団塊亭日常

バリ滞在6年を終え、日本での生活のあれこれ・旅・読書・映画・音楽・回顧・気になるニュース・育児・通信事業関連を

嫉妬は無明か

2017-06-18 16:37:36 | 映画・音楽・読書

ルオー『嫉妬』1895年。油彩、キャンバス、67 × 100.5 cm。ベルゲン美術館。

人はときに、あるいはしょっちゅう自らでどうしようもないイヤな一面を持ち合わせていることを自覚する。この代表的なものが嫉妬で、生存本能から来ていることがすぐにわかる。仏教では無明と呼び、日常の食欲や性欲、睡眠欲などの欲望の更に奥に潜むものとする。つまり無明とは嫉妬のことだと理解している。あるいは嫉妬を含む根源的にイヤな性癖を言うのかもしれない、

これは今のところ代表例として嫉妬しか思い浮かばない。(世の無残な犯罪事件を眺めるとそれ以外も色々思いつくかもしれないが、整理するとそういくつもないだろう)

こんなものだけが我々を根源的に支配しているのであれば確かに厭世思想に陥りそうだ。しかしそう落ち込むこともなさそうだ。ショーペンハウアーが達したキリスト教的な共苦の世界があり、さらに大乗の救済思想もある。大乗の救済思想とは他への救済が嫉妬を含む根源的な性癖の一種だとするものと理解している。共苦の世界と同質のものだ。さらには我らが神道系の一切の草木に神が宿るとする八百万の神の思想もある。神を我々を根源的に支配しているものと考えれば、捨てる神あれば救う神ありで、二つの面を持つのだろう。バリのヒンドゥでも同じで、創造、維持、破壊の三神がいる。ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの3柱は、宇宙の創造、維持、破壊を司り、当然我々の根源にもこのブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァに対応する性癖が潜んでいる。

一筋縄ではいかないこの嫉妬はヒンドゥ的に言えば破壊の神のなせる業だろう。創造と維持こそが大事なのだがここではともあれ嫉妬に焦点をあて、文学の関係を少し追ってみることに。

源氏物語 嫉妬を描く物語
瀬戸内寂聴だったか、皇室ゴシップを流行作家がかいたものだと思って読むとよいと書いていた。島田雅彦はエロ本でもあるとBS放送の歴史もので語っていた。現代から見てほとんど興味の持てない話題も延々と続き、やれやれ又もや女の話かとなかばうんざりしながら読み進めると、はっとする表現に出会う。俗の極みにある光源氏の所業の中にところどころはっとする聖なる表現があり、近親相姦(光源氏と藤壷宮の関係は厳密な意味では近親相姦に当たらず、背徳)に近いドロドロの煩悩即菩提の物語が過去千年の読み手を魅了してきたのだろう。

源氏物語は光源氏のみが主人公ではなく色男に翻弄された女の嫉妬の物語とも読めると気が付いた。色男は絶世の美男で、音楽、絵画、舞踏どれをとっても女を引き付ける。だからこそいろいろな女が登場し、それぞれの嫉妬と救済を描けるのだ。光源氏は女を描く触媒なのだ。嫉妬こそ自らではどうしようもない無明の根源であり、煩悩の源であることを描きつくした物語と言える。嫉妬のさまざまな本質が明らかになる。

源氏物語の女は源氏の愛人に嫉妬する。嫉妬は人間の煩悩のなかでももっとも厄介なもので、無明にもっとも近いところにある。源氏物語は煩悩の最も深いところにある嫉妬とその浄化を仏教に求める物語だとも読める。

近親相姦的背徳と嫉妬は文学的に近い位置に有ることも理解できる。


村上春樹の「海辺のカフカ」ではカフカの保護役である大島さんが生霊について以下のように語る。
それは〈生き霊〉と呼ばれるものだ。諸外国のことは知らないけれど、日本ではしばしばそういうものが文学作品に登場する。たとえば『源氏物語』の世界は、生き霊で満ちている。

