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北タイ陶磁の源流考・#2<2010年考察のサンカンペーン窯創業考・#1>

2017-01-04 13:34:51 | 北タイ陶磁
<続き>

字面ばかりで恐縮であるが、2010年頃に考察したサンカンペーン窯創業考である。今となっては随分偏った見方をしていたとは思うが、今回考察する北タイ諸窯源流考の前段として紹介したい。
メンライ王により、ランナー朝が成立する直前の13世紀前半は、ベトナムで陳朝が興隆した時期に相当する。この時いわゆる安南陶磁はタインホアを中心に、南宋の影響を受けたと云われる緑釉や黄釉の陶磁が焼造され、南宋の作風から独自の展開を示し、14世紀初めころからは、元代の龍泉窯や景徳鎮窯に類似した白磁や青磁まで、作られるようになり、東アジアや東南アジア一帯に輸出された。
関千里氏はその著作『ベトナムの皇帝陶磁』で、以下のように指摘しておられる。カンボジアとベトナム諸窯には、磁州窯系の作品に繋がる装飾表現が顕著であることから、蒙古襲来がいかに凄まじかったかを物語っている---と著しておられる。そして磁州窯の足跡は、更に中国内を幾つかに分流して南下し、各窯業地で少しずつ姿を変えながら、ベトナムの地で終結したかに見える---との指摘である。また氏によると、京・北嵯峨の東南アジア陶磁館が所蔵するスコータイ窯の鉄絵草花三魚文の鉄絵表現法は、磁州窯系の流れを汲むとの指摘をなされている。
一般論としての元朝の南下圧力は、史実でも明らかな通りであり、更に中国と東南アジア諸国との交易があったことも、サンカンペーン窯址から龍泉青磁、元染め等々の破片や、タイ西部山岳地域の埋葬地から、その完器が出土することから明確である。
しかしながら磁州窯の足跡については、良く理解できないでいる。関千里氏が事例としておられる、東南アジア陶磁館のスコータイ窯鉄絵草花三魚文の鉄絵の何をもって磁州窯系の流れを汲むのであろうか。器面を覆い尽くすほど表現された、繁辱さを指摘されているのか、それとも草花文や魚文の形、例えば魚文であれば、鱗や鰭あるいは頭部の形式や表現方法であろうか。だとすれば磁州窯の魚文とシーサッチャナーライ、スコータイ、サンカンペーン窯のそれとは、共通点というより違いが目につく。
器面一面におよぶ装飾、つまり繁辱さであるが、これを磁州窯の流れと呼べるのであろうか。一般論として、子供だけでなく大人でもそうであるが、画用紙とクレパスを渡し、何でもよいから描いて欲しいと言った場合、その結果はどうであろうか。或る人は画用紙一面にそれこそ繁辱なまでに何かを表現するであろうし、或る人は画用紙の一部分に何かを表現する。つまり余白の多い描き方をする人もいるのであろう。この繁辱な表現は、磁州窯の影響というより、自然発生的な表現方法と考えたい。
磁州窯ないしは磁州窯系の影響を語るには、もう一点課題がある。華北の窯は平地に築窯されているのに対し、中国南部から東南アジアにかけては、若干の傾斜地に築かれており、サンカンペーン窯もその例に洩れず、タイ芸術局の調査報告によると、窯の大部分が丘の縁に設けられ、地形に沿って10-20度の傾斜があると云う。
この窯伝承の経緯はどうであろうか、その調査報告も含めた言及が必要であろうと考える。
関千里氏は、こうも指摘されている。スコータイのラームカムヘーン王は、大越国・陳朝にも朝貢し、陳朝にいた磁州窯系の流れを汲む陶工たちを、伴って帰国したと考えると、頷ける---とのことである。元朝の南下圧力による磁州窯ないしは吉州窯などの磁州窯系陶工の南下と、陳朝からの磁州窯系の陶工のスコータイへの移動は、器形や装飾の仕方やその装飾のみで、築窯材料やその構造、方法は別物であると考えるのは、やや不自然である。繰り返すが陶工が移動するからには、故地の窯に似せるのが自然の姿であろう。では磁州窯ないしは磁州窯系の窯と安南陶磁、タイ北部窯の窯構造、方法、材料、築窯地に、その影響を見ることができるのであろうか。
小生は残念なことに、安南古窯址については、まったく無知であり、上述の疑問について、調査のしようがないが、タイ北部諸窯との間に類似性があるとの判断根拠は持っていない(2010年頃の知見)。
またスコータイ朝のラームカムヘーン王が、陳朝へ朝貢したとの歴史上の出来事については、年代記類に記述されているであろうが、不勉強でそれを実見していない。
長谷部楽爾氏によると、”中国南部鉄絵の台頭は、北宋末(11世紀末)か12世紀初めのことらしく、それはちょうど磁州窯で鉄絵が盛んになる時期と一致している。そして12世紀から13世紀にかけては、南北とも鉄絵の最盛期で、多くの窯でさまざまな鉄絵が盛んに作られたようである。これは偶然のこととは思われない”との指摘後、次のようにも述べられている。”磁州窯の陶工が戦乱を逃れて南に移り、鉄絵の手法を伝えたなどということは、よほど確実な資料がなければ、いえないことである。”---全く同感であり、少なくともタイ北部諸窯への影響については、磁州窯陶磁の破片や完器が、窯址や西部山岳地域の埋葬地から出土しないことも相俟って、その影響を云々する段階に至っていないと思われる。
しかしながら関千里氏が指摘されたように、元染めや明青花、五彩磁の安南陶磁への影響は、その窯の形式や築窯方法についての伝播は別にしても、器物の形状や装飾形式が確実に伝播したことは、それらの多くに共通性がみられることから明確である。




                                   <続く>

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