とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「ゲラダヒヒの平和社会」の何がいけないのか

2016-10-13 11:59:39 | 国語

 「ゲラダヒヒの平和社会」という教材を読んで一番最初に感じたのは、この文章のテーマは何なのかがわからないということでした。それは次のようなことです。

 この文章は、認知症の老人とどう心を通わせるのかを研修医に質問されたことから始まっています。それを受けて
「心を通わすのが、認知症の老人とのコミュニケーションの極意である」
といい、そして
「では、ぞの老人とどういうコミュニケーションを図るのが『心を通わす』ことになるのでしょうか。」
と問題を投げかけます。ここが問題提起と読むのが自然だと思います。

 その後、ゲラダヒヒの例が出て、次に認知症患者の例が出てきます。
「認知症患者とコミュニケーションを図るにはゲラダヒヒのように情動共有するコミュニケーションを図ることが大切だ。」
という話の展開だと想像します。しかし、そのような文言は最後まできません。

 そして最後には家庭での夫婦のコミュニケーションの話になり、
「ここで肝要なのは、断じて『理解する』ことではありません。むしろ積極的に理解はせず、優しい声音でうなずいてあげる。これができないヒトは、ゲラダヒヒにとくと学ぶ必要があるでしょう。」
と結ばれてしまうのです。

 あきらかに問題提起と結論がねじれています。いったいこの文章は情動共有コミュニケーションの重要性を述べようとしているのか、認知症老人と心を通わす方法を述べようとしているのかはっきりしません。テーマがはっきりしない。教科書に載る評論文としては失格なのです。

 国語の授業は何を学ぶのでしょうか。論理的な文章ならば、それを論理的に読み取ることです。そして論理的にその批判ができることを学ぶのです。この「ゲラダヒヒの平和社会」は論理性が欠如しています。確かに内容は面白いのですが、問題提起と結論がねじれているとしか思えないので、論理性に問題があるのです。

 実はこれは筆者のせいではないのです。教科書会社の問題と言っていいと思います。このことについて次の機会に述べます。
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