生き霊というのは怪奇現象であると同時に、すぐそこにあるごく自然な心の状態だった。そのふたつの種類の闇をべつべつに分けて考えることは、当時の人には不可能だっただろうね。

「海辺のカフカ」の主人公カフカが香川県のとある場所で失神していたが、その同じ時刻に東京で何者かに殺された父親の返り血がついていた。

カフカの母親が図書館の女と同一人物かどうか、最後まではっきりとは書かれていないがどうもそうらしい。源氏物語では源氏は義理の母親藤壺と交わるが海辺のカフカではカフカは実の母親を思わせる女と交わる。

神も嫉妬する

舞い手が歌うところなどは、極楽の迦陵頻伽の声と聞かれた。「神様があの美貌に見入ってどうかなさらないかと思われるね、気味の悪い」

紅葉賀                          

神様があの美貌に見入ってどうかなさらないかとの表現は神も嫉妬することが前提になっている。嫉妬は自らと同等と考える相手にのみ働く。神が光源氏に嫉妬するのではないかとふと疑念を思わせるほど光源氏が神に近いことを示す。光源氏は嫉妬を引き起こす触媒であり原因者だ。また彼が嫉妬の対象にもなる。

桐壷帝は藤壺を光源氏に奪われて子まで作られても光源氏に嫉妬しない。桐壷帝は人の世では並び無きものであり嫉妬は同等のものに働くので光源氏が嫉妬の対象にはならないのだ。

光源氏は嫉妬する。女三宮を奪った男、柏木を衰弱死させる。もともと女三宮と光源氏はお互いに恋心はなく、気持ちの通わない間柄である。柏木には自らに対する侮蔑に対する怒りと嫉妬が結びついた。

光源氏は嫉妬されない

「どうしたのだ。気違いじみたこわがりようだ。こんな荒れた家などというものは、狐などが人をおどしてこわがらせるのだよ。私がおればそんなものにおどかされはしないよ」 と言って、源氏は右近を引き起こした。

「気味悪い家になっている。でも鬼なんかだって私だけはどうともしなかろう」と源氏は言った。

光源氏はなぜか自身には霊の災いが及ばないと自信を持っている。嫉妬は同等のものを襲う。光源氏は帝以外は上位のものはいず、同等のものはいない。帝は神以上の存在であり嫉妬しない。従って自身には霊の災いが及ばないと思っていたのだろう。実は神が嫉妬していたのだが。

源氏を形どった物を作って、瘧病(わらわやみ)をそれに移す祈祷をした。

ところが光源氏への呪詛はそんなに激しくない。瘧病をそれに移す祈祷をする程度で回復する。

奪われる嫉妬がすごい

桐壺の更衣へ休息室としてお与えになった。移された人の恨みはどの後宮よりもまた深くなった。桐壺 

欲しいものが手に入らないよりも持っているもの(休息室)が奪われる嫉妬がすごい。

どんな呪詛がおこなわれるかもしれない・・・右大臣の娘の弘徽殿の女御などは今さえも嫉妬を捨てなかった。                                      

弘徽殿

桐壺帝の右大臣の娘で、桐壺帝がまだ東宮であった頃入内した最初の妃。第一皇子(東宮、後の朱雀帝)と皇女二人(一品宮と斎院)をもうける。後宮で最も格の高い弘徽殿に住まい権勢を誇ったが、桐壺帝の寵愛を桐壺更衣に奪われたことで、更衣の死後も忘れ形見である光源氏を激しく憎んだ。とりわけ、東宮の妃にと希望していた葵の上と妹朧月夜の二人を源氏に奪われたことに憤り、葵の上の死後に右大臣が朧月夜と源氏を結婚させようとした時も、猛反対して許さなかった。
桐壺更衣に生き写しの藤壺に対しても、源氏が藤壺に懐いたこともあって強い敵愾心を抱く。後に藤壺が皇子(後の冷泉帝、実は源氏の子)を産んで中宮に立った時、次期帝の生母である自分を差し置いての立后にひどく憤慨した(「紅葉賀」)。by wiki

