まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

大学で哲学カフェ 「脳死は人の死か?」

2017-07-12 06:54:22 | 生老病死の倫理学
先週の共通領域 「倫理学」 の授業の中で哲学カフェを行いました。

一昨年から初めて取り入れて今回が2回目です (この授業は隔年開講)。

一昨年は急に思いついたため、哲学カフェのために割ける時間が30分しかなかったこと、

それしか時間がないにもかかわらずお題を、

「脳死と臓器移植をめぐる倫理学的諸問題に対してどのような価値判断を下すか」

という幅広いものにしてしまったことによって、

議論が拡散してしまってなかなか話が深まっていきませんでした。

そこで今年は最初から哲学カフェに1コマ当てることを織り込みつつ、

例年よりもこちらからの講義を前倒しで圧縮して前時までで終わらせておき、

テーマも臓器移植の問題は切り捨てて、「脳死は人の死か?」 に絞って話し合ってもらいました。

そのおかげか、けっこう突っ込んだ議論が展開されたように思います。

はじめのうちなかなか誰も話し出さなかったのは一昨年と同じでしたが、

ひとりが勇気をもって発言してくれてからは、途切れることなくカフェは進行していきました。

いつも通り、キーワードしか書き留めることはできませんでしたが、

だいたいこんな感じの議論が交わされました。



右側部分だけ拡大するとこうです。



そして左側部分。



話は右から左へと進んでいったわけではなく、あっちこっち行ったり来たりしながらでしたが、

だいたいこんな感じのことが話し合われました。

当日は哲学カフェ終了後、考えが深まったことややってみての感想を書いてもらっただけで、

私のほうからみんなの議論に対して何かコメントしたりはせずにそのまま解散しました。

みんなの感想はまた近いうちにアップしたいと思いますが、

明後日にテストがありますので、このブログを見てくれている人だけに、

テストで解答する際に気をつけてもらいたい論点をお知らせしておきたいと思います。

「脳死は人の死か?」 という問いに対してはやはり様々な答えがありうるわけで、

人の死として認めるという意見もあれば認めないという意見もあり、

また脳死の定義をどれにするかということに関しても様々だったわけですが、

それを承けて当日の議論の大勢は、脳死や人の死に関しては個人で決めていい、

すなわち、 本人や家族の自己決定に委ねられるべきだという方向に傾いていました。

もちろん、脳死の定義は全世界で統一すべきであるという意見や、

人の死に関しては社会として一義的に決定すべきだという意見も出されていましたが、

どちらかというとそれらは少数意見で、本人や家族の選択を認めるべきという意見が多かったです。

みんながそう考えたくなる気持ちは十分理解できるのですが、

それはひじょうに危険な議論だと私は考えています。

死の定義・判定の問題と死の受容の問題とを混同してしまっているように見受けられるからです。

以前に書いたことがありますが、死の定義・判定の問題と死の受容の問題は、

密接に絡み合ってはいますが、基本的には別個の問題なので、分けて論じなくてはなりません。

死亡診断は医学的・客観的な問題 (=事実判断) であり、

それ (特に家族の死) を受け入れられるかどうかというのは主観的な問題 (=価値判断) です。

事実判断が価値判断に先行していなければなりません。

価値判断に引きずられて事実判断がゆるがせにされてはならないのです。

たとえ心臓死であったとしても、家族がその死を受け入れられないということはあるでしょう。

突然の事故死や事件による死の場合は、家族はなかなかその死を受け入れられないものです。

しかし、死を受容できないからといってまだ生きているということにはならないのです。

また今回の議論のなかでは善意の家族 (本人にとっての最善を願う家族) が前提されていましたが、

この世にはそういう善意の家族ばかりではないということも念頭に置いておく必要があります。

その人の死によって遺産や保険金が手に入るからできるかぎり早い死を望む家族とか、

逆に生き続けてもらうことによって年金が入り続けるために延命を望む家族とかもいるのです。

そういう善意でない家族の価値判断によって生きてるか死んでるかが決められていいでしょうか?

人の死の問題を個人の判断 (個人の価値観) に委ねてしまうのはひじょうに危険なのです。

回復不能な状態に陥ったときに延命治療を停止するかどうかとか、

脳死になったときに臓器を提供するかどうかという問題は、

個人や家族の判断に委ねてもかまわない主観的な問題です。

しかしそのことと、生きているか死んでいるかという客観的な問題とは、

はっきりと分けて考える必要があるのです。

テストでは以上を踏まえて答えてもらいたいと思います。

もちろん、これも私の個人的な意見と言えばそうですので、

これと対立する意見 (「人の死や脳死の定義は自己決定に委ねるべき」) を書くことは自由です。

しかしながら、その場合は以上の私の主張と論拠をひとつひとつ全部覆すつもりで、

徹底的に論じ尽くしてもらいたいと思います。

生半可な知識や浅薄な感情論に基づいて答えると辛い採点になるかもしれないのでご注意を。

はてさて、このブログを読んだ上できちんと答えてくれる人がどれくらいいるか楽しみです。


P.S.

書き忘れましたが、議論のなかでは経済的負担 (家族の、ないしは社会の) を考慮した上で、

人の死は何かを決めるべきだという意見もいくつか出されていました。

これも価値判断に合わせて事実判断を変えてしまうという過ちを犯しています。

家族や社会の経済的負担を考慮して延命治療を続けるか否かを決めるということはありえます。

それは価値の問題であり選択に委ねてよい問題だからです。

(もちろんこれはこれでいろいろ問題含みではありますが…)

しかしながら、生きているか死んでいるかという医学的・客観的判断に、

経済的事情が入り込むことはあってはならないのです。

これだとお金持ちならまだ生きているけど、貧乏人の場合は死者として扱うというような、

けっしてあってはならない差別が生じてしまう可能性があるからです。

事実判断のなかに価値判断を潜り込ませないようにすること、

テストではぜひその点に十分気をつけてください。
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