経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、吉田忠雄

2011-02-25 02:38:43 | Weblog
    吉田忠雄

 吉田忠雄は1908年(明治41年)富山県魚津で生まれています。父親の仕事は、これが仕事といえるとすればですが、野山で鳥や獣を捕獲し、それを調教し芸をしこんで、売ることでした。家計は満足とはいえません。どちらかと言えば貧困家庭でした。父親にならったのか、忠雄も魚や鳥をとることを覚えます。網で魚を取って町で売ったり、竹の子の皮を季節に仕入れて、売りさばき利鞘を稼ぐなど、生計のためとはいえ、子供の時から商才には秀でていました。蛙の生態を知るために、一日中川の蛙を観察していたこともあります。栴檀は双葉より芳しで、理科系・製造業向きの性格も持ち合わせています。読書家でした、偉人伝をよみあさり、特にカ-ネギ-の伝記で発奮します。カ-ネギ-が説く、富の循環、つまり人のためにすればおのれに帰る、という考えは、忠雄の生涯の指針になります。忠雄は、善の循環といいなおして、それを実行します。
 1923年(大正12年)高等小学校を首席で卒業します。不景気な時代でした。兄がゴム靴販売をしているのを助けます。この間兵役検査で第二種補充兵とされ、おおいにくじけます。忠雄は自らの体格が貧弱なことを気にし、また恥ずかしいこととしていました。しばらくして東京に出て、同郷の古谷順幸の店で働きます。古谷商店は陶器や食料品の輸出入をしていました。ここで商人として鍛えられ、また頭角を現します。上海での活躍で20000円もうけました。黙っていれば自分の収入になるのですが、忠雄はその種のインチキをことに嫌いました。古谷は商才のない人でやがて破産します。古谷の店ではじめてファスナ-というものを知ります。
 1934年(昭和9年)独立してサンエス商会を立ち上げます。ファスナ-の製造販売会社です。これが後に発展して、吉田工業株式会社(YKK)になります。当時ファスナ-のメ-カ-は大阪に集中していました。大阪から取り寄せて東京で販売します。忠雄は買った品をすぐには販売しません。不良品がないか否か厳密に検査し、作り直します。約2/3は不良品でした。価格は割高になります。すぐには売れません。しかし忠雄は、サンエスの商品に不良品のないことは、消費者にわかってもらえる、の信念で頑張ります。世間に不利になるようなことはしない、が彼のモット-です。不善を流さない、善を循環させる、が彼の生涯の経営指針でした。この「善の循環」は次第に内容が豊富になり、消費者のため、低価格、大量供給、需要の開発と、経験と発想は進化し、ケインズ的な経営になってゆきます。この間武田駒子と結婚しています。駒子は生涯の良妻でした。また忠雄は糖尿病を患っています。二人の兄を魚津から呼び寄せます。特に次兄の久松はファスナ-製造の職人になり、以後技術部門の責任者となり、会社に貢献します。
 低価格で良質な製品を作り売るが忠雄の方針です。そのためには身を粉にして働くこと(家族従業員すべて)とたえまない研究が必要です。こうして徐々に経営は拡大してゆきます。戦時には軍部に取り入るのが一番です。商工省の監督官に勧められて、軍部に製品を納めます。軍部の信用を得ました。まず低価格であること、次に常に実用新案の製品を作るので性能に安心できます、この二つが軍部の信用を得た理由です。良質の製品を低価格で納入したわけです。加えて納入が極めて早いのも海軍にとっては魅力でした。海軍需要の100%、陸軍の34%にあたる数量を納めました。戦争も押し詰まってくると中年でも兵役に取られました。忠雄にも召集令状がきます。彼の工場は海軍指定になっているので、兵役は免除されます。周囲の反対にもかかわらず忠雄は志願しました。もっともしばらくすると軍指定業者は兵役を解かれます。軍としては中途半端な兵隊を採るより、製造面で活躍してくれる方が助かる、の思いだったのでしょう。結局空襲で工場は焼かれます。会社は解散となります。忠雄は残った施設と共に、魚津に行きます。