知らぬ間に生き霊に
葵夫人は物怪がついたふうの容体で非常に悩んでいた。修法や祈祷も大臣家でする以外にいろいろとさせていた。物怪、生霊というようなものがたくさん出て来て、いろいろな名乗りをする 

10年後(源氏22歳)にようやく懐妊、周囲は喜びに沸き、源氏も悪阻の苦しさに心細そうな葵の上の様子に珍しく愛しさを感じた。折りしも時は賀茂祭(葵祭、4月 (旧暦))、周囲に勧められるままに賀茂斎院の御禊の見物に行ったところ、図らずも家来が源氏の愛人の六条御息所の家来と車争いし、御息所の牛車を壊し恥をかかせてしまう。この頃から葵の上は物の怪に悩まされて臥せるようになり、床を見舞った源氏の前で彼女に取りついた御息所の生霊が姿を見せるという事件が起きた。8月の中ごろに難産の末夕霧を産み、ようやく源氏とも夫婦の情愛が通い合ったと思うもつかの間、秋の司召の夜に急に苦しんで呆気なく他界。by wiki

そうじゃありません。私は苦しくてなりませんからしばらく法力をゆるめていただきたい 

私はこんなふうにしてこちらへ出て来ようなどとは思わないのですが、物思いをする人の魂というものはほんとうに自分から離れて行くものなのです

自身が失神したようにしていた幾日かのことを、静かに考えてみると、着た衣服などにも祈りの僧が焚く護摩の香が沁んでいた。
不思議に思って、髪を洗ったり、着物を変えたりしても、やはり改まらない。

苦しいのであれば生霊になって出ていかなければよいと思うのだが、上述の引用はいずれも六条の御息所自身の意志では嫉妬つまり無明はどうにもコントロールできないことを語っている。

嫉妬はあさましい

夫人はすっかり六条の御息所になっていた。源氏の否定してきたことが眼前に事実となって現われているのであった。その人はますます御息所そっくりに見えた。あさましいなどという言葉では言い足りない悪感を源氏は覚えた。

生霊が葵夫人に乗り移る描写だが、あさましいなどという言葉では言い足りない悪感つまり嫉妬をこの世でもっとも醜いものと感じている。

ところにすむ霊も嫉妬

不気味(ぶきみ)な眠りから覚まさせようとするが、夕顔のからだは冷えはてていて、息はまったく絶えているのである。 夕顔  

葵、夕顔と愛する女が次々に六条の御息所の生霊の犠牲になる。もっとも、池田弥三郎氏はこの霊を六条の御息所の生霊とは考えなかった。

源氏が六条に恋人を持っていたころ、御所からそこへ通う途中で、だいぶ重い病気をし尼になった大弐の乳母を訪たずねようとして、五条辺のその家へ来た。

八月の十五夜であった。明るい月光が板屋根の隙間すきまだらけの家の中へさし込んで、狭い家の中の物が源氏の目に珍しく見えた。(源氏物語 与謝野訳より)

こう書いておけば、当然、六条河原の院を思い浮かべたであろう。「今昔」その他に伝えられた川原院の怪異は・・・世間にその怪異が取りざたされていたのは、『源氏」が書かれていたときであったとみていい。 池田弥三郎著「日本の幽霊」p105

わざわざ平生の源氏に用のない狩衣かりぎぬなどを着て変装した源氏は顔なども全然見せない。(源氏物語 与謝野訳より)

夜半に顔を隠すことは神になることで、その効果は一番どりの鳴く時刻まで続き、その当時の盆踊りなどにその習慣をみることができると池田氏は書いている。

十時過ぎに少し寝入った源氏は枕まくらの所に美しい女がすわっているのを見た。「私がどんなにあなたを愛しているかしれないのに、私を愛さないで、こんな平凡な人をつれていらっしって愛撫なさるのはあまりにひどい。恨めしい方」 と言って横にいる女に手をかけて起こそうとする。こんな光景を見た。苦しい襲われた気持ちになって、すぐ起きると、その時に灯が消えた。不気味なので、太刀を引き抜いて枕もとに置いて、それから右近を起こした。右近も恐ろしくてならぬというふうで近くへ出て来た。(源氏物語 与謝野訳より)

