経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、田中久重

2011-09-07 21:47:54 | Weblog
    田中久重

 通称からくり儀右衛門、田中久重は没年から逆算すれば1798年、筑後久留米に生まれました。父親は鼈甲細工の職人で同時に経営者でした。久重は幼時より器用で、細工物製造の過程に興味を示し、父親の仕事場の隅から、職人の仕事振りをじっと観察する習慣がありました。寺子屋に通います。久留米絣の考案者井上伝に協力し、花鳥図の模様を織り込むことに成功します。父親の家業は継ぎません。茶運び人形を作り、それを久留米の五穀神社の境内で披露し、観衆を驚かせます。この人形は盆に茶碗をのせて運んできます。人の前で立ち止まります。人が茶を飲み干し、元の盆に茶碗を戻すと、人形は向きを変えて、元の位置まで歩いてゆきます。
 久重は1824年(文政7年)久留米を出ます。熊本の清正公前で茶運び人形を披露し、観衆をうならせます。からくり儀右衛門の名は広まります。大阪に出ます。道頓堀で雲切人形を興行し、人気を博します。盛名は得られましたが、久重はどこかしっくりきません。実際の生活に役に立たない技術になんの意味があるのかと思います。一時久留米に帰ります。
1934年(天保5年)36歳時、家族と大阪に移住します。無尽燈を製造します。それまでの照明器具は行灯でした。油に芯をつけて、芯の先を燃やして灯りをとります。灯りが風で消えないように、周りを紙で覆います。ですから灯りは暗く、夜の作業には差し支えます。加えて行灯では、始終油を補給しなければなりません。久重の作った無尽燈では、圧縮空気を利用して油槽から油を芯に補給します。材料は銅、高さ60cm、従来の行灯に比べて安定し、なにより油の補給をしょっちゅうしなくてすみます。銅製ですので火災の心配がなく、芯を大きくして照明を強くすることができます。サイズにより3両から1両までの7種類ありました。結構高価ですが、大阪商人には喜ばれ売れました。夜間の仕事が非常にやりやすくなります。類似品目である鼠燈や折りたたみ式燭台も考案します。儲かりましたが、せっかく建てた家も、1839年(天保7年)の大塩平八郎の乱で焼失します。
49歳、雲竜水を作りました。消火器の一種です。それまでの消火器は水鉄砲のようなもので、連続注水ができません。雲竜水はそれを可能にしました。おもしろい花火も考案します。空に一隻の軍艦が浮かび、号砲を出して消えてゆく、というものです。
組織的な学問の必要性を感じて、土御門家に入門し陰陽学を習います。大覚寺から近江大ジョウの称号をもらいます。優れた職人や芸人に与えられる称号です。
1851年(嘉永4年)京都四条烏丸で機巧堂を開設します。からくり及び機械のメ-カ-です。この間万年自鳴鐘を作っています。これは1年間自動的に進行する時計です。京都の広瀬元恭に師事しオランダ学を学びます。恐らくオランダ語は習わず、師の解説を傾聴していたのでしょう。ここで久重は西洋機械の要諦をつかみます。それ以上に幸運だったことは、広瀬門下の同僚です。佐野栄寿左衛門(常民)、陸奥宗光、中村奇助、石黒寛二らがいました。天真爛漫な久重は彼らからも愛されました。久重も私財を研究費に投じます。
佐野栄寿左衛門を通して彼の主君である佐賀藩主鍋島斉正(閑叟)から、佐賀にきて機械作成を指導してくれるように、依頼されます。この依頼に答えた第一号の成果が、蒸気船と蒸気機関車のミニチュアです。オランダ船を解体し、構造を知った後、組み立てます。組立作業は久重が指導し、オランダ語を読める者が書物からの知識を久重に伝えて援助します。1855年(安政2年)藩主の前で行われた実験は成功し、ミニチュアの機関車は線路を走り、蒸気船は池の中を進みました。多分大隈重信などもこの実験供覧を見ていたはずです。後に大隈は参議として明治初年の政界を切り回し、電信交通などのインフラ整備の基礎を作ります。久重の作った蒸気船と蒸気機関車の印象は大隈の潜在意識に焼き付いていたのでしょう。
大船建造を解禁した幕府は、佐賀藩の科学技術の能力を評価し、オランダから贈与された汽船の管理を佐賀藩に委任します。観光丸、150トン木製外輪式蒸気船です。観光丸は練習線として使われました。1853年佐賀藩は長崎に第一次伝習生を派遣し、オランダ人から、造船、砲術などの教育を受けます。伝習生の中に久重も佐野もいます。こうして佐賀海軍ができました。
1858年(安政5年)佐賀藩は蒸気船建造予算を発表し、いよいよ本格的な船の建造に取り組みます。1865年(慶応元年)竣工、長さ18m、幅3m、10馬力、凌風丸と名づけられます。
 幕府は佐賀藩に汽罐の製造も依頼します。佐賀藩が久重の指導のもとで、作った装置や機械には、電信機、大砲鋳造、反射炉、蒸気機関砲などがあります。佐賀藩は鳥羽伏見の戦いでは中立を保ちました。薩長土の軍隊が江戸に進駐し、彰義隊を討伐する寸前に新政府軍に参加します。この時蒸気機関砲や新式大砲はものすごい威力を発揮し、以後の戊辰戦争でも活躍します。幕末中立を保った佐賀藩が薩長土肥と並び称せられる藩閥に加わり、新政府に多くの人材を送り込み、活躍できた背後には、この藩の機械技術の能力があります。