 終戦、昭和20年9月から製造を再開します。工場用施設として風呂屋の家屋を買いますが、なんのかのと横槍が入ります。やむなく風呂屋を営みつつ、製造を始めました。鞄団体に食い込みます。販売方式は独得です。製品をまず納入します。鞄製造業者が資材切符を手に入れたら、現金ではなくこの資材切符で支払ってもらいます。資材切符とはこの時代特有のものです。なにしろ絶対的物不足の時代ですので製造に必要な資材の消費は国の許可が要ります。それが資材切符という形になりました。忠雄のやり方は現品納入が他の業者より早くなるので、ありがたがられました。多分戦時中から資材の一部を貯えて将来に備えていたのでしょう。誠実なだけでなく目端がきくのも、忠雄の特徴です。昭和21年忠雄29歳の時点で、ファスナ-の生産額では日本一になりました。
 1947年(昭和22年)のある日、米人バイヤ-と知り合います。この時ファスナ-製造における、彼我の技術格差を知り、忠雄は呆然自失します。ファスナ-のムシを生地に打ち込むに際し、こちらは手打ち、向こうは機械打ちです。生産量も品質も全く歯が立ちません。悔しい、恥ずかしい。だけでなく米国製品が輸入されたら日本のファスナ-業者は全滅します。以後の10年間忠雄はひたすら技術革新に邁進します。ムシ打ち機械、チェ-ンマシ-ンを35000ドルで購入します。まず外貨割り当ての確保が必要です。通産省に日参します。次が融資です。日本円にして1200万円の融資を引き出します。ひたすら輸出力強化のため、日本のためと、日本興業銀行を口説きます。伸銅工場用にさらに450万円の融資も引き出します。あわせれば、資本金の60倍の投資です。部下が危ぶむと、運用益がでるから借金にびくびくするなと言います。つまりもうかっているのだから、借金は返せるという論法です。この論理が通るためには前提が要ります。まず経済全体が上り調子・成長期にあることです。さらにその中で売れ筋の商品である必要があります。そして技術革新を伴い、新規の需要が見込めるものの製造販売が必要です。新規の需要とそれにともなう技術に妥当する商品は何か?それを見極めるのが経営あるいは商売というものです。
 忠雄の技術革新は続きます。チェ-ンマシ-ンの更なる購入には、世界最大の米のタロン社が抵抗し妨害します。ここで忠雄は目のすくような飛躍をします。チェン-マシ-ン
を日本の機械メ-カ-に作らせます。日本精機がこの役割を引き受けました。ムシ製造のための金型も従来のものではすぐだめになります。機械打ちですから使用頻度が段違いに多いのです。新しい金型にはタングステン合金であるタンガロイが必要です。ちょうどその頃朝鮮半島では戦争をしていました。銃砲弾の尖端にはタンガロイがついています。これを利用します。ムシが増産されればスライダ-も増産しなければなりません。スライダ-連続加工装置が必要です。若手を登用して装置を作らせます。ムシやスライダ-を軽量化します。そのためにはアルミニウムにマグネシウムを加えた合金56Sが必要です。これは日立製作所に作らせました。1956年(昭和31年)アルミ合金工場と圧延伸銅工場が完成します。
 忠雄のやり方、技術革新は独得です。必ずしも熟練者を重用しません。熟練者は発想に新鮮味を欠き、周囲は熟練者に頼り勝ちになるので、停滞する、と忠雄はみます。新しい技術の革新に際して、忠雄は若い未経験な者を意図してぶっつけました。すべて任せます。素人の発想に期待し、責任感を涵養します。忠雄はファスナ-という商品の製作を川上へ川上へと遡行します。ファスナ-の素材も、ファスナ-を作る機械も自社で作ろうとします。こうして生産システムをどんどん拡大してゆきます。こうすることによって、他の産業も賦活されます。
忠雄が技術革新に邁進した昭和20年代後半から30年代前半にかけての10年間は日本の産業において著しい特徴を示す時期でした。戦後の混乱が終わります。それまでに蓄積してきた技術に、外国から導入した新技術を接続して、新しい増産システムがこの時期に作られてゆきます。YKKのみならず、東洋レ-ヨンも松下もブリジストンも大映映画も川製鉄も、関西電力も、また国産技術重視のトヨタでさえ、技術導入に走りました。そしてこの時期後に高度成長経済といわれる飛躍の時期が続きます。戦後中小企業は沢山できましたが、この技術革新をなしとげた会社のみが大企業になっています。
忠雄は日本経済の復興飛躍というこの時期に、自社の技術革新に邁進します。同時に自らも変貌します。それまでは道徳の型にはまったまじめ人間という人柄が、殻を破って、自信に満ちて、将来を見通し、大胆に決断し、人を引っ張る、カリスマに変貌します。