源氏はせめて夢にでも夕顔を見たいと、長く願っていたが比叡で法事をした次の晩、ほのかではあったが、やはりその人のいた場所は某院で、源氏が枕もとにすわった姿を見た女もそこに添った夢を見た。このことで、荒廃した家などに住む妖怪が、美しい源氏に恋をしたがために、愛人を取り殺したのであると不思議が解決されたのである。源氏は自身もずいぶん危険だったことを知って恐ろしかった。(源氏物語 与謝野訳より)

これが光源氏の解釈である。・・・頭のいい光源氏が、六条の御息所の生霊だろうかということなど、全然思い及んでいないのである。・・・これは六条の御息所とは見ずに、場所にでる妖怪と見た方が合理的である。 池田弥三郎著「日本の幽霊」p109

このように六条の御息所の生霊ではないとしている。しかしところにすむ霊もやはり嫉妬するものであることは同じである。

愛欲地獄がなぜ不滅の物語に

源氏物語は光源氏の華麗だがどろどろした愛欲の地獄、つまり無明を法華経信仰で癒す物語だ。光源氏が自らをコントロールできない欲望つまり無明があり、その欲望の達成の後に底深い悩みが自にも相手の女にも出来する。

義理の母とその子にまで姦通するという愛と数多の不倫は庶民の世界では目も当てられぬ地獄であるが、美貌と才能それに高い位階と資産に恵まれた光源氏の貴族の世界ではその愛欲地獄も華麗な美と化す。神と悪魔がせめぎ合う場で美が現出する。

こうした無明は一般庶民の食うや食わずの生活ではまず生じない。まれにあったとしても悲惨な結末が見えていて、見苦しく薄汚くておよそ美を演出する物語にはならない。天皇の皇子であり、臣下として最高の栄誉を誇るからこそ生じる無明であり、財力で女たちに思いやりを示すことも生活を救うことも可能になる。出家して法華経信仰に頼ることで懺悔滅罪の物語も可能になる。庶民では見苦しくて暗くておよそ物語にはならないテーマも、天皇の皇子である光源氏というこの上ない天上人だからこそ、物語の秘密である虚が作用して奇跡的に人々を魅了する。

仏教でいうところの無明を華麗な美と化して、神と悪魔がせめぎ合う場での美を現出する舞台設定はこれ以外に考えられないほど見事である。それは腐臭を放つ屍を前にして焚かれる香で消すばかりか反対に幽玄の世界にいざなうようなものだろう。源氏物語のあちこちで焚かれる香は俗臭を消すための舞台装置でもある。 

俗臭は煩悩がそのままあらわに出たものであり、不快であり人に嫌悪感を催すが高度に洗練されると快となる。不快な臭気をもつが希薄にすると芳香を示すものにスカトールがありジャスミン系の香水にも調合される。グレングールドのピアノもきわめて微妙な乱調が美になる。美の秘密はこんなところにある。

この源氏物語も地獄に落ちた女人たちは出家し法華経の功徳により救われる。物語は言葉による力で俗臭を消して人を救済するものだと納得できる。光源氏の得意な琴や管弦さらには青海波の舞も絵画も同様に俗臭を消す。美は俗臭を消すものであり、そうすると源氏物語の法華経も青海波の舞踏も六条で催される管弦の宴も得意な絵画も空焚きの香もすべて美の中に包含され、俗臭つまり生々しい煩悩が美に転化する。

神様があの美貌に見入ってどうかなさらないか

光源氏の美しさの描写は源氏物語のいたるところにある。神様があの美貌に見入ってどうかなさらないかと思われ美貌ゆえに女性から愛され、本人の色好みも相まって愛欲の無明に陥りやすい。究極の美貌として設定することで女たちの嫉妬の妥当性を支える。

