まさおレポート

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フォト&幻想 AIは世界を認識できるか

2017年10月03日 09時15分12秒 | 日常の風景・ニュース

AIロボットはクオリアは生じている? 2017/10/03追記 

100年後の世界に向けた哲学 金井 良太 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52863?page=7

リプソン教授:すでに、ディープラーニングで物体認識をするときにはクオリアは生じているのではないか思います。ディープラーニングの低次のレイヤーのニューロンは、ネットワークの経験によらず同じようなものがいつも現れます。線分や円などの単純なパターンを認識するニューロンです。

一方で、高次のニューロンも、経験の内容によらず似たような結果になります。どのネットワークも犬や猫やバスといったカテゴリーを認識するようになります。つまり、一番低次と一番高次の部分はどんなネットワークでも同じようなものができあがります。

しかし、中間のレイヤーは全然違い、主観的です。犬や猫、線分や円などについては誰もが同意することができます。しかし、ネコの毛並みのフワフワな感じや動物の形の感じなど中間的なものについては感じ方が違うでしょう。これらは、高次でも低次の特徴でもありません。この中間レベルの感覚がクオリアなのだと思います。

チョコレートの味を言葉で表すのは難しいですし、赤ワインの味なんてものもそう。こういった質的な感覚は経験が生じたときに、自分の過去の経験を元に認識します。しかし、これを他人に伝えるのは難しいのです。

ニューラルネットも同じような過程を経ていることがわかります。ニューラルネットでも中間レベルにあるニューロンは、他の部分よりもそれぞれ特徴的で、別のネットワークに移植するのが難しいものを表現しています。私の考えでは、こういったものが機械にとっての主観的感覚を成しているのではないかと思うわけです。

このクオリアを認識する中間レベルにあるニューロンが認識主体だとすると、これがインド哲学で世界外存在としてきた認識主体にとってかわるものだろうか、それこそ私の中間レベルにあるニューロンはそうではないと判断している。例えば写真をみて懐かしいと感じる心はAIもシミュレートできる日が100年後に来るとして、シミュレートしたからといって認識主体といえるか、そうではないだろう、このクオリアの認識主体は砂漠のオアシスの蜃気楼のごとくどこまでいっても不可知な領域である「私」であることに変りはない。

 脳科学の人はシンギュラリティについて、「そんなバカなことを言うな」って考えています。松岡聡・東京工業大学学術国際情報センター教授

AIは自生、自己を理解する領域に達することができるのか

技術的特異点を突破したとされるAIは自己を理解する領域に達することができるのだろうか。

「私」を確定的にこれだ言えるようなもの「私」という言葉以外にその根拠となるものを考えるにあたってはジュリア・トノーニのΦ(ファイ)理論が有効らしい。脳は意識を生み出すが、コンピューターは意識を生み出さない、その両者の違いを「統合情報理論」で説明するという。皮相的な理解しかしていないが何かありそうな予感もする。

AIは自生や空に対してどのような絵を作り出すのだろうか。

言葉、知識、情報、データ、メッセージを人工知能では関連リンクをふやして対処しようとする。第五世代コンピュータはこのリンクの多さで挫折した。フェルディナン・ド・ソシュールの「記号のシステム」「シニフィエ」(概念)と「シニフィアン」(名前)を先ほどの絵にするAIに適用すれば第五世代コンピュータの挫折は新たな方向性を見出しそうだ。

しかしながら概念に絵つまりシンボルを割り当てることは、事物に絵を割り当てるよりも困難が伴うだろう。エリアーデは神の発生にまで立ち戻らないとわからないものといいカール・ユングは集合的無意識、フロイトはコンプレッックスの中に畳み込まれたもの、ホワイトヘッドは認識作用のプロセスまるごとの中に作用しているもの、チャールズ・サンダース・パースは記号そのものの本質が受けもつもの、ジャック・ラカンはシンボルは「自己」の内部の鏡像過程に生じているなどとしている。(いずれも松岡正剛の千夜千冊より) 

