経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、吉田秀雄

2011-02-04 03:21:43 | Weblog
      吉田秀雄

 広告業界の最大手、電通の四代目社長です。吉田秀雄が社長を務めた戦後15年の間に広告業は、業種としての位置と自覚を確立し、同時に電通は業界トップの地位を獲得しました。秀雄は1903年に小倉で生まれます。実家の姓は「渡辺」です。父親は小倉の某工場で働いていましたが、会社の苦境で解雇されます。一家は台湾に渡ります。秀雄10歳時、父親は台湾で事故死します。小倉で残された母子達は貧窮の生活を送ります。母親は電燈の集金人、秀雄は新聞配達で細々と暮らしていました。秀雄は小倉市内の資産家吉田一次・ミサオ夫妻の養子になります。秀雄の実母への思慕は強く、吉田夫妻特に養母のミサオとは打ち解けませんでした。ミサオとはほぼ終生対立した関係にありました。
 吉田家の後押しで、中学校に入ります。4年終了の時点で鹿児島第七高等学校に入学します。20歳時、東京帝大の法科を受けて不合格、横すべりで商科に入学します。在学中同郷の小林雪枝と結婚し一子をもうけます。現在で言うできちゃった結婚のようです。子「宏」を養家に預けることになります。宏への養父母特に養母の愛情は深く、宏引取りでは、秀雄はミサオと極めて険悪な関係になります。秀雄は宏に会うのに、正面から養家の門をくぐりにくく、教師の了解を得て、学校から宏を連れ出し、会ったそうです。博は小倉、秀雄は東京住まいでした。高校在学中から、吉田家の財力は衰えます。
大学在学中は、結婚と子供、生活難などのため、勉学がはかどったとはいえません。1年留年して卒業します。当時金融恐慌、さらに金解禁と大不況が続き、深刻な就職難でした。大学は出たけれど仕事先がありません。何回もの不合格を経て秀雄は、日本電報通信社(後に電通)に入ります。受験するまで社名も知るか知らずで、まして仕事の内容などに関しては全くの無知でした。生きるがために入りました。地方内勤課に配属されます。同期の東大卒入社が他に二人います。
電通は1901年(明治34年)光永星郎により創立されています。光永という人は、大陸浪人型のロマンティストでした。彼が会社の伝統行事として行う特徴的なものに次の三つがあります。毎年恒例として社員全員が富士登山を行います。約6時間をかけて、黙々として3700mの高峰を目指します。上を見るな、ただ足元を見よ、上を見るとくたばるぞ、と言われ、ひたすらなる忍耐を強いられます。次が1月1日午前3時に全社員が本社に集まり行う、元旦の仕事始めです。この行事は会社が苦しい時、12月の給料が年内に間に合わず、年を越してやっと支給できたこと、先輩の苦労を忘れないための行事です。第三が電通寒行です。仕事始め、社員はほぼ全員白装束で幟をたてて、東京市内を回ります。各得意先に挨拶するためです。これらの年中行事は創立者光永の人柄を表しています。血気盛ん、横紙破り、そしてロマンティストというところです。光永には、ひょうそうにかかった小指を、なたで切断したという逸話があります。そしてこの光永の気風はそのまま吉田秀雄に受けつがれます。
秀雄のこれまでの人生を見てきますと、極めて屈曲に富む人生であることが解ります。台湾各地を転々とした生活、実父の早世、貧窮、養子体験、学生結婚、子供の扶養をめぐっての養母との確執、生活難、就職難などです。東大は出ましたが、飛び切りの秀才と言うわけではありません。心ならずも入社した勤務先は、近代的経営とは言えず、逆に魑魅魍魎が蛮居する世界でした。こういう中に放り込まれた秀雄は次第にこの環境に同化されつつ、同化されきれずに生きてゆきます。ですからその生活は野放図で派手で、宵越しの金は持たないという風で、女房には極めて不孝な亭主に徹しました。
当時の電通の仕事は通信部と広告部に分かれていました。通信記事を新聞社に売り、新聞社から広告のスペ-スを買い、それを広告主に売ります。通信部は赤字でしたから、広告部の営業で稼ぎます。広告の料金規定はあって無いが如しでした。仕事は広告部外勤社員の歩合制で、詳細は彼らの自由に任されました。要は外勤社員が一定の広告を取ってきて、一定の収益を会社に寄与すればそれでいいのです。仕事は個人交渉です。電通としての組織だった対応は取れません。それでなくとも小さい規模の会社が個人の次元で、より大きい新聞社や広告主に対します。両者に頭があがりません。先方の言うなりになり、泣き落とし、賄賂ないしつけ届け、ペテン、時に脅しなどの手段が使われます。割戻し(キックバック)は当然でした。広告部の方がそれなら、新聞社や広告主の係りもそれなりに、です。三者併せて虚虚実実というよりみみっちい駆け引きが行われます。魑魅魍魎とはこのことです。秀雄は秘かに改革のチャンスを待ちます。広告の実務に慣れ、仕事の表裏に精通しつつ、同志と外書を講読して広告の理論を学ぼうとします。チャンスは就職後10年して訪れます。なお秀雄が仕事に就いた頃、広告に載せる主な商品は、薬品、化粧品、食料品、書籍でした。それに火事と死亡記事が付け加わります。昭和初年に盛んだった円本(1冊1円の全集)のブームと普通選挙施行は広告の新たな対象を提供しています。

