まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.所属する集団の倫理とは別に、独自の倫理観が芽生えたりするのは一体どこから来るんですか?

2016-09-15 23:38:00 | 哲学・倫理学ファック
今までこんな質問をもらったことはなかったですね。
とてもいい質問です。
言い換えれば、倫理 【学】 (=倫理に対する懐疑) はなぜ発生するのか? という、
倫理学の根幹に対する質問であると言ってもいいでしょう。
タイトルの問いはけっこう長いですが、これでもだいぶ簡略化してあります。
正しくは次のように聞かれていました。

「Q.カルト被害者の会の相談窓口の仕事を手伝いながら、看護学校に通っています。
   例えば、その集団の中で生まれて、その集団の倫理で純粋に育ったとしても、
   「何らかの被害を受ける」 と (その集団の中にいては 「被害」 と認識されないはずなのに)、
   その集団の倫理とは別に、その人の中に倫理観が芽生えたりしますが、
   それは一体どこから来るのか、とても不思議です。」

最初の文からして驚きです。
看護学校で学ぶかたわら、カルト被害者を支援する会のお手伝いもされているんですね。
ただでさえ忙しいだろうに、志の高い学生さんがいらっしゃるものだと感心しました。
その取り組みのなかで気づかれた今回の疑問というのは、
倫理や倫理学を考える上でものすごく重要な問いだと思います。
たしかに、ある集団の内部に生まれてその集団の倫理を徹底的に教え込まれて育ったならば、
その倫理に対して疑いを懐いたり、別の倫理に目覚めたりはしないような気がします。
日本でも戦前は軍国教育が盛んに行われていて、それを受けた子どもたちの大半は軍国少年となり、
「鬼畜米英」、「国体護持」 を本気で信じてカミカゼ特攻に散っていきました。

しかしながら、その中にありながらも、やはりこれはおかしいんじゃないか、
と疑問を持った人たちも少なからず存在しました。
国や軍隊や警察に対して猜疑心を持ち、
何か反抗的なことを発言すると、「非国民」 のレッテルを貼られて通報されてしまう社会の中で、
なんでこんなことをしなければならないのか、なんでこんな目にあわなければならないのかと、
真っ当な疑問を懐いてそれを発信したり (例えば与謝野晶子の歌は有名ですね)、
外に表明しないまでも自分なりの倫理観を堅持しながら生きていた人はいたのです。

なぜそういう、集団が強制する倫理とは異なる倫理を懐く人が出てくるのでしょうか?
ひとつの大きな可能性としては、知識や情報を挙げることができるでしょう。
自分が属する集団以外ではどうなっているのかという知識がいったん入ってきてしまうと、
じゃああちらとこちらとどちらが正しいのかと比べたくなってしまうのが人間の性 (さが) でしょう。
もともと古代ギリシアにおいて倫理学が発展したのも、
各ポリス (都市国家) の中だけに情報がとどまらず、
あちこちのポリスでそれぞれどんな倫理 (習慣や法) が信じられているのかという情報が、
地中海中で共有されるようになって以降のことだったと思われます。
印刷とか活字というものがまったく存在しなかった古代ギリシアですらそうだったのですから、
新聞・雑誌のみならず、ラジオやテレビといったマスメディアが発達してしまった時代においては、
ある集団が推奨する倫理以外の一切の情報を遮断して、
完全なる純粋培養で構成員全員をコントロールするというのは困難で、
どこかしらから別の知識、情報が漏れ伝わってきてしまうものでしょう。
今だったらさらにグローバル化が進み、インターネットが発達してしまっていますから、
よけいに情報をコントロールするのは至難の業と言えるでしょう。
現代においては北朝鮮などが徹底的に知識・情報をコントロールしようとしていますが、
あれだけ脱北者が出てきてしまうということは、それがどれほど難しいかを証明していると思います。
このように何か別の知識や情報が与えられることで、人間には比較することが可能になり、
そこに倫理の相対化 (自集団の倫理が唯一絶対のものでないことに気づき) が生じると思われます。

これがひとつの大きな可能性ですが、しかし私はたとえそんな情報が入ってこなかったとしても、
やはり人間は、自らが教え込まれてきた倫理を疑ったり、
それとは別の倫理観を持つようになったりすることができるのではないかと考えています。
それは人間が 「理性」 を備えているからです。
いや、理性なんていうと小難しくなってしまいますので、ギリシア語の 「ロゴス」 に倣って、
「言葉」 と言い換えてもいいでしょう。
前回話したとおり、理性というのは言葉を使って、言葉と言葉を組み合わせて考えていく能力です。
人間には言葉がありますので、現実を現実としてただひたすら受動的に受け入れるだけではなく、
それに対して 「正しい」 とか 「間違っている」 とか、「素晴らしい」 とか 「何かおかしい」、「変だ」 等と、
自分なりの価値評価を加えながら現実を受け取っていきます。
そうした評価語自体をすべて駆逐するのでないかぎり、
人間は現実を丸ごとあるがままに受け入れることはできず、どうしたって自分なりに考えて、
それが正しいのか否か、いいことか悪いことかを考えてしまうのではないでしょうか。
そして、どれほど集団の倫理を一方的に注入されていたとしても、
何かふとしたきっかけで何らかの違和感を感じ、それに言葉を当てはめていくことによって、
自分のなかの疑問がどんどんふくらんでいって、最終的には集団の倫理そのものを疑い、
新たに自分なりの倫理観を打ち立てるところまで行ってしまったりするのではないでしょうか?
脱北した人たちの中には、他国の様子を知って初めておかしいと思い始めた人もいたでしょうが、
そんな知識や情報をまったく知らなくとも、
今のこの生活は何か理不尽だと感じたり考えたりした人がいたのではないかと思うのです。
人間にはそのような 「考える自由 (=疑う自由)」 が生まれつき (誰かに教えられなくとも)
そなわっているように私には思えるのです。
というわけで、今回は次のようにお答えしておきましょう。

A.所属集団とは異なる独自の倫理観が芽生えてしまうのは、
  何らかのルートを通じて外から新しい知識や情報が流入してきたためかもしれませんし、
  あるいは、そんな知識や情報が入ってこなかったとしても、
  人間の理性は言葉を使って考えることによって、おのずと既成の倫理を疑い、
  独自の倫理を考え出してしまうという本性 (ほんせい) を持っているからかもしれません。

今回の問題は哲学・倫理学の歴史のなかでもずっと考えられてきた問題で、
未だに決着のついていない問題です。
(高校の 「倫理」 の授業のなかでは 「経験論」 と 「合理論」 の対立と説明されたりもしています。)
そのなかで私は、若干分が悪いほうの一派に属していますので、
私の答えがおおかたの哲学者・倫理学者に受け入れられているわけではありません。
ですので、今回の私の答えに納得いかない場合は、いろいろと専門書にあたってみてください。
とてもいい質問をありがとうございました。
被害者支援の活動、がんばってください。
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