舞い手が歌うところなどは、極楽の迦陵頻伽の声と聞かれた。「神様があの美貌に見入ってどうかなさらないかと思われるね、気味の悪い」 紅葉賀

美声と美貌、特に美貌の表現は現代でも通じる究極の表現ではと思う。迦陵頻伽は人間の女性の上半身と鳥の下半身を持ち美声で啼く。

人よりはすぐれた風采のこの公子も、源氏のそばで見ては桜に隣った深山の木というより言い方がない。

この時代も桜は群を抜いた美の象徴であることがわかる。
 
こうした喪服姿はきわめて艶である。

人生の悲哀の中に包まれて泣く源氏の姿は、そんな時も艶であった

喪中の人の用いる巻纓であった。こうした姿は美しい人に落ち着きを加えるもので艶な趣が見えた。

この夕方の家の中の光景は寒気がするほど悲しいものであった。無紋の袍に灰色の下襲で、冠は喪中の人の用いる巻纓であった。こうした姿は美しい人に落ち着きを加えるもので艶な趣が見えた。

 喪服姿の光源氏の美に着目する作者紫式部。死の穢れまでも吹き飛ばしてしまう源氏の美貌を表現するのに喪服ほどふさわしいものはない。紫式部は喪服姿の光源氏の美で愛欲地獄を浄化している。

嫉妬が無明の地獄を強調する

男の愛欲の奥に控える無明によって女の嫉妬が引き起こされるという非常にわかりやすい展開になっている。光源氏の父桐壷帝も桐壺の更衣に対する愛欲ゆえに後宮の女たちの猛烈な嫉妬を引き起こす。父桐壷帝から子光源氏へと無明は伝搬していくかのようだ。嫉妬を描くことで愛欲地獄のすさまじさを描き、作者が描きたい救済つまり浄化に対するコントラストを強めていく。

桐壺の更衣へ休息室としてお与えになった。移された人の恨みはどの後宮よりもまた深くなった。 桐壺 

嫉妬は2種類ある。他人がもらうことへの嫉妬と、自分のものが奪われる嫉妬で、当然後の方が度合が強い。自分の休息所が奪われる、自分の身分なら当然受けるはずの寵愛が受けられない、これらは同質の嫉妬で並みの嫉妬よりも凄まじいものとなる。六条御息所の嫉妬も弘徽殿の女御の嫉妬もこの自分のものが奪われる嫉妬になる。

どんな呪詛がおこなわれるかもしれない・・・右大臣の娘の弘徽殿の女御などは今さえも嫉妬を捨てなかった。 桐壺 

葵夫人は物怪がついたふうの容体で非常に悩んでいた。修法や祈祷も大臣家でする以外にいろいろとさせていた。物怪、生霊というようなものがたくさん出て来て、いろいろな名乗りをする

六条の御息所自身も自らが生き霊に(意識してなっているのではない)なっている。葵の上に乗り移った生霊が次の台詞をはく。

そうじゃありません。私は苦しくてなりませんからしばらく法力をゆるめていただきたい

私はこんなふうにしてこちらへ出て来ようなどとは思わないのですが、物思いをする人の魂というものはほんとうに自分から離れて行くものなのです

自身が失神したようにしていた幾日かのことを、静かに考えてみると、着た衣服などにも祈りの僧が焚く護摩の香が沁んでいた。不思議に思って、髪を洗ったり、着物を変えたりしても、やはり改まらない。

夫人はすっかり六条の御息所になっていた。源氏の否定してきたことが眼前に事実となって現われているのであった。 その人はますます御息所そっくりに見えた。あさましいなどという言葉では言い足りない悪感を源氏は覚えた。

生霊が葵夫人に乗り移る描写。

不気味な眠りから覚まさせようとするが、夕顔のからだは冷えはてていて、息はまったく絶えているのである。 夕顔 

夕顔も生霊の犠牲に。

六条の御息所の生霊が葵の上にとりつき、殺す。夕顔を殺し、さらに御息所が死んだあとは死霊となって紫の上をも殺す。六条の御息所自身は穏やかで気品のある女性であり、嫉妬するという自覚は持たない。しかし無自覚の嫉妬が生霊あるいは死霊となって勝手にさまよい出て3人もの女を殺す。欲望のさらに奥にあるといわれる無明としか言いようのないものを六条の御息所の生霊、死霊によって描きだす。