AIは空や縁起に果たしてどのようなシンボルを描くのだろうか。曼荼羅風のものになるのかあるいは???か。

AIは言語外世界を認識できるかを宮元氏によるインド哲学的な自己から考えると世界外存在は言語外世界となり絵による理解に一筋の道が見える。

自己の背後に「霊」「魂」のような実体して捉えるウパニシャッドのアートマンの考え方はブッダによって否定された。 では自己とは何か。宮元氏によると自己は、倫理的な行為を為す主体とその行為の結果を享受する主体であるとし、あらゆるものごとに実在性を与える根源であるとされる。

①「ヤージャナヴァルキヤ(紀元前8~7世紀)は、・・・地の中に住し、地とは別ものであり、地が知らず、地を身体とし、地を内部で統御しているもの、これがなんじの自己であり、内制者であり、不死なるものである。

②水の中に 火の中に 中空の中に 風の中に 天の中に 太陽の中に 方角(空間)の中に 月と星宿の中に 虚空の中に 闇の中に 光の中に(ここまでは宇宙的環境をなす要素である。仏教でいえば、器世間 生き物がいきる器としての環境世界をなす要素だといえる。万物の中に 仏教でいえば有情世間)・・・気息のなかに(生命エネルギー) 発声器官のなかに( 行為器官) 眼の中に(感官) 耳の中に(感官) 意の中に(心という内官) 皮膚の中に(感官)・・・認識の中に(感官と心という内官により生じた認識作用) 精子の中に(行為器官)・・・

ヤージャナヴァルキヤは、自己は、これらすべてのなかにあるけれども、それらとは異なるものであり、それらを内から照らすものだといっている。p94

③なお、紀元後4世紀にヴァスパンドゥ世親によって完成された唯識論では、・・・じつは本質的にはほとんど有我説なのである。p96

④認識主体は認識対象とはなりえない、という意味で自己はしりえないといっているのである。p99

⑤紀元後8世紀の不二一元論(幻影論的一元論)の開祖シャンカラが・・・なぜなら、(認識しようとする欲求が)認識主体を対象とすると、認識主体と、認識しようとする欲求とは、無限後退するという論理的過失に陥るからである。p99

⑥シャンカラ(8世紀)は・・・自己が存在することは否定できないから、「に非ず、に非ず」といって・・・「これはわたくしではない、これはわたくしではない」といったふうにして、自己に到達するのである。p103

「比丘たちよ、色は無常である。無常なるものは、苦である。苦であるものは、自己ならざるもの(無我)である。自己ならざるものは、『これはわたしのものでない、これは、わたしではない、これは、わたしの自己(本体)ではない』と、このように、ありのままに、正しい智慧によって見るべきである。」(『サンユッタ・ニカ-ヤ』三五・四)

経験・観察できる世界に対しては、諸法無我 人間存在(色・受・想・行・識)はすべては無我でアートマンではない 経験・観察できない世界に対しては「アートマンがある(ない)」「死後の世界もアートマンは生き残る(らない)」などという主張はおろかであるとして無記の立場.

⑦世界は自己をみることがない。幻影の世界を成り立たせている無明(根本的無知)が取払われたとき、世界は消滅し、自己のみがひとりのこる。・・・唯識説までいって、仏教は開祖ゴータマ・ブッダを飛び越えて、はるか昔へ先祖帰りしてしまったのである。p106

⑧古代ギリシャ哲学では、自己の問題は魂の問題であった。そしてその魂は記憶をもつとされる。プラトンもいっているように、魂がイデアに憧れるとは、魂によるイデアの追憶にほかならない。p108

⑨輪廻説は・・・因果応報思想に論理的に支えられて、紀元前8世紀ごろに、インドの宗教、哲学の前提となる考え方として確立された。・・・輪廻説が確立すると同時に、輪廻からの永遠の脱却、つまり解脱を求める人々が現れ、出家となり、さまざまな宗教、哲学を唱えた。p112

「因果を認めるということは、因果応報、自業自得の原則を認めることですから、倫理的な行為を為す主体とその行為の結果を享受する主体とは同一にして不変でなければなりません。この主体こそが自己なのです。」(p.104)

