とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

村上春樹『騎士団長殺し』④メタ認知と自己

2017-04-23 14:49:53 | 騎士団長殺し
 村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいる。気になったことをメモ的に書き残す。その4
回目。「43 それがただの夢として終わってしまうわけではない」から。

 人間は、誰でも通常は「自分」という存在を疑いもなく受け入れている。「自分」は「自明な存在」である。自分は当たり前の存在であり、何の疑問も感じずに受け入れている。小さいころ「自分」という存在に疑問を投げかけることはあるかもしれないが、そんな根源的な悩みは成長するにしたがってすぐに忘れてしまう。通常は自分は自分であり、それを疑ったり悩んだりしないまま大人になる。

 しかし、ある瞬間その自己同一性に違和感を持つことがある。『騎士団長殺し』から引用する。

「しかしその朝は、それらはなぜか私の手には見えなかった。手の甲も、手のひらも、爪も、掌紋も、どれもこれも見覚えのないよその人間のもののように見えた。」

 病気になった時など、非日常の中に身を置いたときなどに、自分を自分として見ることに違和感を感じ始めて、自己を客観視する経験を持つ。それがメタ認知体験である。メタ認知を体験したあと、そのメタ認知の意味を積極的にとらえる人間が出てくる。そしてそれを新たな自己の再生ととらえる。

 この章の最後を引用する。

「私は自由なのか? そのような問いかけは私には何の意味も持たなかった。今の私が何よりも必要としているのはあくまで、手に取ることのできる確実な現実だった。頼ることのできる足元の堅い地面だった。」

 当たり前の自己に対する違和感を抱いたときに、自己の存在意義を見つめなおし、自己をこの世界にしっかりと位置づけようとする。そうしなければ不安定だからだ。不安定なままでは生きてはいけない。

 人間は他者との関係の中で生きている。自分が自明の存在であり、何も疑問を感じていなかった時代には他者は必要としない。自己に対する自信を見失った時、初めて自分といす存在は自分だけでは成立しないことがわかる。そこで他者との関わりを積極的に試みなければいけないことに気づく。

 小説はいよいよ動き始める。それは「私」の再生のために必然的に動き始めるのだ。
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