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“To Yoko. Tribute to Ichiro Masuda Japanese Vib man”  ‘17-10-24

2017-10-24 08:00:14 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

Mail :from Jazz vocalist Yoko

・松本はNHKのクラスはじめ、プライベートのレッスン、ライヴ等、一番身近な街ですが,西さんはじめ、東京での仕事で一番ご一緒するミュージシャンとのライヴがあります。12 /2には上田で、12/3には松本ですが、よくパンフレットを置いて下さるオーディオショップで色んな話をしている時に、お店のオーナーが「そういえば・・・バイヴの増田さんって・・・どうしていられるかなぁ~・・・?」と突然おっしゃって、「昔は御嬢さんの葉子さん?を連れてよくこっちにも~」なんて続けて言い始め・・・「ぇえ~あの、Massyさんのお家の前にお住まいって伺ってる増田さん?」とビックリしすぎて・・・私は面識が全然ありませんけど・・・お伺いしてみます~なんて話して戻ってきました。

まさか、突然、バイヴの増田さん~なんて耳にするなんて思ってもいなかったので、本当に驚いて、Massyさんにメールさしあげよう!となりました!不思議ですね、まさか!でした。

 ・Thank you Hot Mail!

・増田一郎 さんのこと。 本名増田 弘之 僕と一字違い それで芸名を一郎に...子供は男、女 葉子、もう一人男の3人。 長男はミキシングをしていて、次男はダンスの振り付け師をやっているらしい。

年は僕の一つ上 明治大学に通っていた頃から、ハワイアンに興味を持ち 当時はバッキー白片のアロハ・ハワイアンズを初め大橋節夫のバンドがメジャーでした。一郎さんはポス・宮崎のバンドでサイド・ギターを弾いていたようですが、北村英治のセクステットでVibを弾いていた松崎竜生(暁星卒)さんが酔っ払ってドタキャンをしたので、そのトラに一郎さんにVibを弾かせたそうです。

それ以来、一郎さんはVibを始めて、一方 竜生さんは鈴木章二のリズムエースで「スズカケの道」が大ヒット、その後は自分のバンドでライブをやっていました。僕の学生時代の追っかけの娘が晩年は竜生の面倒を見ていましたが、その子が死んで、竜生も千葉の養護ホームに入っている筈です。「竜飛会」と言う会を年3回くらい銀座BRBで開いていました。そこにはジョージの「グローバルホアー」も良く出ていました。メンバーは大体、江草圭介Pジャンボbドラムは結構替わって居ましたね。そこに或る時「秋元順子」が全くの飛び入りできて「ベサメ」を歌い、巧いので驚きました。全く何処かの下町の伯母さんそのものでした。江草さんが連れてきたようです。

さて、話がそれましたが、増田一郎さんは北村英治さんの所に15年位?居た後、MJQをまねてカルテットを組みました。ピアノ根本慶子ドラム中村吉夫ジャンボ小野 ホンとにいいバンドでした。それと同時に「金」で蒸着する「GML」というレーベルのCDを作り始めました。これが事業的には失敗の様で僕の家の前を売り引っ越しました。娘さんは桜美林を出て歌を歌っていました。惜しむらくは本当に背が低く歌は巧いし、英語もシッカリしていました、だけど余り仕事が無くアルバイトをしていました.一郎さんは年3回くらいフルバンドを組み彼女を歌わせていました。彼はこだわりが強く、このフルバンドはジャジーな良いバンドでした。

クラシックのマリンバの先生なんかとこラボもしていました。脳梗塞を7年くらい前に患い、東北の方に入院をしたりして、3年くらい前に亡くなったようです。その後、奥さんも亡くなったそうです。僕の家の通りに、渡辺晋と”SiX JOS” のドラム南広さんが居た影響でこんな様になったのでしょうか?“Six Jose”は 当時、CoolJazzと呼ばれたGeorge Shearing をコピーした、”Septenber in the Rain”をテーマに松本英彦(テナー)中村八大(ピアノ)宮川泰(ギター)安藤八郎(バイブ)渡辺晋(ベース)南広(ドラム)で最高の人気バンドでした。その頃は毎週日比谷音楽堂でJazz Cosertが開かれ大入り満員でした。あるコンサートでSixJoseが”Lover”と言う曲をやり、南広がドラムソロをやりました。その中でワルツのリズムを入れたのです。たまたま、帰り道井の頭線で一緒になりその夜のコンサートの話をしていて、「広さん、今日のloverのソロ、ワルツのリズムを入れたでしょう?あれ原曲がワルツだったから?」と聞いたら、「弘ちゃん、良く解ったね...そうなんだよ。音楽家はお客様がいい音だったね...と覚えて呉れるのが嬉しいんだよ」このやり取りは、「ふーん、そう言うものか...」と今でも良く覚えています。何しろ、僕はステレオのプレーヤーとBenny Goodmanのレコードを持っていて、広さんが「レコード聞かせてよ」と言って、ステイックとブラシを持ってきて、雑巾を叩いて練習をしていた事がありました。イチローさんはこの頃は未だバンドの坊やを遣っていましたね。一郎さんの家には、練習部屋を増設してから色んなミュジシャンが来ました。レイモンドコンデ、ミルトジャクソン、根本慶子さん(我が家のゴールデンレトリーバーのLoveが大好きでした)が良く一郎さんのところへ来ていました。 ミルトジャクソンはマレットが500グラムあったそうです。一郎さんはそんな重いのはどうしても弾けない。と言っていました。 兎に角、凝り性でした。阿見さんも暫く習いに来ていて、最後は喧嘩したようです。でも彼女のバイブは一郎さんポイですね。銀座C’est la Vieの小倉婦美代ママも一郎さんの所に習いに来ました。偶然にも僕が始めた個人リースの一号車フェアーレディーを使ってくれた人です。矢張り峰純子さんにも習っていました。後に此のお店には、三保敬太郎君とか小林潔君とかを紹介して金曜日にはライブをやっていました。一郎さんの家の後側に浜田山診療所があり僕のホームドクターですが、一郎さんの家から漏れるジャズの影響を受けてか、その先生がジャズ好きになり、従兄弟さんが「小泉清人」と言うギター弾きだそうです。先日その人のCDを頂きました。ウエスモンゴメリー風の引き方で、結構良かったです。貴女のCDをあげたら、「一緒にやったことあるんじゃないの?」と言っていました。意外な人が意外なので驚きました。懐かしい話で長文に成ってしまいました。いい時代だったのですね...

・秋田 何処でやるのですか?知っている人も居るので案内してみますが....

Massy

 

 


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