団塊亭日常

バリ滞在6年を終え、日本での生活のあれこれ・旅・読書・映画・音楽・回顧・気になるニュース・育児・通信事業関連を

くれ竹の根岸の豚はうまからず

2017-06-13 10:21:54 | 映画・音楽・読書・宗教

2007-08-31初稿

2017/6/12追記


松山旅行で子規記念館において購入した子規歌集を寝しなにパラパラめくっていると次の歌が目に飛び込んできた。

くれ竹の 根岸の豚は うまからず ぱりすおもえば 涎し流る

ぱりすとはパリのことで思わず噴き出しそうになった。しかし結核で早世したこの歌人は床の中でこのようにパリの料理を夢想していたのかと思うとにわかに切なくなった。相当な食いしん坊であったらしい子規が想像の世界で食欲を掻き立てている。現実に根岸の豚とパリの豚のどちらが旨いかは関係ない。夢想だからとてつもなく旨いと思わなくてはならない。

ひょっとすると味覚を頭で創造できた男なのかもしれない。味覚の再現を試みてみると過去の味覚は旨かったとの論理的な記憶とかすかに残る味覚の記憶の足し算であることに気がつく。視覚の記憶と似たようなものだ。記憶の再現の中から創造が生まれるとの説の信奉者である私としたら味覚の創造はパリの街並みの視覚さえ創造したのかもしれない。 

正岡子規 病床六尺が青空文庫にある。この歌人の切なさを思い、 このようにして病床の楽しみをけなげにも見出していた一人の人を思い浮かべながら読んでみた。

 

病床六尺、これが我世界である。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寐て居た病人の感じは先づこんなものですと前置きして・・・ 

病勢が段々進むに従つて何とも言はれぬ苦痛を感ずる。それは一度死んだ人かもしくは死際にある人でなければわからぬ。 

余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。 

なるほど、あの人は悟りの境地に達していたのだ。

爰に病人あり。体痛みかつ弱りて身動き殆ど出来ず。頭脳乱れやすく、目くるめきて書籍新聞など読むに由なし。まして筆を執つてものを書く事は到底出来得べくもあらず。而して傍に看護の人なく談話の客なからんか。如何にして日を暮すべきか、如何にして日を暮すべきか。 

今朝起きると一封の手紙を受取つた。それは本郷の某氏(真宗大谷派僧侶、清沢満之の手紙)より来たので余は知らぬ人である。その手紙は大略左の通りである。


拝啓昨日貴君の「病牀六尺」を読み感ずる所あり左の数言を呈し候
第一、かかる場合には天帝または如来とともにあることを信じて安んずべし
第二、もし右信ずること能あたはずとならば人力の及ばざるところをさとりてただ現状に安んぜよ現状の進行に任ぜよ痛みをして痛ましめよ大化のなすがままに任ぜよ天地万物わが前に出没隠現するに任ぜよ
第三、もし右二者共に能はずとならば号泣せよ煩悶せよ困頓せよ而して死に至らむのみ

小生はかつて瀕死の境にあり肉体の煩悶困頓を免れざりしも右第二の工夫によりて精神の安静を得たりこれ小生の宗教的救済なりき知らず貴君の苦痛を救済し得るや否を敢て問ふ病間あらば乞一考あれ 

つらいのかと尋ねると「苦しいのは苦しいのだが、自分の苦痛がなんだか人事のように感じられる」とある人が言ったことを記憶している。人が思うほど苦痛ではないとも云った。この言葉を額面どおりに受け止めることはできない。尋ねる人への思いやりが半分以上を占めるに違いない。しかしどこか他人事と打っちゃるしか手立てはないのだ。

肉体の苦である上は、程度の軽い時はたとへあきらめる事が出来ないでも、なぐさめる手段がない事もない。程度の進んだ苦に至つては、啻になぐさめる事の出来ないのみならず、あきらめて居てもなほあきらめがつかぬやうな気がする。

笑へ。笑へ。健康なる人は笑へ。病気を知らぬ人は笑へ。幸福なる人は笑へ。達者な両脚を持ちながら車に乗るやうな人は笑へ。・・・年が年中昼も夜も寐床に横たはつて、三尺の盆栽さへ常に目より上に見上げて楽しんで居るやうな自分ですら、麻痺剤のお蔭で多少の苦痛を減じて居る時は、煩悶して居つた時の自分を笑ふてやりたくなる。 

病気を笑い飛ばす。笑うしかない、こういう種類の笑いもある。苦しさの極みで哄笑する。微笑が生まれたての赤ちゃんでもできるのに対し哄笑は生後すぐには出現しない。大人にもひきつった笑いがあるように哄笑の背後にもあきらかに恐怖がある。つまり泣きさけぶことと本質的には同じだ。子規は大人なので泣くわけにはいかない。こうして哄笑することで泣き叫んでいるのだ。

蕪村の句に
屋根低き宿うれしさよ冬籠
といふ句があるのを見ると、蕪村はわれわれとちがふて肺の丈夫な人であつたと想像せられる。この頃のやうにだんだん病勢が進んで来ると、眼の前に少し大きな人が坐つて居ても非常に息苦しく感ずるので、客が来ても、なるべく眼の正面をよけて横の方に坐つてもらふやうにする。 

体験者でしか感じ得ないな、蕪村の肺の丈夫さを彼の句から思い浮かべるとは。

病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない。

このごろはモルヒネを飲んでから写生をやるのが何よりの楽しみとなつて居る。けふは相変らずの雨天に頭がもやもやしてたまらん。朝はモルヒネを飲んで蝦夷菊を写生した。

モルヒネは植物由来の天然の鎮痛薬だがどのように作用して痛みの伝達を抑制するのは完全に解明されたわけではない。しかし天が与えた最高の贈り物の一つではないか。身近にモルヒネで苦痛がとれた人を看取った経験上の実感だ。

 

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