秀雄の入社とほぼ同時期に昭和金融恐慌が起こりました。電通(日本電報通信社)のライヴァルであった、帝通(帝国電報通信社)は倒産します 同時により強力なライヴァルが現れます。東京と大阪を本拠とする10に近い中央新聞社が連合して、通信の分野に進出します。満州国が成立します。連合も電通も満州各地に支部を置きます。連合の画策で満州国政府は連合と電通の合併を命令します。否やはありません。統制経済の時代 でした。昭和11年電通は、通信部門を切り捨て、広告部門に特化します。電通における広告部門の比重が圧倒的になります。昭和13年秀雄は地方部内勤課長になります。16年地方部長、取締役、さらに常務と社内での地位は飛躍的に上がります。もっとも肝心の広告の方は戦時経済軍需優先でさっぱりでした。
この間秀雄は統制経済をバックとして、準マルコウ広告料金算定方式を定めます。まず全国の広告会社をなるべく、合併させ少数にします。合併は政府商工省の方針でした。さらに商工省の意向を受け、その意向として、広告料金の統一を図ります。政府は官僚に理解できるように、諸商品の価格や料金を規格化することを好み、勧め、強制しました。広告業自体が縮小する中で各社はこの統制を受け入れざるを得ません。この事態に面して、広告業界で10年隠忍し、批判的に対応し、業界の表裏を熟知していた秀雄は何者にも変えがたいプロ中のプロでした。もともと広告業界は魑魅魍魎の世界でしたから専門家といえるほどの人材は寡少でした。言ってみれば、秀雄は政府の意向(威光)を背景に、業界の抵抗力が最も弱い時期に念願の、科学的広告料金体系を作成したのです。多くの抵抗がありましたが、秀雄は強引にこの作業をやってのけます。課長から1年以内に常務までの昇進は、秀雄がいかに必要とされていたかがわかります。またこの作業を通して彼は官界にも民間にも顔を広げます。マルコウとは政府公定価格のことです。
昭和20年終戦。1948年(昭和23年)秀雄は第四代社長に就任します。予想に反して満場一致でした。ただちに重役陣を一新します。重役は他の社員より早く出勤すべしとして、早朝8時に役員会議を催します。以後秀雄は、彼の為した事業とそのやり方から「広告の鬼」と言われます。秀雄が真っ先に取り組んだのは、人材の確保です。海外からの引き揚げ者、軍需産業の従事者などは人材の宝庫でした。公職追放者にも暖かい保護の手をさしのべ人材確保の一環にします。特にメディア関係で追放された大物を集めて、ユニヴァ-サル広告社を作りました。実際の活動はほとんどありません。将来の人脈形成に備えます。大卒もどんどん採りました。戦後民需産業は解放されたので、広告業界には追い風でした。電通はこうして黒字を記録し続けますが、資金繰りはいつも苦しく、いつ黒字倒産しておかしくない状況が続きます。
ラディオの民放(民営放送)に最も積極的に取り組んだのは秀雄です。新聞業界はむしろ民放推進に消極的でした。藤山愛一郎や船田中などを頭にかついで秀雄は民放推進に動きます。まずいことに、藤山と船田は公職から追放されます。秀雄の孤軍奮闘になりますが、彼は頑張ります。広告業界のみならず、大メディアである新聞業界にも働きかけます。いろいろな業界との接触で得た知識を独占せず、公開し解説します。民放推進のために関係者をオルグ(組織)していたようなものです。政府、官僚、民間の各業界そして、GHQ相手の交渉はつらかったようで、秀雄は常に苦虫を噛み潰したような顔をしていました。昭和26年ラディオの民営は承認されます。同時にそれは電通の勝利宣言でもあります。新聞よりより新鮮で、広告料金だけで経営する企業ができたのですから、広告業の視界を一気に広げました。少し遅れて民営テレヴィも承認されます。この事業は読売新聞の正力松太郎が推進しますが、秀雄は正力を極めて高く評価し尊敬していました。(正力松太郎列伝参照)
1955年(昭和30年9社名を電通株式会社に変更します。昭和31年秀雄、始めての外遊。34年念願の年商30億円突破。以後電通の業績はどんどん伸張し、日本広告界の巨人になります。しかし秀雄の最大の業績、そして電通発展の礎石は民放推進にあり、さらにその背後には、戦時中の料金算定方式の確立があります。もし広告業界が従来のように魑魅魍魎の跋扈する混乱状態であったなら、ラディオやテレヴィの宣伝媒体には、とても乗れなかったでしょう。
生まれてから西進するまでの苦労、望んだわけでもない広告業に放り込まれるような形で入って以後の10年間の心理的葛藤に、もまれつつそれに慣れ、仕事を組織し、戦後はそれを民放推進の形で拡大します。こうして「広告の鬼」が出現しました。1963年(昭和38年)胃癌で死去、享年は59歳でした。
