白鷺だより

40年以上暮らした演劇界の思い出を回想します

吉村 正人

白鷺だより(250)平尾昌晃「恋の片道切符」

2017-07-23 11:59:56 | 思い出
   平尾昌晃「恋の片道切符」

7月22日 あの平尾昌晃が死んだ 79歳だった

ミッキー・カーチスや山下敬二郎と組んで「ロカビリー三人男」として日劇ウエスタンカーニバルのトップスターとして名を馳せ 一方 田舎の歌謡曲少年だった僕らには「星はなんでも知っている」や「ミヨチャン」の路線の歌手としてよく聞いていた(当時は昌章)

星はなんでも知っている
 ゆうべあの娘が 泣いたのも
 かわいいあの娘の つぶらな
 その目に光る 露の跡
 生まれて初めての 甘いキッスに
 胸が震えて 泣いたのも

そしてポット出の人気歌手に「よくあるように」拳銃不法所持で逮捕され いつの間にか歌の世界から消えて行った

再び我々の前に出て来た彼は布施明の「霧の摩周湖」の作曲者としてであった
作曲者になったきっかけは「ミヨチャン」の大ヒットの陰に隠れていた1961年の「おもいで」がジワジワとヒットしはじめ その曲をナベプロの新人布施明のために譲ったのが切っ掛けだった それが「霧の摩周湖」の作曲に繋がった

あなたと歩いたあの道に
夜霧が冷たく 流れてた
何にも言わずに うつむいて
涙で濡れてた あの人よ
サヨナラ 初恋 もう二度とは
帰らぬ あなたの おもいでを
淋しく切なく 今日もまた
呼んでみたのさ 霧の中

その後「よこはま・たそがれ」「私の城下町」「カナダからの手紙」「二人でお酒を」「銀河鉄道999」などのヒット曲や必殺シリーズの劇伴などで活躍

しかし作曲家先生になっても彼のことがどこか「胡散臭く」「女たらし」に思われるのは僕が子供の頃彼が出演した映画を見たせいである


 その頃の松竹の監督第一作目は今村昌平が「西銀座駅前」を 山田洋次が倍賞千恵子で「下町の太陽」を撮ったように歌謡曲映画を撮るのが慣習だった まあそのほうが興行的にも失敗が少ないとの会社の親心だったのだろう さて早稲田で陸上部出身だった篠田正浩が第一作に選んだのは会社から提案された「黄色いサクランボ」を蹴って(ちなみにこの曲は同年山田洋次脚本で野村芳太郎が映画化した)歌謡曲ではなく当時平尾昌晃が日本語カバーをしてヒットしていたニール・セダカの「恋の片道切符」であった その脚本の出来栄えも良く当時篠田と同棲していた詩人白石かよこに書いてもらったのであろうと皆の評判だった

 僕はこの映画を12歳の時(1960)に封切で見ている と言っても松竹系の映画館に回ってくるのは1週間ほど遅かった 
僕はこの映画で東京で評判のロカビリーというものを初めて映像で見た
主演は小坂一也で恋人が牧紀子 渡辺美佐らしいマネージャーに鳳八千代 歌手役に平尾昌晃がそのまま出ている 
撮影所内での試写は評判は上々だった新人監督の第一作目 しかし興行的には振るわず 篠田はすぐ助監督に戻されてしまう 当時の大アイドル歌手平尾を女を騙す悪役にして最後には主題歌を歌っている最中に小坂に拳銃で撃たれて死んでいくという今でも考えられない使い方(よく事務所が黙っていたと思う)やロカビリーブームの裏側(サクラなど)の実態を描いて 僕も子供心に大丈夫かなと思うほどだった
アイドル歌手の裏側はリアルだが本人(平尾)は乗りの乗って演じており(いつも通り?) ラスト歌っている途中に小坂に撃たれたあと 一拍間をおいて再び歌いだすところは鳥肌ものだ 殆ど新宿歌舞伎町でロケを敢行して出来たばかりの新コマも映っていたらしいが記憶にない

Choo Choo train a chuggin down the track.
Gotta trabel on never coiner back..............

助監督に降格した篠田がその間に準備したのが寺山修司の脚本の「乾いた花」(岩下志麻、加賀まりこ)を二作目として発表(1960)
 この作品で篠田は一躍 松竹ヌーベルバーグの旗手に祭り上げられてしまう  
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