あぁ、湘南の夜は更けて

腱鞘炎やら靭帯断裂やら鎖骨骨折やら…忙しいッス。
自転車通勤往復100kmは、そんなこんなで自粛してました。

『あぁ、憧れのインド航路』印度旅行記-その4

2005年01月02日 | 印度旅行記

インドの首都ニューデリー空港には夜の10時に着いた。
税関を抜けて外に出るとまとわりつくような熱気。
遂に憧れのインド大地を踏んだ(1987年)。
空港からデリーの街までは数km離れている。
荷物を背負って歩き出すと暗闇から客引きたちがワッと攻めてきて、
僕はインドが始まったんだと実感した。
そのタクシードライバーたちを振り切ってニューデリー行きのバスに乗った。

1人で夜中のインドにほっぽり出されて不安になってきた、
と同時に「よーし、よーし」と燃えてきた。
インドの大きな街はイギリス統治前のオールドシティーと
統治後のニューシティーが必ず背中合わせにある。
ニューシティーは道も整備され、官公庁やオフィス、観光旅行者のホテルが建ち並ぶ。

一歩足を踏み出せばオールドシティー。


そこはまるで…ごった煮の世界。曲がりくねった細い道は迷路のよう。
その両側には間口2間の店がぎっしりと並び、その店の前には屋台や露店。
路上には人はもちろん、犬、牛、羊、豚…ありとあらゆる生き物が人々と対等に、
それ以上に堂々と歩き回っていた。

時々は死体を見ることがある。
さらには死につつある人さえも…。

あたりには香辛料やお香の匂いとヒンディ音楽の洪水。
ヒンディ語の耳障りだけど、どこか音楽的な会話。

ニューデリー駅でバスを降りると、今度はワッと安宿の客引きたち。
僕は彼らをかわしてメインバザールへと歩き出す。
メインバザールは駅前から延びる小道。バザールとは市場のこと。
手に入れたいものは何でも手に入る、不法なものでさえも。
その中には目指す安宿が数百とあるのだ。
そう、ここは安宿街。
世界中の旅人たちが集まる、ほんの1km足らずの路とその両側に拡がる街。
もう夜も遅いというのに街はまだ活気で溢れていた。

僕はボンベイロッジという看板が出ていた宿に入った。
オーナーはターバンを巻いたスィク教徒。
「シングルでいくらだ?」と聞くと「10Rs(当時120円)だ」という。
最低の部屋代だった。
もちろん部屋も最低で、低い天井(本当に低くてまともに立てなかった)と
窓のない部屋にはポツンとベッドが一つあるだけだった。


“これじゃあ昼も夜もワカラナイナ”

疲れていた僕は一晩だけと旅装を解いた。
どの独居房のような部屋で寝袋にくるまり、
遠く聞こえるヒンディ音楽をバックにいつの間にか眠りにつき、
僕のインド第1日目が終わった。

腹が減って目を覚ます。とにかく真っ暗で時間が分らないのだ。
外に出ると、もう街は動いていた。昨日の続きが始まっていた。


メインバザール沿いの食堂に入って、インド本場のカレー(サブジー)を注文。
さすがに辛くて涙が出た。だけど本格的に美味かった。
その頃はまだ生水を飲む勇気はなかったから、コーラを頼んだ。
銘柄はカンパコーラ。
インドは輸入制限のある国で、自国で生産するのが建前なのだ。
マハトマ・ガンディは今もインドに生き続けているのだ。
カンパコーラのロゴはコカ・コーラのそれに良く似ていた。

メインバザールを歩いていると時々物乞いに出くわす。
生まれたばかりの赤ん坊を抱いた老婆は、その手を柄杓のようにして赤ん坊の口へ運ぶ。
「この子に食べ物を」という仕草。
悲しそうな目で見られると動けなくなる。
何故だか原罪意識というものを感じてしまう。
「僕は何故日本に生まれたのだろうか…
この子供は何故インドに生まれたのだろうか…」
金をやるという行為も逃げ去るという行為もできず、視線を宙に漂わせる。
僕は貧乏旅行とはいえ信じられないくらいの金を持っている。
しかし、金を渡すという行為はそれだけの意味じゃない。
僕と彼らの上に精神的な上下関係を作ってしまうだろう。
たった今会ったばかりで、僕は彼らをあまり知らないのに…。
しかも彼らはインド社会の中で生きていける。
良い悪いは別にしてカースト制度とヒンドゥ教、このシステムの中で生きていける。
僕が彼らに金をやることは、そのシステムを壊すことになるだろう。
彼らを物乞いではない、ただの旅行者専門の乞食にしてしまうのだ。
だからと言ってその場から逃げ去るというのも難しい。
何故か罪の意識が生まれてくる。

「金をやれば済むのか? 逃げされば済むのか? 
ドウシテこの人は僕の前にイルノダロウカ?」
僕の頭は空白になりショートしていく。

5歳くらいの1人の男の子が僕の前で立ち止まる。
素っ裸同然のその子の目に見据えられると、僕は何故だか「負けた」と思った。
視線を外した。
その子の目は生きることに必死だった。
金もあるし生活にも困らない。だけど完敗だった。
彼は突然僕の足元に跪くと僕の足の甲に額を打ちつけ始めた。何度も何度も…。
そして「パイサー(金)」と言う。
僕はどうしていいのか分らず立ち尽くすだけだった。

僕の罪のような気がした。

「Who can help me?」と言うと、1人の青年が彼を蹴っ飛ばした。
強烈だった。
僕の一言で彼は蹴られた。
どうしてたった1Rs(当時12円)の金を渡せなかったのだろう。
この勝負、やはり彼の勝ち。
5歳の少年は必死に生きていた。彼は彼のやり方で生きていた。
彼のやり方は旅行者にはズシッ!と響くのだった。
(wrote in 1990)

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3 コメント

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Unknown (モミアミモ)
2006-08-24 03:46:23
masa さん



暑い日が続いていますが、そこでふと思ったことがあります。毎日の仕事の中で職場が暑いこともあり、暑さとは毎日戦っております。3~4リットルの水分が欠かせないです。

もし今、印度に行ったとしたら果たしてどうるなるのだろうと思いました。記事には寝袋に包まると書いてありましたが、暑いのに大丈夫なのだろうかと思いました。



あと、当時の印度において「マハトマ・ガンジー」は、一般社会の中ではどういう風に捉えられていたのですか?



よろしくお願いします。

僕は乾季に行ったのです (masa)
2006-08-24 21:43:58
◇モミアミモさん

僕が行ったのは乾季ですね。

空気が乾いているので気持ちいいんです。

と言っても暑いッスよ。

水分は街角の露天た路上のチャイ屋で

いくらでも摂れます。



寝袋は蚊対策というのもありますし、

寝台車の木のベッドなんて寝袋がないと痛いです。

で、夜はカラッとしてるので、

寝袋の中が却って気持ちよかったり…



マハトマ・ガンジーはクリシュナ(ヒンドゥの神)や

シヴァ(同じく)、ガネーシャ(同じく)、

サイババ(あのサイババ)などと

同じようにちょっとしたアイドルでした。

僕が行ったころは20年前、

まだインドを独立させた人として

彼らが外国人に自慢する対象でしたね。
Unknown (モミアミモ)
2006-08-25 02:33:27
勉強になりました。ありがとうございます。

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