佐賀での久重の名声はすぐ隣である、彼の故郷久留米にも伝わります。真木和泉が久重招致を提唱し、藩主有馬慶頼が賛成します。結局久重は佐賀久留米両藩で仕事を半分づつすることになります。この間久重の養子である儀右衛門が長崎で佐賀藩士に惨殺される事件が起きています。久留米では、溶鉱炉と鋳砲工場を作っています。80ポンド砲を製造します。藩主御前の実験では10km飛びました。合格です。15石3人扶持中小姓に任じられ正式の士分になります。藩士としては中位の身分でしょう。久留米藩士今井栄とともに、久留米海軍の創設に参加し、船を買いに上海まで行っています。久留米には海はありません。豊前(現大分県)の大浦近辺を艦隊の根拠地にします。製氷機も造りました。製造所諸職裁判役に任じられます。久留米藩の機械製造の総責任者になりました。久留米藩も新政府に参加することになり、船で兵を江戸に送ります。新式砲は威力を発揮しました。
1868年(明治元年)、明治天皇の臨場を仰いで、新政府海軍の観艦式が行われます。参加した船は、千歳丸(久留米藩)、電流丸(佐賀藩)、華陽丸(山口藩)、丙寅丸(山口藩)、万里丸(熊本藩)、三封丸(薩摩藩)、旗艦は電流丸でした。電流丸と千歳丸のエンジンは久重が作成したものです。
維新後も久重は久留米に留まり工場で製造を続けます。1973年(明治6年)に上京し麻布大泉寺で工場を開きます。久留米の旧工場を東京に移転させました。事情があります。久留米にやってきた県令の水原久雄は、旧久留米藩の施設は、版籍奉還廃藩置県後は新政府のものと考えます。本来なら国家へ収公されるはずですが、久重の役割の重要性を考えれば、いっそのこと久重の個人事業として、少なくとも一時期は行わせた方が都合がいいだろうと考え、久留米の工場施設を久重に一任しました。この間には新政府で活躍している佐野常民の尽力もあります。佐野は海軍の国産化を考え久重を起用しました。
久重は工場を二度移転させ、芝新橋金六町九番地(現在の銀座8丁目近く)におさまります。久重が製作した製品のトップはモ-ルス電信機です。他に電信用時計仕掛のスクリュ-や生糸試験器を作っています。明治11年工部卿伊藤博文の主宰で電信開業式が大体的に行われます。この機に久重の工場は工部省に吸収され、逓信省電信燈台用品製造所になります。
久重は1881年(明治14年)に死去します。享年83歳でした。彼は儀右衛門の死後、久留米の金属工匠金子平八郎の六男大吉を養子に迎えて二代目久重と名乗らせます。二代目久重は海軍のために多くの仕事をしましたが、明治15年に工部省を辞め、芝金杉新浜町に工場を建てます。二代目の田中工場です。海軍省発注のあらゆる製品を製造しました。電信、電話機、機械水雷缶、火薬砲、発火電池、信管電信機、電気表示機、特殊望遠鏡などが造られました。明治20年の時点で680人の人員を抱えていました。当時としては大企業です。1993年(明治26年)懇望により二代目久重は工場を三井に譲ります。三井は社名を芝浦製作所と改めます。これが現在の東京芝浦電気、東芝の発祥です。しかし東芝では初代久重が芝新橋金六町(銀座)に造った製作所を東芝の原点にしています。三井側でこの譲渡交渉に当たった人物が藤山雷太です。藤山は三井を産業資本に変えようとした中上川彦次郎の股肱です。また藤山も佐賀の出身でした。以上の経過から解るように、東芝の成り立ちには、久留米藩、田中久重個人、工部省、三井と資本が入り乱れております。これも幕末維新の変革期の特徴でしょう。
久重は東京で工場を経営する中、万端の機械考案の依頼に応ず、と広告を出しました。自らの発案を公開し、同時に技術コンサルタントのさきがけをも為しました。
久重の生涯を振り返ってみて、私は以下数点の事に気がつかされます。まず幕末佐賀藩における機械技術の水準です。時の中央政府である幕府よりも一時期は高い水準にあったようです。海軍力においても同じでしょう。久留米藩が海軍建設に邁進した事実には驚かされました。ということは私達が知らないだけで、全国の津々浦々において、同様の動きがあったのであろうと憶測されます。幕府や薩長のみならず、全国の諸藩が必死に軍制改革したがって政治改革に取り組んでいたのでしょう。
私達は製造業の近代化というと、西欧の文物の輸入しか知りませんが、一方で久重に代表されるような自前の国産技術もあり、この下地の上に輸入された種が捲かれ、育っていったのだろうと思われます。
からくりを製造業に結びつけたのが久重です。ぜんまい、ネジ、軸、歯車、棒や糸を組み合わせてからくりを作ります。工学も基本的には同じ作業なのでしょう。近代化されれば扱う資材は違いますが、エンジニ-アや職人の作業の原点はからくり製作と同じです。その意味で工学とは地味で泥臭い作業でもあります。臥雲辰致、豊田佐吉、同じく喜一郎、小平浪平、早川得次、高柳賢次郎、それぞれ分野も立場も違いますが、やっていることは同質です。現在ある素材を組み合わせ組立、時として新しい素材を求め、組み立てるのが工学というものでしょう。工学の背後には物理学や数学があり、一見華やかな理論に魅せられますが、物作りの原点はからくりと同じでしょう。田中久重と一番似ている経済人はやはり島津製作所の島津源蔵です。

参考文献  田中久重  集英社インタ-ナショナル

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