秀雄には明確な職業観があります。ある会合で次のように彼は述べています。「広告という産業は、一片の鋼材を、一枚の布を扱うのではない。広告が生み出す人間の良知良能、広告効果に換算される莫大な貨幣価値、それらを完全な相互の信用によって取引する独自の産業である。そこでは信用のみが生命であり、信用の維持確保のみが事業を可能にする。広告取引の信用確立が、広告効果の上昇と、媒体発展の要因である」と。
また仕事振りに関しては、「鬼の十則」なるものがあります。要約すれば、仕事を創れ、相手に働きかけよ、大きな仕事をせよ、難しい仕事を狙え、取り組んだら放すな、周囲を引きずり回せ、計画を持て、自信を持て、頭は常に全回転せよ、摩擦を恐れるな、となります。彼の信条は、人材即資本でした。
以上のような人柄ですからエピソ-ドは掃いて捨てるほどあります。入社志願者が面接で、コネが無いので希望した新聞社に入れないと言います。その場で当の新聞社の役員に電話し、自社(第二志望として)を受けている学生を、同新聞社に推薦します。終戦後まもなくの間は物資欠乏でした。靴がなく下駄で通勤している新社員をエレヴェ-タ-で発見し、襟首をつかんで社長室に引きずり込み、驚愕している新社員に適当な靴を当てます。学生服で通勤する新社員に背広上下一式を与えたこともあります。口癖は「バカモン」でした。鬼の十則にのっとって社員に仕事をさせますから、この口癖は常習でした。叱りすぎたと思えばデパ-トで何か買って送ります。趣味は無く、マージャンとゴルフは付き合い程度です。美食もしません。腹が満たされればそれでいい、でした。政治家との積極的な付き合いはなく、一人一行で広告業に徹底します。常に思考しているので一人になることを好みました。狭い部屋が好きで、秘書室が実際の仕事場になりました。趣味とはいえませんが、女性との交際は盛んでした。それもほとんどが玄人の女です。相手は十指に余るといわれています。また買物依存症といってもいいくらいに買い物をしました。デパ-トで服を同時に何着も買います。あまりにたくさん買い、商品を持ってさっさと店を出るので、店員が値札を確認する閑がなかったほどです。外国で車外を見て、側近にあれとあれとあれを買えと言いつけます。社員はそれを確認して送るのに難儀したといわれます。
もう一つ逸話があります。昭和29年化粧品の大手メ-カ-中山太陽堂が不渡手形を出します。電通の債権は8000万円でした。広告主がこの事態に至ると、広告業者は穏便内々に事を処理し、損金は広告社が被るのが、この業界の通例でした。始め秀雄もそうするつもりでした。しかし太陽堂社長の誠意に欠ける対応に、秀雄は態度を硬化させ、太陽堂の破産申請という強攻策にでます。広告業の旧習を改め、産業としての自立をめざすためです。
吉田秀雄の生涯は精神分析的に興味をひかれます。父親の解雇、台湾各地を転々、父親の喪失、貧窮、養子縁組、養母との確執、学生結婚、生活難、わが子の養育をめぐって養母との対立を深めたこと、就職難、望まない業界に入り、納得できない商慣行にさらされたことなどなどは、秀雄の葛藤を助成し蓄積させます。この葛藤は、戦時中さらに戦後の活躍の中で、それも周囲の賛同を必ずしも得られず抵抗を押し切って進むという作業の中で発散(専門的には行動化)されます。ですから彼の経営者としての態度は独裁的で専制的かつ攻撃的、自分は絶対に正しい、です。部下には無条件の服従を強います。同時に過剰と言うより不必要なほどの、温情を部下にかけます。
最後に電通について個人的に聞いた話をいたします。電通の給与はすばらしくいいが、すばらしくきつく働かせられます。ある社員が病気になります。全快してもういいだろうと、医師に相談したところその医師は、ああいうきつい会社だからもう少し養生をしておれ、といったそうです。また電通ではかなりの数の縁故採用をするそうです。それも自社の業務に役立てるためです。広告主や名の通った企業の幹部の子弟は積極的に採用されます。広告をとるためです。もっと強烈な話も聞きましたが、それは伏せておきます。
現在電通は単独企業としては世界最大であり、連結(グル-プ)としては第5位にあります。もちろん日本では最大、次位の博報堂の倍の規模にあります。資本金589億円、営業利益3732億円、純利益3113億円、純資産5508億円、総資産1兆1823億円、従業員数17031人(すべて連結)です。

参考文献 この人、吉田秀雄 (文春文庫)

コメントを投稿