とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「いま青年はどこにいるのか」(『こころ』シリーズ②)

2017-09-01 07:51:00 | 『こころ』
 夏目漱石の『こころ』を考えるシリーズ。石原千秋氏の「『こころ』で読み直す漱石文学」を読みながら、感じたことを書き残しておく2回目です。

 第2章は「いま青年はどこのいるのか」。ここでは筆者は「上」、「中」おける「私」である青年について考察しています。筆者は青年は「先生」に対して批判的であり、自分が先生を乗り越える物語を語ったというのが、この『こころ』という小説の題材になった手記なのだと結論付けます。

 その根拠は次の通りです。先生は乃木大将の死んだ理由が解らないと遺書に書いています。そして青年に自分の自殺した理由がわからないだろうとも書いています。ところが青年は上四で「先生の亡くなった今日になって、始めて解ってきた」と書いているのです。それは青年が「先生」を乗り越えたということを意味しているというのです。

 それでは青年は何が「解った」のでしょうか。実は先生は「たったひとり」で死んでいくのですが、実はひとりではなく静という策略家がいて、ふたりで生きていたということが解ったと筆者は主張します。それが「解った」ことで青年は先生を超えることができたというのです。

 ここでの筆者の説明は重箱の隅をつくようなところがあり、私には無理があるように感じられます。しかし、「先生」の問題が青年に引き継がれていき、それが円環のなかにで繰り返されていくというのはこの小説の構造上の重要なテーマであり、青年は「先生」を乗り越えなければ、永遠に「先生」の苦しみは続くのです。ですから筆者の主張も納得できるところもあります。

 再度よく考えてみたいと思います。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする