山之内などの勤め人階層の多い住宅地が続いている。

現在の区域はおおむね、大阪市編入前の住吉郡(のち東成郡)住吉村・墨江村・長居村・依羅村の大半と、西成郡粉浜村の一部に当たる。1950年代頃までは区の東部・南部に農地が広がっていたが、宅地開発が進んだため区のほとんどが住宅地となっている。一方で、農地もごく一部に残っている。

住吉は古代では「すみのえ」と訓み、万葉集にも登場し、歴史は古い。現在、住吉、住之江、墨江は、別な地域名となっているが、元は住吉の読みの「すみのえ」の異表記だった。

もとは摂津国住吉郡といい、古代には住吉津(すみのえのつ)とそれを護る住吉大社が栄えた。中世には、住吉大社宮司の津守氏の館の住之江殿(正印殿)に南朝の後村上天皇の御座所(皇宮)が約10年間置かれ(住吉行宮)、南朝の拠点となった。

1878年(明治11年)に「郡区町村編制法」が施行されて大阪府住吉郡が誕生し、郡内では唯一の町だった安立町に郡役場が置かれた。1896年(明治29年)4月に新しい郡制が施行され、住吉郡は東成郡に併合され消滅した。

住吉区は、1925年に大阪市の第二次市域拡張に伴って東成郡全域が大阪市に編入された際、旧住吉郡全域(平野郷町、喜連村、北百済村、南百済村、田辺村、依羅村、墨江村、住吉村、安立町、敷津村、長居村)と旧東成郡天王寺村の区域で誕生した。大阪市編入の際には、当初は名称を「阿倍野区」とする案が出されたが、最終的に住吉区の名称が採用された。

その後、1943年の分増区により、当時の阿倍野区・東住吉区にあたる区域を分離した。1943年の分増区の際、当時の住吉区役所は現阿倍野区の区域にあったことから、現在の阿倍野区が「住吉区」の区名を継承し、現在の住吉区の区域を「住之江区」とする案が出された。しかし住民の反対によりこの案は撤回され、住吉大社周辺を含む当区の区域が住吉区の区名を継承した。

また1943年の分増区の際、隣接する西成区との間で区の境界の見直しがおこなわれ、一部区域(天下茶屋・山王地区および旧敷津村の一部)が西成区に分離編入されると同時に、当時西成区に属していた粉浜地区が住吉区に編入された。

1974年には住吉区と住之江区に分区された。従来の区について、細井川(細江川)以北は南海本線・細井川以南は阪堺線を境に東西に分け、西部を住之江区とした。住之江区の分区により、住吉公園や安立、浜口などは住之江区に属することとなった。

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