昭和29年黒部市で25万坪の用地を買い、黒部工場を建てます。代理店制度もうち立てます。この時忠雄のカリスマぶりを示す逸話があります。忠雄は競争相手が密集する大阪へ乗り込み、 「僕と競争するな あなたがたは僕と競争すれば必ず滅びる だから僕のものを売ったほうがいい あなたがたがYKKのものを売るのなら、僕は日本で売ることをやめる」と言います。当然猛反発を受けました。しかし勝負は忠雄のものでした。保証金制度を実施し、代理店の資金ぐりを助けます。紡績工場やテープ工場も建てます。川上産業の重視です。資材から製品までの一貫工程を追求します。社内預金と持株取得も勧奨し推進します。株は非公開です。こうして社員の資産の増大を計ります。もっともこの制度は会社の資金集めにも寄与しています。また個人の金をどう使うかは、個人の自由ですから、強く勧めるのは問題ですが。昭和20年75000円だった資本金は10年後の昭和30年の時点で、1億4700万円、2000倍になりました。会社は大きくなりましたが、忠雄の私生活は質素でした。自分用の車は買いません。生産に直接役立つものには徹底的に投資するが、それを取り巻く間接的なものへの投資は極力控えました。
海外へ進出します。昭和31年東南アジアへ、35年アメリカにヨシダインタ-ナショナルを作ります。関税障壁を乗り越えるためです。オランダにも工場を作ります。YKKの進出に脅威を感じた、欧州の企業が連合して特許訴訟を起こします。民族差別とよそ者排斥の感情に満ちた、判決に泣かされます。
昭和33年頃からハイサッシ製造に乗り出します。周囲はみな反対でした。ファスナ-でこれだけもうかっているのに、なんで他業種に進出する危険を冒すのか、と言います。健全で平凡な見解です。忠雄は押し切ります。昭和37年ビル用サッシを製造販売します。成績はもう一つでした。41年ごろから個人住宅向けハイサッシを製造します。個人住宅向けはYKKが初めてでした。建築ブ-ムを見込んでのことです。大いに売れました。ハイサッシ製造で驚くべきことがあります。アルミの押出機を自社で造ってしまいます。川上産業重視の一環ですが、YKKは工作機械製造会社にもなりました。昭和38年YKK産業株式会社を造ります。販売専門の会社です。各地に営業所を作りますが、その方式が独得です。営業所立上げの志願者を募ります。志願者は一人で当該の地に行き、全責任をもって、また全面的な権限を与えられて、立上げに邁進します。若手登用が忠雄の方針でした。ですから若い取締役や常務・専務がごろごろしていました。不景気の時期に思い切って投資するのが、忠雄のやり方でした。そして株式公開を嫌いました。
そういう忠雄を外国の情勢が襲います。輸出増大に対して欧米諸国は関税と課徴金で対抗します。ダンピング提訴、特許侵害訴訟も起こされます。特許というものは解釈次第でどうとでもなります。1972年(昭和47年)ニクソンショックが日本を襲います。10%近い円高です。忠雄は海外への直接投資でしのぎます。ジョ-ジア州のメ-スンにファスナ-製造の一貫工場を作ります。この時同州知事である、ジミ-・カ-タ-(後の大統領)と昵懇になります。さらに石油ショックがやってきます。原材料が値上がりして、損失は甚大でした。忠雄は値上げを極力回避して損失を被ります。
1986年(昭和61年)脳梗塞で倒れます。社長の座を長男の忠裕に譲ります。1993年(平成5年)死去、享年84歳でした。

(補)2008年3月の時点で、資本金119億円、売上高6726億円、営業利益396億円、純利益マイナス69億円、純資産4924億円、総資産8546億円、従業員38399人、すべて連結の数値です。1994年に吉田工業KKからYKKに社名変更しています。ファスナ-と建築資材と工作機械を三大部門とし、スライダ-ファスナ-では世界のシェアの45%を占めています。株式は非公開です。以上の数値などからわかる事は高度成長期に急伸したYKKは平成不況後も元気でやっているということです。そして私を驚かしたのは、工作機械が主力三部門の一つになっていることです。




参考文献   獅子が吼える、YKK創始者吉田忠雄の生涯  リヨン社

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