仏教でいうところの無明を物語として表現するのにこれ以上の状況設定はないなと思う。

男は女への嫉妬を肩代わりすることで救う

六条御息所の光源氏への嫉妬の呪詛はそんなに激しくない。程度で回復する。嫉妬の怒りは与えるほうではなく与えられる方に、つまり女に向く。

『積年の怨みを源氏に酬いるのはこれからであると烈しい気質の太后は思っておいでになった。』

『源氏を形どった物を作って、瘧病をそれに移す祈祷をした。』源氏にはこの程度の災いで済む。

男は女への嫉妬を肩代わりすることで救う

六条御息所の光源氏への嫉妬の呪詛はそんなに激しくない。程度で回復する。嫉妬の怒りは与えるほうではなく与えられる方に、つまり女に向く。

『積年の怨みを源氏に酬いるのはこれからであると烈しい気質の太后は思っておいでになった。』

『源氏を形どった物を作って、瘧病をそれに移す祈祷をした。』源氏にはこの程度の災いで済む。

 

ロング・グッドバイ

レイモンド・チャンドラー作ロング・グッドバイの殺人事件でも女は夫である作家よりもテリーの妻を最初に殺す。(もっとも後で作家をも殺すことになるのだが)

恋しい人のためには濡衣でさえも着たがる者があるのであるから、弁解はしようとしなかった。 

レイモンド・チャンドラー ロング・グッドバイのテリーも妻を殺害した女をかばうために濡れ衣を着る。濡れ衣は1000年の昔から東西を問わずに恋を表現するが嫉妬をも肩代わりする。つまり男が救済者になる。

嫉妬されブラックマジック

家を新築して、皆が集まってくるときには「この新しい家を惨めな汚い小屋だといったが、いうまでも無くこれは良き礼儀の命ずるところに従ったのである。」とある。過度な謙遜は日本だけかと思ったがそうではない。バリにもあった。さらに嫉妬を恐れる心根だろう。家を新築したら他人に嫉妬されブラックマジックをかけられるという話をバリ人からしばしば聞いた。(知人のバグースから故郷のシンガラジャでのエピソードを聞き、他の一人は小柄な初老のガードマンだった)

パリ テキサス

ビム・ベンダース監督の出世作「パリ テキサス」を観る。

1.ジェーン役のナスターシャ・キンスキーしか知っている役者はいない。主人公のトラビス、弟、弟の妻アン、トラビスの息子ハンターそれぞれ渋い役者で固めている。もっとも息子ハンター役は渋いというのは不適切で、感性豊かで知的な子供にふさわしい風貌をした金髪の子役だ。芸名も同じハンターという。

2.トラビスがテキサスの砂漠を精神を病んだ状態でどこかに向かっている。どこかのモーテルで氷を口に入れたまま倒れる。しわの深い髭の濃い顔はゴッホの風貌に似ている。監督はゴッホを意識してこの俳優を起用したのではないかと思ってしまう。

3.ゴッホも狂的な愛に囚われた人で、このトラビスも同様に狂的な愛で自らと周囲を破壊していく運命の人だ。この映画で愛と嫉妬は裏表の実は同じものであることを描こうとしている。愛も激しすぎると嫉妬の炎で自らも周りも焼き尽くす。このあたり、幼児を観察していると大変よく分かる。例外なく周りの幼児達はなんの遠慮もなく母親への愛と嫉妬を正直に表現する。もうすこし年齢が進むと分別で嫉妬を抑えるのだろうが、2,3歳では嫉妬は本能そのものだ。

4.人間にあるいはもっとほ乳類にとって大切なかけがえの無い愛情がときには不幸の原因になるのはこの嫉妬が背後に控えている為だと言うことをこの映画は実によく示している。愛と嫉妬は実にやっかいなものなのだ。