「因果を認めるということは、因果応報、自業自得の原則を認めることですから、倫理的な行為を為す主体とその行為の結果を享受する主体とは同一にして不変でなければなりません。この主体こそが自己なのです。」(p.104)

龍樹の『因縁心論』で月と池に映る月、声とこだま、印と印章の比喩にある、同一であるものでも異なるものでもないとあり「同一にして不変」は不生不滅・不常不断・不一不異・不去不来の八不中道と反しているのではないかとの説があるがどうだろうか。

「自己は、まさに自己反省的自己あるいは自己完結的自己ですから、あらゆるものごとに実在性を与える根源であって、現象として現われることはありません。」『仏教かく始まりき:パーリ仏典《大品》を読む』 (p.181)

⑩ゴータマ・ブッダも6年間の修業時代の初めの一時期、思考停止を目指す瞑想に打ち込み、いとも簡単に最高の境地に達したが、瞑想をやめればまた欲望がでてくることに疑問を憶え、それをやめて苦行へと向かった。しかし、ゴータマ・ブッダはいくら激しい苦行をしても、苦しみに耐える力はついても、苦しみを永遠に消すことができないことに気づき、苦行もやめた。・・・ここでゴータマ・ブッダは大きな発見をした。すなわち、輪廻のメカニズムの起点は欲望ではなく、さらにそれをもたらす、ほとんど自覚不能、制御不能の根本的生存欲が奥底に控えていることを発見したのである。輪廻のメカニズムは、つぎのように改められた。・・・輪廻←善悪の行為←欲望←根本的無明・・・智慧のみが解脱をもたらすことを発見したゴータマ・ブッダは、徹底的に思考を深める瞑想に入り、短時日のうちに目覚めた人、ブッダとなり、解脱して永遠の安楽である涅槃の境地に入った。p114

つまり輪廻の主体が自己であり無明をもつものとした。輪廻の主体は我(自己)であり、そのなかで無明を取り払った核の部分があると認めることが如来蔵思想だと理解した。我と如来蔵を宮元氏は世界外存在と呼んでいる。

世界外存在は言語外世界

『マッジマ・ニカーヤ』第121経で釈尊は、「空」と「空性」の境地を明確に区別し語り、「空性」という言葉を使う時には、「空」ということを一切におよぼしたときの悟りの境地として語っています。

釈尊は、『スッタニパータ』で解脱の境地を、「想い(サンニャー)を想うものではなく、想いを離れて想うものでもなく、想わないものでもなく、虚無を想うものでもない。―このように知ったものは、色形を滅する。というのは、想いを原因として、多様な言語世界(パパンチャ)の名称が起こるからである。」(874)

龍樹も『中論』の中で、「行為と煩悩が滅するから、解脱がある。行為と煩悩は、思慮分別によって起こる。これらは、多様な思い(プラパンチャ)にしたがってあるが、多様な言語・表象世界(プラパンチャ)は空性(シューニャター)の中に滅するのである。」(18.5)

「瞑想するに応じて正しく考察するならば、それ(万物)を正しく観ずる人にとっては、〔万物は〕実体なく、空虚である。」(『サンユッタ・ニカーヤ』)

参考

 絶芸は中国のインターネット囲碁サイト「野狐(のぎつね)」で、非公式ながら世界トップ級の棋士を倒す強豪AIとして知られていたが、UEC杯は初出場。開発チームの技術者10人は囲碁のルールも知らなかったが、わずか1年ほどで「ディープラーニング」(深層学習)による驚異の囲碁AIを開発した。

 

AI、世界最強棋士に完全勝利
05/28 01:49

世界最強の囲碁棋士対AI(人工知能)の最後の勝負。人工知能が、世界最強に完全勝利した。
中国・浙江省で行われている「囲碁の未来サミット」で、注目の人間とAIの囲碁対決最終戦が行われた。
眼鏡を外し、手で顔を押さえ、苦しい表情の中国の柯潔九段(19)。
自ら学習し、判断して進化するAI「アルファ碁」の猛攻に屈し、対局開始から3時間余りで投了。
これで、柯潔九段の3連敗となった。
世界最強からの完全勝利で、AIの飛躍的な進歩が証明された結果となった。

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