5.トラビスは妻ジェーンを愛する余り片時もそばを離れられない。そのため生活費にも困る。妻は子供を抱えて苦情を言う。トラビスは働きに出るが勤務時間帯さえ妻への嫉妬妄想に悩む。他の男と一緒にいるのではないかとの妄想がひどく、その妄想から逃れるために「たちの悪い」酒におぼれる。

6.トラビスは自ら嫉妬妄想に狂うが、ジェーンにも自分への嫉妬を要求する。しかしジェーンは嫉妬するよりもむしろ冷めていく。その結果は親子三人の別離へと進むことになる。トラビスは嫉妬のために頭が溶解して記憶喪失状態になる。ジェーンは息子ハンターをトラビスの弟に預けてのぞき部屋で働き、仕送りをするはめになる。

7.トラビスは4年後に再会した息子ハンターとジェーンを探す旅に出る。いかがわしいのぞき部屋ではたらくジェーンにトラビスはマジックミラー越しに会う。ここでも嫉妬妄想の片鱗を見せる。ジェーンがここで体を売っているのではないかと探りを入れる。このシーンでトラビスは少しも嫉妬妄想癖が治っていないことを示す。骨がらみの嫉妬妄想だ。同時に、トラビスは自らの嫉妬妄想が有る限り、家族と一緒に住めないことを悟るのではないか。

8.息子ハンターとジェーンをヒューストンのメリディアンホテル1520号室で引き合わせて自らは去っていく。愛と嫉妬を描いた傑作に違いない。

 

嫉妬は自覚不能、制御不能

嫉妬は意識せずに起こる場合もある。そしてその場合のほうが強烈であるらしい。次の引用にあるほとんど自覚不能、制御不能の根本的生存欲そのものではないか。

ここでゴータマ・ブッダは大きな発見をした。すなわち、輪廻のメカニズムの起点は欲望ではなく、さらにそれをもたらす、ほとんど自覚不能、制御不能の根本的生存欲が奥底に控えていることを発見したのである。インド哲学七つの疑問」 宮元啓一 p114

嫉妬は同等のものへ

バリ島でもブラックマジックは多くの場合、嫉妬が原因でかけられる。男女関係の嫉妬の話は聞かなかったが、隣が家を新築したとかでブラックマジックをかけられた話は2度ほど聞いた。外国人にはかからないとも言われた。同等とみなされていないからだろう。ただしコリンウィルソンの著作の中で白人がお手伝いの女にマジックをかけられる話がでてくる。この外国人は土着化したためだろうか。

グレート・ギャツビー

スコット・フィッツジェラルド「グレートギャツビー」でもトムの愛人がトムの夫人にはねられて死ぬ。これも生霊ではないがトムの夫人の無意識が事故を引き起こすとも読めるが、レイモンド・チャンドラーはそんな自覚的な意識もなく書いているのだろう。

ねじまき鳥クロニクル

村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」でも主人公がクミコの兄ノボルを撲殺する。これもユミ子におぞましい仕打ちをするがノボルにこだわるクミコを挟んでのノボルへの嫉妬による。

長いお別れ

レイモンド・チャンドラー「長いお別れ」でもアイリーン・ウェイド - 小説家ロジャー・ウェイドの妻がシルヴィア・レノックス - テリー・レノックスの妻を惨殺することが物語の中心になる。

カラマーゾフの兄弟

グリーシェンカとカテリーナ相互の嫉妬が物語を進める。カテリーナがミーチャを罪に陥れる決定的な嘘の証言はミーチャがグリーシェンカへ父の借金依頼の場面をしゃべったことへの嫉妬の現れであり、カテリーナが逮捕されたミーチャを守るのも嫉妬の現れ。このように女の嫉妬は女に向くがミーチャの母親を挟んでのミーチャの父への嫉妬も男の嫉妬が常に男に向くことを表現している。

 

ふと耳にした会話

「わたしと付き合わないほうがよいとかいってるのよね・・・」なんとも女子らしい嫉妬をあからさまにした会話。男子は気恥ずかしくてなかなかこういった会話はできない。

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